バッケ(崖地=急峻な斜面)に通う坂道のことをバッケ坂Click!と呼び、それがのちに変化して「オバケ坂」Click!や「幽霊坂」Click!と呼ばれるようになったらしいことは、これまでに何度となく記事Click!へ書いてきた。目白崖線に通うオバケ坂あるいは幽霊坂は、おそらくもともとバッケと呼ばれていた急峻な斜面に拓かれた坂道を、地元ではバッケ坂と呼んでいるうちに、おそらく転訛あるいは転化して、いつの間にかそう呼ばれるようになったのだろう。
 この坂名の変化は、「バッケ」の意味がわからなくなった地域では江戸期からはじまっているようだ。だから、オバケ坂や幽霊坂へと変化した坂道には、さまざまな怪談話などの付会が江戸期から明治期にかけて発生していると思われる。また、昭和初期まで戸塚町の甘泉園の西側には、「バッケ下」という字(あざな)がそのまま使われていためずらしいケースもある。
 旧・下落合4丁目(現・中井2丁目)の「アビラ村」Click!に、バッケ坂(バッケの坂)が正式に復活したのを、先日、「杏奴」Click!でご一緒した刑部昭一様Click!からお教えいただいた。目白学園Click!のすぐ西側に通う、かなり急な坂道だ。落合地域では、現在でも「バッケが原」Click!(崖下にある原っぱ)という言葉が活きているので、「バッケ」という言葉にそれほど違和感がない。だから、目白学園が「学園坂」あるいは「目白坂」という名前にしようとしたこともあったようだが、学生がほとんど通わない坂道を「学園坂」では不自然だし、「目白坂」はすでに江戸期から関口に存在している。ということで、バッケ坂(バッケの坂)という本来の名前が復活したようなのだ。
 バッケ坂の南側、崖線を御霊社Click!へ向けて東に上がり、途中で直角に曲がって目白学園のある北へと上る、こちらもバッケ坂同様に急峻な坂道は、「八ノ坂」の次ということで「九ノ坂」と付けられていた。でも、早々に「苦の坂」だからヤメテよ!・・・という声が上がって、「御霊坂」と呼ばれるようになった。ところが、この坂名を「おんりょう坂」と呼ぶ人たちが現れて、もうカンベンしてよ!・・・ということになり、現在は平仮名で「ごりょう坂」ということに落ち着いたらしい。
 
 
 わたしは、バッケ→オバケ→幽霊というような、地名などの転訛や転化をとても楽しく感じるので、家の近くにあるオバケ坂Click!は、ぜひこのまま後世まで変わらずに伝わってほしいと思う。史的な経緯を無視して、途中で“いま風”の名前に変えてしまうと、その地域で話されていた言葉や紡がれていたフォークロアの多くが、世代を経るにつれてどんどん消え、失われてしまう怖れがあるからだ。これは坂道の名前に限らず、地名や町名などにも当てはまるテーマだろう。
 わたしが失念していた坂名も、刑部様から再度ご教示いただいた。先日、映画ロケClick!が行なわれた第二文化村Click!から下る坂道は、「振り子坂」という名前が復活している。江戸期からつづく坂名とのことで、おそらく約100年ぶりの“現役”復帰ではないだろうか。崖線の尾根筋から、中ノ道(下の道)へと下る坂道の形状が、まるで振り子のようなかたちをしているので江戸期からそう呼ばれていたらしい。この坂の途中に、雨が降ると水たまり(というか池)ができ、その中にクルマが沈んでしまうため「通行不可」の凹地があることをご紹介していた。
 刑部様によれば、事実、たくさんのクルマが沈没しているそうだ。路上の水たまりだと思って、そのまま通過しようとすると、乗用車ならドアの中ほどまで水位がきて、車内にまで水がドッと入りこんできたとか。もちろん、クルマはエンストを起こして、沈んだまま身動きがとれなくなってしまう。山手通りの水はけが悪かったようなのだが、最近は下水設備が改善されたものか、沈没事故は起こりにくくなっているとのことだ。この振り子坂から分岐し、尾根上へと一気に上がる急坂には、新たに「山手坂」という名称が付けられている。山手通りが貫通する前、宮下琢郎Click!によってモダンハウスの『落合風景』が描かれた現場であり、武者小路実篤邸Click!が建っていた界隈でもある。
 
 
 
 坂名としては、比較的新しい一ノ坂から八ノ坂の中で、二ノ坂には「蘭塔坂(らんとうざか)」Click!という旧名が復活している。これは、戦前の下落合資料に目を通すとき、わたしもあちこちで目にしてきた馴染み深い名称なので、その復活は素直にうれしい。佐伯祐三Click!が、整備されて間もないこの坂道を描いたとき、「蘭塔」のいわれである古くからの墓地も、おそらく押し寄せる宅地化の波とともに縮小・整理されたものと思われる。
 二ノ坂という名称が、いまだ存在しなかった時代の佐伯は、もちろんこの坂道を蘭塔坂として認識していただろう。彼が「遠望の岡」Click!と思われる『下落合風景』Click!を描く3年前、1923年(大正12)に、蘭塔坂はアビラ村を開発している東京土地住宅Click!の手によって、拡幅・直線化の整備がなされている。以前、炭谷太郎様Click!よりいただいた台帳および地割りの公図資料には、東京土地住宅が屈曲した蘭塔坂を拡幅し、直線化工事をしている様子が記録されている。
 余談だけれど、古い坂が本来の名称にもどったことだし、せっかくなので「中落合」と「中井2丁目」という1960年代半ばからの地名も、本来の「下落合」へもどしたらいかがだろう。w そうすれば、名所・旧跡や多彩な画家たちのアトリエ、目白文化村やアビラ村=芸術村が「なぜ下落合にないの?」というような、おかしな状況を根本的に改善できると思うのだが・・・。空想レベルのお話ではなく、ここは金沢市Click!を見習って取り組めば決して実現できない話ではないと思う。現・下落合に住むわたしも応援させていただくので、いかがなものでしょう?>旧・下落合西部のみなさん
 旧・下落合4丁目の尾根沿いの道である「上の道」には、「坂上通り」という名前が新たに付けられた。また、古くは「中ノ(野)道」Click!あるいは「下の道」と呼ばれた崖線沿いの道には、改めて中井商店街にちなんだ「中井通り」という名称が付けられた。「赤塚通り」や「バカボン通り」という案も出たそうなのだが、いくら赤塚不二夫Click!マンガのファンであり、携帯にウナギイヌのストラップを吊るし取材にバカ田大学ノートClick!を愛用しているわたしでさえ、和田氏の居館=和田山Click!(現・哲学堂公園Click!)などとほぼ同時期に開拓されたのであろう、800年前からの由緒ある鎌倉街道が「バカボン通り」と呼ばれることには、強い抵抗感をおぼえる。
 
 
 振り子坂にある安東邸での、映画ロケのお話が出たついでに、刑部様によれば刑部邸Click!や手塚・林邸Click!を舞台にした映画ロケも行なわれているそうだ。手塚・林邸でのロケは、きっと『放浪記』あたりではないかと思われるのだが、刑部邸でのロケはいったいなんだったのだろう? 松坂慶子が出演した90年代映画ということなのだが、それはまた、もうひとつ別の、楽しそうな物語・・・。

◆写真上:目白学園キャンパスの西側崖地に通う、急峻なバッケ坂(バッケの坂)。
◆写真中上:上左は、御霊社下に残るバッケ。上右は、山手通りから通う一の坂。下左は、旧名にもどった蘭塔坂(二ノ坂)。下右は、1923年(大正12)に東京土地住宅によるアビラ村開発の一貫として行われた、蘭塔坂の拡幅・直線化工事の様子を伝える公図。(炭谷太郎様ご提供)
◆写真中下:上左は、崖線沿いの中井通り。上右は、古い家並みが保存されている三の坂。中左は、島津家の敷地だった四の坂。中右は、大谷石の築垣が美しい五の坂。下左は、目白学園への登校路・六の坂。下右は、昭和初期まで稲荷社とみられる鳥居が記録されている七の坂。
◆写真下:上左は、中井(下落合)御霊社へと通う八の坂。上右は、「九の坂」または「御霊坂」改め「ごりょう坂」。下左は、第二文化村から山手通り(本来は中ノ道まで)通う古坂の振り子坂。下右は、振り子坂から一気に尾根筋へと上がれる新しい名称・山手坂。