明治から大正期にかけ、南房総は多数の画家たちの写生地としてにぎわった。洋画家・日本画家を問わず、南房総が制作地として選ばれた記録がそこかしこに見えている。ここでもお馴染みの、下落合にゆかりの深い中村彝Click!や曾宮一念Click!、佐伯祐三Click!、林武Click!、大久保作次郎Click!、安井曾太郎Click!、野口彌太郎Click!など多くの画家たちも、南房総へ出かけては仕事をしている。あるいは、会津八一Click!も渡辺ふみClick!の写生にくっついて出かけている。
 中でも、曾宮一念Click!は常連といってもいいほど繰り返し訪問しており、ときには静養や避寒も兼ねていたようだ。1933年(昭和8)に発行された『改造』7月号(改造社)には、曾宮の南房総への想いが綴られている。彼は当初、布良(めら/現・館山市)Click!をよく訪れていたのだが、その後、波太(なぶと/現・鴨川市)を写生地と決めて定期的に訪問している。下落合の目白中学校Click!を研究されている保坂治朗様Click!からいただいた、「波太五題」と題する曾宮の文章を引用してみよう。
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 (一)
 ひつこみやの私がこの間太海へいつた。房州の写生地は昔は布良であつたが、その後ここに移つた。泊つて型の如く持つてくる宿帳をはぐると列んでゐる、列んでゐる。みんな画かき画かき、ヤアこんなおぢさんも来たかとそのお年が十も若く記してある。まだ先生も油がぬけないと言つた調子でとうとうしまひ迄見てしまふと、「この帳面を読まずにゐられぬ人は余程の劣機鈍根と承知すべし、観覧料壱円也」と落書があつた。
 (ニ)
 ナブト、くはしくは浜波太は自然の大屏風を囲つた一枚岩の上に漁家が重なつてゐる。漁家の間を仲よく石段がきざまれて縫ふ。/をかで働く人々、海であさる人々、岩礁にはさまつたこの一廓は魚貝海草と人間とが一つの聚楽を作つてゐる。浜に対して畑のある方を岡波太といふさうだ。
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 おそらく宿帳には知り合いの画家たちの名前が、先輩後輩を問わずズラリと並んでいたのだろう。
 
 千葉Click!地域は、江戸東京地方と並んで原日本語と思われる地名や地域名の宝庫だ。ここに登場している「布良」や「波太」という音も、のちの漢字による当て字の可能性が非常に高いように思う。ちなみに「メ・ラ(me-ra)」は、「寒い・低所(=山下/山陰)」という意味になるのだが、近くに山があってなかなか夜が明けない(陽が射さない)、山々の陰になるような地域なのだろうか? もうひとつ「ナム・プト゜(nam-put)」は、「冷たい入口(=入り江・河口)」という意味になり、他の「トマリ(tomari)」=停泊地・港に比べて水温が低い理由でもあるのだろうか?
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 (三)
 ゴツゴツと酷しいばかりに思へた岩も、風の日岩のふところに埋つて写生をし、つくづくと岩に親しくなつた。掌で打ち、愛撫する、不規則な凸凹面、年月が肌を素朴に磨く、淡いろの色調の変化、不思議な起伏、何と人体美によく似たことか、潮が岩の腰を洗ふ、この感激はどうもジヤブンとやりたくなる、危ない。/ピーヒヨロヒヨロ、鳶が高く輪をゑがく。 (同上)
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 1933年(昭和8)に波太を訪れたあと、おそらく曾宮は毎年写生に出かけていたのだろう。日記には、「波太(=太海)」の文字が盛んに書かれるようになった。上記の文章から2年後、1935年(昭和10)には8月と11月の二度、波太(=太海)を訪れている。この年は、春に尾道の旅から帰ったあと、4月下旬から6月末までずっと下落合のアトリエClick!ですごし、7月1日から鎌倉へ避暑に出かけている。鎌倉の浄明寺ヶ谷(じょうみょうじがやつ)へ出かけたのは、酒井億尋Click!の妻・酒井朝子Click!が同地で病気療養中(翌年10月に死去)だったから、見舞いがてら訪れているのだろう。1935年(昭和10)に出版された『曾宮一念作品集』第二集(輯)の、「日記ぬきがき」から引用してみよう。
 
 
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 七月一日、鎌倉浄明寺に夏だけの引越しをする、安藤氏が建てたばかりの貸家である、滑川のへりに玉あぢさいが多い、ここでは山あぢさいといつてゐる、野生のがくで蕾が玉になつてゐるのでこの名がある、挿花にするがすぐしほれて写生出来ず、庭であさがほ、かんなの小品をかく。/八月半すぎて本式の炎天となる、十二所といふ滑川沿ひの村に数日通ふ、・・・
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 鎌倉の浄明寺ヶ谷は、予想以上に暑かった。このあと、横須賀から船で南房総へとわたり、8月26日から28日までの3日間、波太(太海)の江澤館に滞在している。
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 二十六日、太海への車中大浪と潮煙の壮大な眺め、夕方宿につく、大いに疲れた。夜、須貝寛一氏に会つて一しよの室にねむる、この人三泊の間に二十五点を作る、暁から日ぐれ迄かきつづけそれが皆相当に骨を折つてあるのに驚く、何もせぬうちにくたびれるのが本業の如き自分がなさけなくもあり、もつたいなくもある。/昨年も二百十日の荒れを見やうとここへ来たが、ここ一両日の浪ははじめて見るすばらしく立派なものである、浪は色よりも形と明暗からくる美しさと思ふがその形の非常に自由なことは雲に似てゐる、画としておかしくなければどんな形にどんな明暗をつけやうと文句は来まい、かうは考へたが描いてみるとむづかしい。 (同上)
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 このあと、8月28日に下落合へもどり、10月下旬までアトリエですごしている。相変わらず、モチーフのヒマワリの種をネズミClick!に食い荒らされつづけ、毎晩叱りつづけて追い払ったところ、ついには鉛管を食い破られて中身のだいじな油絵具まで食べられてしまった。それで嫌気がさしたものか、曾宮は10月21日から片多徳郎Click!の紹介で榛名湖へと旅立っている。そして、10月26日に下落合へともどり、今度は避寒のため11月に再び波太(太海)を訪れている。
 
 曾宮一念を波太へと強く惹きつけたのは、海辺に切り立った強固なフォルムの筍岩や杓子岩、耳岩、あるいは仁右衛門島ではなく、日記にも書きとめているように「雲」と同様、かたちの定まらない寄せては返す「大浪」だったような気配がする。後年、曾宮がモチーフに好んで描くようになる雲や海は、療養先の信州の高原と休養先の波太で見つけた、2大テーマだったのかもしれない。
 江澤館の先代女将のお話によれば、曾宮一念は同館の電話を借りては、東京じゅうの画家仲間に波太へ来るよう誘っていたらしい。やはりひとりで滞在するには、少し寂しかったのだろうか? また、先代女将は安井良子様(安井曾太郎の長男・慶一郎の連れ合いさん)と、下落合を散策されるお約束をされていたようなのだが、昨年の酷暑が残る初秋、安井様の熱中症による急死により実現せずに終わったそうだ。チャンスがあれば、ぜひ波太(太海)の江澤館へ出かけ、同館の常連だった安井曾太郎Click!、林武Click!、大久保作次郎Click!などを含め詳しいお話をうかがってみたい。

◆写真上:江澤館Click!の裏山から、同館(手前)と仁右衛門島を眺めたところ。(撮影:江澤館様)
◆写真中上:1933年(昭和8)発行の『改造』7月号に掲載された曾宮一念「波太五題」の挿画(モノクロ)で、「たけのこいは(筍岩)時化」(左)と「漁日和」(右)。
◆写真中下:同上の挿画で、「浜波太」(上左)と「岩の群」(上右)、「岡波太小景」(下左)。下右は、1948年(昭和23)に出版された曾宮一念のエッセイ集『裾野』の挿画「ひまわり」(1922年)。
◆写真下:左は、「波太五題」が掲載された1933年(昭和8)の『改造』7月号表紙。右は、1935年(昭和10)に出版された『曾宮一念作品集』第一~第三集(輯)。