アビラ村(芸術村)に邸をかまえていた、島津源吉Click!の子息である島津一郎Click!は、東京美術学校に在学中から近くに住む満谷国四郎Click!へ師事していた。1936年(昭和11)7月12日に、下落合753番地の自邸Click!で満谷が死去したのち、二十七忌日に開かれた故人をしのぶ画家たちの座談会にも、多くの先輩画家たちにまじって島津一郎は出席している。
 1937年(昭和12)に寫山荘から出版された画集、『満谷翁画譜』に収められたこの座談会は、それ以前に1936年(昭和11)発行の『美術』9月号へ掲載されたものを、改めて編集し再録したものだと思われる。以下、炭谷太郎様よりお送りいただいた『満谷翁画譜』の座談会から引用してみよう。ちなみに、文中に登場するのは成田=成田隆吉、牧野=牧野虎雄Click!、金山=金山平三Click!、藤島=藤島武二Click!、柚木=柚木久太、薬師寺=薬師寺主計、安井=安井曾太郎Click!、小杉=小杉放庵、田中=田中松太郎・・・と、当時の画界を代表する和洋画家たち16名が集っている。
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 成 田 野尻に旅行して裏表が判らなかつた話がある。
 牧 野 うん、さうさう。あれは一緒に寝て居たんだが・・・・・・。
 金 山 君のは裏表が判らぬ話だらう。僕には鼠の話があるんだよ。
 牧 野 ニタ部屋に別れて寝たが、私は満谷さんと一緒で、私は縁側に近い方へ寝たんだが、陽がいきなり部屋に入つて来ると、あの禿頭に陽があたつてゐやがる。ところがあの人の癖で頭までもぐつて寝るのでどうしても判らない、裏、表がね。(笑声) こつちにも見えるし、あつちにも見えるんだよ。そこで一体どつちが表だらうと煙草を吸ひながら見てたんだが何時までたつても目を覚さない。恰好を見たら判らうと思ふんだが----そりやまつすぐに寝てゐれば判るのだが、横に寝てゐるから裏、表が判らない。
 藤 島 実感が出るな。
 牧 野 そこで独り煙草を吸ひながら丁か半か賭けたんだ。ところが到頭負けちやつたよ。起きたら向ふを向いてやがつたんだ。(笑声) (小見出し略)
 柚 木 金山君先刻君の言つた鼠の話ね・・・・・・鼠が柿と間違つて頭をなめた話は・・・・・・
 金 山 床の間に近い方に満谷さんが寝て、僕は縁側の方に寝て居つたんや。秋でね。柿を床の間に沢山置いてあつた。すると鼠がバタバタ歩いてその柿を食べに来る。それで夜中に「金山君、鼠が僕の頭を何んかしたよ、間違へたよ」「噛つたんですか」「いや、僕の頭を柿と間違へて何だかなめたやうだよ」(笑声)牧野君のいふやうにあの人は蒲団をぽかつとかぶつて正体が判らない。頭の先しか出してゐないからね。柿にしては大きいけれども僕は尤だなアと思つたんや。(笑声)
 薬師寺 いゝ艶ですからね、
 金 山 いや、色がよく似てゐる。赫くてつやつやしてゐるからね。(笑声)
 安 井 色まで見分けたかしら・・・・・・
 金 山 いや、「金山君、今鼠が何かした」といふので電気をつけたんだよ。
 小 杉 なめやしまい。噛つたんだらう。噛つたら滑つたらうが。(笑声)
 田 中 だからなめたことになるね。(笑声)
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 ・・・と、満谷国四郎のハゲ頭について、出席者たちは大笑いしながら話している。故人の二十七日めの忌日でこんな話をしてたら、通常ならヒンシュクものだろうが、満谷の場合は特別だった。
 
 なにしろ、満谷の生前から、その展覧会の案内記事が新聞に載ったりすると、見出しの活字からして「禿頭」などと書かれているのだから、満谷本人もどこかでハゲ頭をトレードマークにしていたところがあったようだ。1923年(大正12)に開催された「生誕50周年記念展」の新聞記事にも、「禿頭」の見出しが躍った。同年6月22日に発行された読売新聞の、文化欄の記事から引用してみよう。
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 禿頭と都々逸が自慢の満谷画伯の
 五十年記念に個人展覧会を開いて祝賀
 (前略)満谷さんを思へば誰でもすぐにその頭を思はずにゐられない程特色のある或ひは生れながらの白髪禿頭ぢやなからうかなんてよくカラカハレル頭の由来は先ずかうである。十八歳にして絵筆を執りはじめ一世五姓田芳柳に手ほどきをして貰ひ(、)間もなく小山正太郎先生の不同舎に入つてその薫陶を受けた(。)氏と殆ど前後して三十余年間洋画生活を続けて来た仲間内の証言に依れば(、)確に二十代でもうヒドク髪がうすい方だつた(。)それが三十になるかならないに天井はマルハゲとなる(、)後頭に残つただけが白髪に急変する(、)ヒゲまでまつしろとなつてこの二十年ごらんの通りの若年寄りですぎて来た、六人兄弟の末子に生れた満谷さんが(、)この父にしてこの子ありの生きうつしも亡き厳父にそつくりその儘の容貌で(、)遺伝は頭の方も寸分違ひない現象を呈してゐる事は(、)父君と氏とを見比べた実見者の談であるとかう種を明かして了つてはつまらないが(、)何しろどうも友人間切つての艶福家であり咽喉自慢で都々逸などはうまいものだし謡曲も好きで得意と来てゐる、それやこれやで「満谷のあたまは苦労させすぎた天罰さ」なんかと冷かされる度に「又おれの頭の事かい」としらばつくれる(後略)
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 ・・・と記事の60%以上が、ハゲ頭の由来と解説に費やされているのだ。余談だけれど、わたしが子供時代の学校の校歌に、「♪磨きつつ励みてゆけば~ 輝ける我等が母校~」という歌詞があった。子供たちは「ハゲ」がことさら大好きだから、さっそく「♪磨きつつハゲ見てゆけば~ 輝ける我等が(ハゲの教師名)~」と唄って、かなり怒られた憶えがある。下落合でも、満谷は近所の子供たちから、なにかと囃し立てられやしなかっただろうか?

 満谷国四郎がすゑ夫人を亡くしたあと、それまで住んでいた谷中Click!(天王寺町)からオバケ坂Click!の上にあたる下落合753番地の敷地に、アトリエと自邸が竣工して引っ越してきたのは、1918年(大正7)8月末のことだ。同じ谷中の近所に住んでいた中村彝Click!が、下落合464番地にアトリエを建てて転居してから、すでに2年が経過している。ちょうど、文展の制作に取りかかろうとしていた時期で、新聞記者の取材にアトリエが完成ししだい出品制作をはじめると答えている。1918年(大正7)8月24日に発行された読売新聞の「よみうり抄」には、満谷の消息が次のように紹介されている。
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 満谷国四郎氏 本月末目白に新築中のアトリエ出来次第文展出品製作に取掛る由
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 この消息から2年後、少し前の記事Click!でご紹介した歳若い宇女夫人と、下落合で再婚することになる。そして、さらに2年後、まだ築4年しかたっていない下落合753番地の邸をあとにし、東京土地住宅が企画したアビラ村(芸術村)の「村長」Click!として、下落合西部(現・中井2丁目)への移住を決意しているようなのだが、同開発計画の頓挫とともに転居も取りやめにしたらしい。満谷は、金山アトリエClick!の東隣りに住む予定だったようなので、東京土地住宅が破たんしたあとも、金山平三は満谷へ移住の誘いをつづけていたのかもしれない。
 
 1923年(大正12)6月26日の読売新聞で、柚木久太は「満谷さんは丁度今年が五十歳である。しかし、よほど親しい友人でも、先生を大概の場合、十歳ほど余計にかんがへる」と書いている。ハゲ頭に白髪白ヒゲの彼は、かなり早い時期から60歳をすぎた老人とみられることが多く、二十代の若い夫人と再婚したのも、またあえて生誕50周年記念展覧会を大々的に催したのも、どこか老人とみられることへの抵抗のようなものが感じられる。
 かなり強健かつ威風堂々としている満谷国四郎の風貌なのだが、下落合の邸で起きた「ドロボー事件」では、若い宇女夫人と妹を「侵入者」の矢面に立たせて、自分は怖いのでサッサと逃げてしまい、あとで奥さんからこっぴどく叱られているらしいのだが、それはまた、別の物語・・・。

◆写真上:満谷国四郎のプロフィール(左)と、1933年(昭和8)制作の『自画像』(右)。
◆写真中上:満谷国四郎の二十七忌日に、永代橋たもとの料亭「都川」で行なわれた1936年(昭和11)8月の座談会の様子。藤島武二をはじめ、洋画界のそうそうたる顔ぶれが見える。
◆写真中下:1923年(大正12) 6月22日に発行された読売新聞の「生誕50周年記念展」記事。
◆写真下:左は、座談会が再録された1937年(昭和12)出版の『満谷翁画譜』(寫山荘)。右は、下諏訪の旅館・桔梗屋Click!にて奧から金山平三、大久保作次郎Click!、満谷、柚木久太。