わたしが、想像だにしえなかった空中写真が残っていた。1941年(昭和16)6月25日に陸軍航空隊が、なんと上落合と下落合を斜め上空から撮影した鳥瞰写真だ。これらの写真類は、たとえば1936年(昭和11)に同じ陸軍によって撮影された空中写真Click!とは異なり、測量や地図作成のために撮られたものではなく、なにか別の目的で撮影されたものらしい。
 なぜなら、地上へ向けてシャッターを切る位置や撮影角度に、真俯瞰からの空中写真のような規則性がほとんど感じられないからだ。おそらく地図や測量とは別の、なんらかの調査目的で撮影されたものだろう。落合地域に限っていえば、柏木地域(現・東中野)上空から目白崖線へ向けて撮影されたものと、少し飛行したあと上高田の上空あたりから角度をやや変えて同崖線の方向を撮影した、2枚の写真が残されている。すなわち地上にある立体物、住宅や地形の観察にはまたとない資料であり、願ってもない「3D」画像となっているのだ。
 まず、下落合から見てみよう。なんといっても目を惹かれるのは、目白文化村Click!の完成形の姿だ。第一文化村から第四文化村にいたるまで、同文化村の全貌がとらえられている。特に第三文化村の完成形は、わたしも初めて目にする光景だ。1936年(昭和11)に撮影された真俯瞰の空中写真では、投機目的Click!で買われた土地が空地のままであり、第三文化村にはあまり家々が建設されていなかった。また、1944年(昭和19)の空中写真Click!では、撮影機が高々度すぎて家々の並びはわかるものの、そのかたちまでは判然としなかった。
 さらに、戦後の1947年(昭和22)に米軍のB29によって撮影された、爆撃効果測定用の空中写真では、すでに第三文化村の大半が空襲で焼失しており、特に北側の敷地にはなにも残っていなかったのだ。だから、第三文化村の詳細を目にするのは、これが初めてということになる。坂口安吾に追っかけられていたらしい矢田津世子Click!や、独立美術展Click!に参加していた曾宮一念Click!が自宅の改築のときだろうか、一時的に暮らしていた第三文化村の目白会館文化アパートもとらえられている。もちろん、建て替えられた八島邸Click!や国際聖母病院Click!も同様だ。


 第二文化村の西側には、この空中写真が撮影されたのと同年の1月20日から、勝巳商店Click!によって販売がスタートしている「第五文化村」Click!の造成地が見えているが、いまだほとんど住宅が建っていない。また、アビラ村Click!には大きな島津源吉邸Click!をはじめ、この年に竣工したばかりの手塚緑敏・林芙美子邸Click!、同じく林自身が「お化け屋敷」Click!と呼んだ旧邸、金山平三Click!アトリエ、刑部人Click!アトリエ、松本竣介Click!アトリエなど、当ブログに登場した画家や作家たちの邸がリアルに見えている。しかも、環状6号線(山手通り)の工事が進捗しておらず、街々がいまだ分断されていない、下落合としてまとまりのある住宅街が展開している。
 さて、下落合の南に拡がる上落合の街は、下落合にも増してハッキリとらえられており、まるで手に取るように家々の様子がわかる。1941年(昭和16)現在、妙正寺川の直線化工事はなされておらず、山手通りの建設工事Click!を含め、これらの事業が戦時中、おそらく1942年(昭和17)から翌年あたりにかけて大規模に実施されていったことがわかる。バッケが原Click!の様子や、バッケ堰Click!の位置も明確に特定でき、蛇行する妙正寺川の中洲のように見えるあたり、上落合850番地Click!には詩人・松下文子Click!とともに暮らしていた尾崎翠Click!の借家と思われる家がくっきりと見えている。1938年(昭和13)の「火保図」には、すでに採取・記録されていない住宅なのだが、妙正寺川の工事予定ですでに廃屋となっていたのかもしれない。


 松本竣介が『郊外』Click!(1937年)にスケッチした、落合第二小学校(現・落合第五小学校)の校舎の形状もよくわかり、その坂上で小学校の拡声器騒音に悩まされ、執筆できないとヒステリーを起こした宮本百合子Click!の家も見える。島津邸や刑部邸を設計した、建築家の吉武東里Click!の自宅も写っており、戦前の上落合地域の全貌が一望できるのだ。
 さらに、少し遠景になるが西落合(旧・葛ヶ谷)や、長崎地域もよくとらえられている。目白通りをはさみ、目白バス通り(練馬街道)Click!沿いには長崎市場Click!や映画「洛西館」Click!が見え、現在の新青梅街道沿いに展開する街々の様子、武蔵野鉄道(現・西武池袋線)の椎名町駅と東長崎駅、住宅街が形成されはじめている新しい西落合一帯から荒玉水道Click!の野方配水塔Click!までがきれいに記録されている。
 これら戦前の街々は、わずか4年後の1945年(昭和20)4月13日Click!と5月25日Click!の山手空襲で、その多くが焼失してしまうのだが、戦前から落合地域や長崎地域で暮らしてきた方々には、馴染み深い、そして懐かしいかけがえのない風景だろう。

 これら超貴重な斜め俯瞰からの空中写真は、私鉄沿線を中心にして意識的に撮影されている気配も感じられるので、陸軍航空隊がなんらかの必要性から、鉄道沿いの街々を把握する目的で実施された空撮任務なのだろうか? あるいは、残された同年同月の写真点数が少ないことから、空撮の演習として実施されたものだろうか? 今後は、落合地域をとらえた2枚の写真をベースに、それぞれの街角ごとに細かく観察した記事を書いていきたいと思っている。

◆写真上:1941年(昭和16)の日米開戦の年、陸軍によって撮影された落合地域の空中写真。
◆写真中上:上は、柏木(現・東中野)の上空から撮影された下落合。下は、別角度の下落合。
◆写真中下:上は、同じく柏木上空から撮影された上落合。下は、別角度の上落合。
◆写真下:長崎地域から西落合にかけての遠望で、左端に見える白い突起が野方配水塔。