いまでは、スポーツ新聞や芸能ニュースなどでTVタレントの恋愛や結婚・離婚が報道されるのはあたりまえだけれど、それでも一般人に近い生活を送る画家や作家のゴシップが、大っぴらに報道されることはまれだ。ましてや、普通の朝日や毎日、読売、日経などの一般紙では結婚・離婚はともかく、誰それは恋に破れて意気消沈している・・・などという記事が紙上に流されたら、フツーの読者であれば「この新聞、いったいなに考えてやんだ?」と眉をひそめるだろう。ヘタをすれば、書かれた当人からプライバシーの侵害で訴えられかねない。
 大正時代に、「一生の大事件」が起きて新宿のパン屋・中村屋の娘との「ラブ・アフェーア」(恋の秘めごと)が実らず、永久に「ブロークン・ハート」になった・・・などと、言いたい放題に書かれた画家がいる。もちろん、そんなことを書かれているのは下落合の中村彝Click!で、書いたのは読売新聞の記者だ。この記事、見出しからして怪しげで、中村彝には「肺がない」ことになっている。記事では、彝自身がそう言ったことになっているのだが、どこまでがホントでどこまでが記者の潤色かわからない。中村彝が帝展の新審査員に選ばれ、それを彼が受諾したことをめぐる報道なのだけれど、1922年(大正11)10月6日発行の読売新聞(朝刊)から、少し長いが引用してみよう。

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 死に面して描く 肺のない中村彝君
 殆んど奇跡的な病体だと言はれてゐる中村彝氏を、或る時友人の一人が訪ねたところ、「僕の病気は誰にも感染しないから安心したまへ、何故と言へばもう肺は二つともなくなつてしまつてゐるんだから・・・・・・」と語つたので、肺のない人間が生きられるつて法はないぢやないかと詰ると「ナーニ永い間の体験で僕には生きて行かれるのさ」と平気で答へたさうだ。/少年時代に、病気で幼年学校を退学して、絵筆の生活にはひつて以来、幾度氏は死に瀕したことであらうか。危篤か小康か、その小康のひまを盗んでは、やはり描かずにゐられなくて描く、ほんたうに死に面しつつ絵筆を握つてゐるといふのは、氏ばかりだ。(中略) 一昨年第二回帝展の『エロシエンコ氏の像』で、動かすべからざる地位を占めたのであつた。
 序乍ら中村氏は、その友人全部を描き入れて、真中に裸体の女がマンドリンを弾いてゐる大作の構図だけを拵へてあるさうだ。それが完成する日があつてほしい。/氏の一生の大事件といふのは、かの新宿のパン屋さん中村屋の娘さんとのラブ・アフエーアで、氏は永久にブロークン・ハートを抱いてゐるのに、娘さんはたうとう印度人の妻になつてしまつた。/いかにも、上品な感じのいゝ人で、着物などに就ても、かなり凝り屋の洒落者なのは、黒の外套を氏が着歩いてから、数年経つて流行り出したやうな実例もある。/この春、目白方面に住んで、氏を愛敬する二三十人の人々、鶴田吾郎、曾宮一念、中村研一君等が寄つて「金塔社」が結ばれ、第一回展覧会を催したのは、人々の記憶に新たなところであらう。/繁劇な労働である鑑、審査事務を氏に帝国美術院が強ひたこと、それを氏が受諾したこと、この両つながら私には不可解だ。
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 新宿中村屋Click!の相馬俊子Click!に失恋するという「一生の大事件」で、永久につづく心のキズを負ってしまった・・・などと書くばかりでなく、その古キズへ塩をすりこむかのような俊子とボースとの結婚Click!についてまで触れている。中村彝の“地雷”Click!を踏みまくっている記事なのだが、俊子とボースとの結婚は1918年(大正7)のことなので、4年後のこのとき、少しは「ブロークン・ハート」の痛手は癒えていただろうか。彝は、読売新聞を片手にアトリエでひとり苦笑していたか、それとも籐製のベッドにゴロンと横になり、新聞をかぶって寝てしまっただろうか?
 
 もともと、1913年(大正2)に開催された東京大正博覧会へ、裸体の相馬俊子を描いた彝の『少女』が出品された時点から、画家たちの間では「描かれているのは中村屋の上の娘だ」とすぐにウワサが立ったはずだ。つづいて、1914年(大正3)の文展へ着衣の俊子像である『少女』が再び出品されたとき、ふたりのことはすでに美術界ではかなり有名になっていただろう。親の反対Click!で結婚がダメになり、伊豆大島への傷心旅行から谷中Click!へ、そして下落合のアトリエへと移る過程で、彝と俊子のエピソードが新聞に掲載されることなどなかった。だから、この1922年(大正11)の読売新聞記事が初めて、彝と俊子との「ラブ・アフエーア」を公然と報道したことになる。
 読売の記者は、中村彝のことを「いかにも、上品な感じのいゝ人」と書いている。下落合へアトリエを建てて引っ越してくる以前の彝は、どちらかといえば血気盛んで激昂しやすく、小島善太郎の記述Click!などからもうかがえるように、その性格は周囲から横柄かつ傲慢だと見られることが多かった。だが、病状が進むにつれ性格が穏やかになっていったものか、下落合での彝はそれまでとはまるで別人のように、「感じのいゝ人」へと変貌していった。以前は、非常に限られた少数の友人しか持たなかった彝なのだが、下落合では彼の周囲にたくさんの画家たちが集まりはじめている。書かれている「金塔社」も、彝アトリエに集ったメンバーを中心に設立されたものだ。
 記事中に、興味深い記述もある。1922年(大正11)の時点で、彝は「友人全部を描き入れて、真中に裸体の女がマンドリンを弾いてゐる」構図の大作を予定していることだ。そのようなデッサンを、わたしはまだ一度も目にしたことがない。彝の作品でマンドリンを弾く人物が登場するのは、1919年(大正8)ごろにスケッチされたらしい、『画家達の群』という作品がある。でも、このスケッチでマンドリンを弾いているのは、裸体の女の左横にいる着衣の男であり、「友人全部」を描き入れたにしては人数が合計で4人と、あまりにも少なすぎる。このスケッチから着想を得た彝は、のちにもっと大規模な構図のスケッチを、改めて描きなおしているのだろうか。

 でも、おそらくは実制作にはかからず、スケッチのまま終わってしまった1作だろう。1922年(大正11)以降、彝に大作を制作する余力はほとんど残っていなかった。もし、戦災で焼けていなければ、記事に書かれているような構図の木炭画が、現在でもどこかに眠っているのかもしれない。

◆写真上:相馬俊子をスケッチしたと思われる、1914年(大正3)の中村彝『少女』。
◆写真中上:1922年(大正11)10月6日に発行された、読売新聞(朝刊)の当該記事。
◆写真中下:左は、1913年(大正2)制作の中村彝『婦人像』。右は、同年に上野で開催された東京大正博覧会の美術館で、俊子の裸体上半身を描いた彝の『少女』が初めて出品された。
◆写真下:マンドリンを弾く人物が描かれた、1919年(大正8)ごろ制作の『画家達の群』。