1930年協会Click!についての資料はゴマンと存在するのだが、その成立母体となった「円鳥会」について語られることはあまりない。円鳥会は、萬鉄五郎Click!が中心となって設立された美術研究会で、1922年(大正11)に準備会が開かれ、翌年に第1回展がスタートしている。参加した画家たちは、帝展・二科・春陽会などあちこちから集まり、本部は細川護立侯爵邸Click!もほど近い、小石川区高田老松町4番地(現・文京区目白台1丁目)の埴原久和代邸に置かれていた。埴原久和代は、女性として初めて二科の会員となった洋画家だ。
 参加者たちの顔ぶれを見てみよう。会の中心である萬をはじめ、前田寛治、木下孝則、木下義謙、林武、小島善太郎、野口彌太郎、児島善三郎・・・と、のちに1930年協会の中核となる画家たちの姿が見える。円鳥会のメンバーで、滞欧作を中心に展覧会をやりたいと考えたのが、言いだしっぺの前田寛治と木下孝則だった。木下は学習院から京都帝大、帝大哲学科へと進んだが、まったく勉強に興味がなく絵ばかり描きながら遊びまわっていた。父親は明大学長の木下友三郎で、孝則は渡欧費用やアトリエの建設費を出してもらえる、四谷に豪邸のある非常に裕福な家庭環境だった。わがままに育った孝則は、前田とのふたり展を開催して滞欧作を見てもらいたかったのだろう。ちなみに、同じ哲学科出身の外山卯三郎Click!は、木下と早い時期から知り合っており、それが縁でのちに1930年協会のスポークスマンを引き受けていると思われる。また、兄の姿に惹かれたのだろう、孝則の弟・木下義謙も画家の道へ進んでいる。
 木下孝則は、1924年(大正13)に二科で樗牛賞を、翌1925年(大正14)には二科賞を受賞している。木下が受賞した直後、1925年(大正14)に樗牛賞を受け、翌年に二科賞を受けたのが曾宮一念Click!だった。木下は、二科で立てつづけの受賞により、ある程度の知名度はあったのだろう。前田寛治Click!との展覧会場は、京橋の北槙町18番地に建っていた日米信託ビル2階の画廊「室内社」に決まっていた。ところが、室内社の展示場は思いのほか広かった。前田と木下の作品を並べても、壁面がスカスカなのは目に見えている。そこで、ふたりは小島善太郎Click!と里見勝蔵Click!に「いっしょにやる?」と声をかけたのだ。この誘いが、1930年協会設立の直接的な契機となった。
 
 もうひとり、小島善太郎の証言は少し異なっている。当時の二科は新規会員の募集を中止しており、それに不満を持つ若手会員たちが二科を脱退して新団体の結成へと動き出していた。特に古賀春江が急先鋒だったらしく、二科の若手メンバーには新団体設立への勧誘が頻繁だったようだ。小島も木下もその動きには困惑しており、恩義のある二科を裏切りたくはなかったのだろう。ことに小島は、安井曾太郎Click!へ師事Click!していたからなおさらだった。前田や木下から声をかけられた小島は、二科と対立するのではなく別の美術研究会なら・・・と考えたようだ。小島は里見勝蔵を誘い、ふたり展は滞欧作4人展の企画へとふくらんでいった。
 当初、前田寛治と木下孝則は会の名前を「モンパルナス」、あるいは「ロンド」(パリにあるカフェの店名)にしようと決めていたが、京都に引っこんだまま「家賃がないのが助かるんや」と言っていた里見勝蔵から「反対!」の手紙がきた。会の名称は、バルビゾン派(1830年派)にちなんで、「1930年協会がええやないか」・・・と言ってきたのだ。残りの3人は「ま、い~かぁ」と賛同し、正式に4人メンバーによる1930年協会がスタートした。1926年(大正15)6月に発行された『中央美術』(第12巻6号)には、前田寛治が宣言文とでもいうべき「一九三〇年協会の設立」を寄せている。
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 仏蘭西で知りあいになつた里見勝蔵、木下孝則、小島善太郎と私の四人で「一九三〇年協会」を創立した。そしてその第一回展覧会を滞欧作品によつて開催した。三十年は里見の考案で往年仏蘭西画壇のラ・ソシエテ・デザミ・ド一八三〇に因む。/里見はしきりに東京に出たがつてゐて前田にどの様にして生活するのだ? と聞いてくる。そして京都の自分の家に居たら家賃が要らないのだと云ふ。彼は帰朝以来づつとあの箱舟の様な途方も無く大きな田舎家と、土蔵の壁を打ち抜いて作つた土臭い画室に引籠つてゐる。/小島が女の子を産んだ。渋谷郊外の静かな彼の家に行くと矢庭に前田に早く細君を持てと勧誘する。前田は「成程そうだ」と考へて帰るが途中で忘れてしまふ。そして帰るや否や牛肉の半斤とパンと白湯とで台所でしあがんで食べて夕食を終へる。//「裸の女が居る様だね」とマネのオランピアを見て木下は云ふ。/「絵だと思ふより前に人間が居ると思ふのだからやり切れない」と感歎する。----大抵の見乍ら画く(ママ)画家は本物の様に画く様に望んでゐる、そしてそれが出来ない。「どうだ俺達それをやつて見やうぢあないか」と云ふ事になつた。木下が前田に「どつちが本物かちあんと居る様に見えるか一つ競争をしよう」と云ふと。前田が「よかろう」と答へる。そこで二人共自分の画の条にあつた対照物(ママ)を物色してゐる。二人共「ようし」と力んでゐる。/展覧会を日米信託ビルヂングで開く。経費漠大(ママ)を要する。然し仕事を助けてくれる人々----例へばよき受付人----が沢山ある。先づ木下の知りあいの淑女が五六人はある。前田に可憐な女弟子が二人ある。頭が必要になれば田口や鈴木や円鳥会の誰彼、湯島の自由党を引つぱるつもり!
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 前田寛治は、他の3人とは滞仏中に知り合ったと書いているが、外山卯三郎が指摘するように木下孝則はフランスで前田との接点はなさそうだ。また、1930年協会は4人グループであり、佐伯祐三Click!の名前は意識されていない。同会が設立へ向けて動いていたころ、佐伯はまだ帰国前だった。また、1930年協会による第1回展では、滞欧作の船便が日本にとどかず佐伯の影はかなり薄い。同協会へ佐伯を推薦したのは前田らしいが、小島善太郎や里見勝蔵とは旧知の間柄だったものの、木下孝則は佐伯をまったく知らなかった。木下は、おそらく佐伯をすぐに気に入ったのではないだろうか? なぜなら、木下は学習院の中学時代に野球にのめりこんで野球部のピッチャーをしており、北野中学Click!でピッチャー兼外野手をしていた佐伯キャプテンClick!とは、よく話が合ったと思われるからだ。こうして、1930年協会はようやく5人グループとなった。
 余談だけれど、外山卯三郎は1930年協会設立の経緯を、1949年(昭和24)に出版された『前田寛治研究』(建設社)などで詳しく紹介しているのだが、同協会が発足した1926年(大正15)ごろから、「外山卯三郎著作集」を出版している。大学を出たか出ないかで、「著作集」が編纂されるほど外山は当時有名な著述家だったのか?・・・と驚いたものだが、たとえば『外山卯三郎著作集・第1巻』の「詩の形態学的研究」が、1926年(大正15)12月に「東京詩学協会」から出版されている。つづいて、第2巻「演劇原理の研究」(近刊)、第3巻「華なる春の燈(詩集)」(近刊)と、第1巻の巻末では続々と著作集が刊行される、出版予告の広告までが掲載されているのだ。
  
 若干23歳で、「著作集」が東京詩学協会という団体から編纂される天才・外山卯三郎・・・と、がぜん興味をおぼえたわたしは、ふと『外山卯三郎著作集・第1巻』の奥付を確かめた。東京詩学協会は、東京市外下落合1146番地にあると印刷されている。「どっかで、すごく見憶えのある番地だな?」と思ったら、外山秋作邸Click!の敷地内じゃないか・・・。外山卯三郎は、東京詩学協会をひとりで設立し、ひとりで原稿を書き、ひとりで「著作集」を編集し、ひとりで広告も制作して出版していたのだ。(爆!) 第2巻以降は、すでに書かれた原稿の編纂ではなく、これから彼が書く予定の文章なのかもしれず、案のじょう、第2巻以降が出版された形跡はない。
 そう、下落合の外山卯三郎の実家Click!もまた、木下家に負けず劣らずおカネ持ちだったのだ。

◆写真上:円鳥会の本部があった胸突坂の西側、高田老松町(現・目白台1丁目)界隈の現状。
◆写真中上:左は、明治末の地図から二科初の女性画家・埴原久和代のアトリエがあった小石川区高田老松町4番地。右は、1936年(昭和11)の空中写真にみる同番地。
◆写真中下:1930年協会の創立メンバー4人の作品で、上左は前田寛治『裸婦』(1925年)、上右は木下孝則『女優の像』(1926年)。どちらが、ちゃんと「居る様に見える」リアリテが高いだろうか。下左は小島善太郎『編物』(1927年)で、下右は里見勝蔵『裸婦』(1925年)。
◆写真下:『外山卯三郎著作集・第1巻』の「詩の形態学的研究」で、中扉(左)と奥付(右)。