ずいぶん以前から、満谷国四郎Click!が描く「下落合風景」を探しつづけてきた。1901年(明治34)に結成された、同じ太平洋画会Click!の設立メンバーである吉田博Click!が、大正末から昭和初期にかけて東京人の人気スポットだった、西坂の徳川邸「静観園」を描いた『落合徳川ぼたん園』Click!(東京拾二題のうち)は、神田神保町の浮世絵版画店で偶然見つけることができた。でも、満谷作品はなかなか目にすることができなかったのだ。
 そこで、満谷国四郎のできるだけ詳しい制作目録を参照し、年譜と重ね合わせつつ、彼が旅行に出ていない期間に描かれたと思われる作品をピックアップしてみた。その中から、明らかに画室での制作と思える人物画や静物画などの作品タイトルは除外し、また下落合753番地にあった満谷アトリエの近隣を描いていると思われる、風景画を予測させる作品タイトルのみに絞りこんでみた。さらに、大正期の作品は除き、昭和初期から満谷が他界する1936年(昭和11)まで、晩年の作品を集中的に調べてみることにした。
 いちばん最初に気になったタイトルは、1931年(昭和6)に制作された『早春の庭』だ。ただし、この作品が初めて第12回帝展に出品されたときは『早春の庭』ではなく、『庭の早春』という初期タイトルだったようだ。次に、1934年(昭和9)に制作された『庭』とともに、翌年1935年(昭和10)制作の『庭の雪』の2作が目にとまった。これらの作品のうち、画像が比較的カンタンに入手できたのが、先述の第12回帝展と1935年(昭和10)に開かれた東京府美術館開館10周年記念総合展にも出品されている、冒頭に掲載した『庭の早春(早春の庭)』だ。帝展の目録では『庭の早春』となっているので、その後、どこかの時点でタイトルが変更されたのだろう。
 
 『早春の庭』にはイヌの親子が描かれているので、満谷作品の中でも特に人気が高いのだろうか、リトグラフによる複製画がつくられて販売されたらしい。レプリカの『早春の庭』は、既存の額装による都合からか、キャンバスの上部が大きく切られて実際の画面よりもかなり横長になっているが、作品の雰囲気はリアルに再現されているようだ。
 『早春の庭』とは、もちろん下落合の満谷邸母屋に面した南東側の庭を描いていると思われ、斜向かいには1928年(昭和3)に急死する九条武子Click!が住んでいた。現在の地勢でいうと、『早春の庭』の画角は野鳥の森公園ないしはオバケ坂Click!の方角に向いて描かれていると思われる。1931年(昭和6)の冬は、東京気象台の記録によれば1月1日から雪が降り、例年に比べて寒さが厳しかったようだ。東京に元旦から雪が降ったのは、大震災の前年1922年(大正11)以来の、実に9年ぶりのことだった。だからこそ、満谷は長くて寒かった冬がようやく去り、春の息吹が感じ取れるようになった庭の風景を描きとめたくなったのかもしれない。
 3月の情景だろうか、庭には冬の終わりを告げるモクレンの花が咲き、冬季は一面に黄色だった芝生の上には、ところどころ青みがかった色が載せられている。芝庭の上には、おそらく満谷邸で飼われていたのだろう、イヌの親子が描かれている。左側のイヌは、おそらく子どもたちを見守る母イヌなのだろう、中央では2匹の仔イヌがじゃれ合っている。厳しい冬がすぎ、いかにも春の訪れを素直によろこび、心が浮き立つさまを感じさせる画因だ。正面は、うっそうとした屋敷林で覆われ見通しがきかないが、この絵が描かれた当時、満谷アトリエの敷地の東隣りには星邸が、南隣りには小田邸が、そして東南隣りの3年前までは九条武子邸Click!だった建物は解体され、跡地には服部土木建築Click!による新築の熊坂邸が建っていた。
 
 1936年(昭和11)に撮影された、満谷国四郎がまさに死去する年の空中写真をみると、満谷邸を取り囲む屋敷林が、かなり濃くなっている様子がとらえられている。これらの木々は、彼が1918年(大正7)に谷中Click!の先妻と暮らした自邸より、下落合にアトリエを建てて引っ越してくる以前から、この敷地に生えていた樹木も残されていると思われる。九条武子が写る周辺の写真を見ても、大正末から昭和初期にかけ、この一帯は薬王院北側の森(現・新墓地)から七曲坂Click!までつづく、バッケ沿いに展開した一面の森林地帯だったことがうかがえる。晩年の満谷邸は、敷地の東側に大規模な棟を増築しているようなので、当初の庭に比べればかなり狭くなっていたと思われるが、それでもまだスペース的には余裕があったのだろう。
 1928年(昭和3)に制作された、『枇杷』という気になる作品がある。下落合でもお馴染みの片多徳郎Click!や牧野虎雄Click!、柚木久太Click!などが結成した新日本画会の、同年7月に開かれた第1回展に賛助作品として出展されているものだ。アトリエ内で制作された静物画なのかもしれないが、近所のビワの木を描いた風景画の可能性もある。下落合の樹林では、大きく育ったビワの木をあちこちでみることができ、地元では昔からかなりポピュラーな樹木なのだ。
 
 森田亀之助Click!がプロデュースし、下落合に住む画家たちに声をかけて1941年(昭和16)に結成された「湶晨会」Click!(せんしんかい)だが、もし満谷国四郎が1936年(昭和11)に死去せず健在であれば、当然声をかけていただろう。湶晨会は、下落合の5人展となっていたにちがいない。

◆写真上:1931年(昭和6)に開催された、第12回帝展目録の『庭の早春』(のち『早春の庭』)。
◆写真中上:レプリカ『早春の庭』の画面。(部分)
◆写真中下:左は、1936年(昭和11)に撮影された満谷国四郎アトリエの様子で、南側の庭園に大規模な増築がなされているのがわかる。右は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる満谷邸で、この時点では地番変更により下落合753番地から741番地になっている。
◆写真下:左は、満谷アトリエにおける宇女夫人の弟・福井俊吉で、彼は1929年(昭和4)に満谷国四郎の養子となる。背後に架かる作品はすべて旅先のもので、下落合の風景らしい画面は見られない。右は、1932年(昭和7)に下落合のアトリエで制作された満谷国四郎『窓ぎわ』。