戦時中の東京地方には、空襲警戒警報および空襲警報が数えきれないほど出されているけれど、それらすべての警報で空襲が実際に行われたわけではない。たとえば、神奈川県や千葉県、あるいは東京郊外にあった市町村や中島飛行機工場Click!など軍需工場群への空襲でも、東京の市街地には警戒警報のサイレンが鳴り響いていた。
 ラジオから索敵情報(敵機の見張り員から入る侵入情報)が、「東部軍管区情報・・・」と流れはじめると東京市街地には間をおかずにサイレンが鳴りわたり、敵機の位置によっては警戒警報、あるいは空襲警報が発令された。でも、敵機の向かっている方角が東京市街地から外れていくと、空襲警報から警戒警報へともどり、やがて警報は解除されることになる。では、実際に東京市街地を襲った爆撃機あるいは戦闘爆撃機の攻撃は、どれぐらいの回数にのぼるのだろうか? 東京都(1943年に東京「府」から「都」)全体をカウントすると膨大な回数になってしまうので、落合地域とその周辺への空襲、ないしは東京への大規模なもののみに限って、ピックアップしてみよう。
★1942年(昭和17)4月18日 ドーリットル隊初空襲
 房総沖の空母「ホーネット」より飛来した16機のB25が、各地を散発的に爆撃した真珠湾攻撃に対する報復の奇襲攻撃。詩人・高田敏子Click!が江戸川橋の先で空襲に遭い、千登世橋をわたって子息が通う落合第一小学校へと駆けもどった物語や、早稲田で入院中の堀尾慶治様が、おそらく早大を軍事施設と間違えて爆撃していったエピソードは、すでにご紹介している。
 このあと、1944年(昭和19)の11月以降、東京地方にはB29による1機または複数機の偵察飛行、あるいは小規模な爆撃が連続しはじめ、11月末から12月にかけては三鷹にあった中島飛行機のエンジン工場が繰り返し、連続5回の反復爆撃を受けている。また、1944年(昭和19)11月29日には、神田地域が初のナパーム焼夷弾の攻撃を受け、つづいて1945年(昭和20)1月1日、元日早々から江東地域が、やはり焼夷弾の攻撃にさらされている。でも、この2回の攻撃はB29の機数が少なかったせいで、いまだ壊滅的なダメージは受けていない。
 
 空襲Click!の規模が徐々に大きくなり、被害がケタ違いに増加してくるのは、1945年(昭和20)の2月に入ってからだ。2月16日に、B29による関東全域への大規模な空襲、翌2月17日には艦載機が多数来襲し、この2日間は空襲警報が鳴りっぱなしだったろう。2月19日にはB29が100機、渋谷や深川、京橋、赤坂、王子、葛飾などを散発的に爆撃している。つづいて2月25日、空母からの艦載機が100機以上も来襲し、銃爆撃により下谷(上野)地域がほとんど壊滅している。同時に、130機の艦載機が神田、本郷、浅草などを攻撃して大きな被害をもたらした。
 これらの攻撃は軍事目標ではなく、明らかに住宅密集地や都内の繁華街を故意に攻撃して、人的な大量被害を与えることを想定しており、米軍には当初から軍事目標のみに攻撃を絞り、病院や学校への爆撃は避ける・・・などという意図が、作戦上のどこにも存在していなかったのは明白だ。そして、1945年(昭和20)3月10日のジェノサイド(大量虐殺)の日を迎えることになる。
★1945年(昭和20)3月10日 東京大空襲Click!
 午前0時8分、空襲警報さえ発令されていないうちに突然空襲がはじまった。334機Click!(日本側発表130機)のB29による東京の下町Click!を中心とする絨毯爆撃Click!(軍事目標ではなく、病院や学校を含む一般市街地への反復爆撃・ガソリン散布および機銃掃射)で、10万人以上が死亡あるいは行方不明となった。
★同年4月1日
 高田馬場駅および戸塚地区に、爆弾8発の投下を含む小規模攻撃。

 
★同年4月13日 第1次山手空襲Click!
 神田川あるいは妙正寺川の沿岸に展開していた、中小の工場地帯へ170機のB29が来襲した。河川沿いの絨毯爆撃により、工場群はほぼ全滅したほか、下落合では目白文化村Click!の第一文化村と第二文化村Click!が、住宅街の約60%を焼失する大きな被害を受けた。
★その後、第一文化村と第二文化村は4月13日夜半と、5月25日夜半の二度にわたる空襲により延焼していることが新たに判明Click!した。
★同年4月15日/5月24日
 東京の西部へ、200機(4/15)および250機(5/24)のB29が来襲し、大きな被害が出た。
★同年5月25日 第2次山手空襲Click!
 東京西部の山手一帯を250機のB29が絨毯爆撃し、壊滅的な被害を受けた。このとき、落合地域とその周辺は焼け野原となったが、緑が濃い区画Click!はかろうじて島状に焼け残った。
★同年7月8日
 正午ごろ250機のP51が来襲し、おもに東京市街地の鉄道を中心に銃爆撃を繰り返した。
★同年7月28日/30日
 艦載機あるいは硫黄島からのP51とみられる戦闘爆撃機が、東京各地の住宅街を反復攻撃。
★同年8月2日
 未明から、310機のB29が関東地方を全域にわたり空襲し、東京市街地を低空で飛びまわる。
★同年8月3日
 120機のP51が、関東各地を波状攻撃し、焼け残った住宅や建物をねらい銃爆撃。
★同年8月10日
 朝から100機のP51が東京へ来襲し、山手の焼け残った家々をねらい繰り返し銃爆撃。
★同年8月13日
 空母の艦載機とみられる戦闘爆撃機により、東京各地への波状銃爆撃。
 おそらく、高射砲陣地が沈黙し戦闘機の迎撃もほとんどなくなった、1945年(昭和20)7月以降の銃爆撃は、米軍機のパイロットにしてみれば「ゲーム感覚」だったのだろう。彼らには、軍事目標のみをねらい病院や学校施設への攻撃は避ける・・・などという制約などどこにも存在せず、パイロットの顔が地上から確認できるほど低空で侵入しては、焼け残った大きめの住宅へ250キロ爆弾Click!を落とし、逃げまどう住民たちを見かければ、容赦なく機銃掃射を反復してあびせかけていった。聖母病院Click!の屋上へ250キロ爆弾が命中Click!したのは、7月以降に来襲回数が急増するP51または空母からの艦載機による、いずれかの空襲の可能性が高いように思える。
 
 いまに残る日米の記録をたぐり寄せ、事実経過を先入観のない眼で直視するならば、米軍は病院や学校への爆撃を避ける配慮をした・・・などという“神話”は、戦後にGHQの対日工作員がたまたま焼け残った病院を数えあげながら、占領下における日本の世論操作・誘導を行なうためにデッチ上げたと思われる、結果論的な宣伝・付会臭がプンプンするのだ。
 余談だけれど、東京湾沿岸に設置された対空砲火の高射砲陣地のひとつ、晴海の指揮所には、のちにJAZZ評論家となる油井正一が防空指揮官として配属されていた。彼は、ごくたまに炸裂弾が当たり墜落するB29を見ると、「どうかベニー・グッドマンが搭乗していませんように。どうか・・・」と、当時のスウィング系JAZZミュージシャンたちが乗っていないことを祈っていたらしい。

◆写真上:早稲田小学校の上空を、新宿から大久保方面へ向け低空で飛ぶB29の編隊。夏目坂の周辺は一面の焼け野原で、上方には焼けただれた早稲田大学の本学キャンパスが見える。
◆写真中上:左は、1942年(昭和17)4月18日にドーリットル爆撃隊から撮影された横須賀市街。右は、1945年(昭和20)2月に数寄屋橋上から撮影された銀座・京橋方面。おそらく、同年2月19日に行なわれた100機のB29による東京空襲の写真だと思われる。
◆写真中下:上は、1945年(昭和20)3月10日の翌日にB29から撮影された東京の(城)下町。まだ火災があちこちで発生しており、延焼は収まっていない。下左は、同年4月13日第一次山手空襲の翌日に撮影された目白文化村(第一文化村)の中村邸周辺。(KikuchiさんClick!ご提供) 下右は、同じく4月13日の空襲で主要校舎が全焼した学習院キャンパス。
◆写真下:左は、1945年(昭和20)5月に千代田城の内濠上空を低空で飛ぶB29。すでに、対空砲火の弾幕も迎撃戦闘機の姿も見えない。右は、B29による偵察飛行では日本じゅうがくまなく撮影されていた。写真は、同年4月初頭に徳山沖で撮影された沖縄へ出撃直前の戦艦「大和」。