以前にご紹介した、1927年(昭和2)3月に発行された「西武鉄道沿線御案内」Click!改訂版の画像を入手した。1930年(昭和5)ごろに発行された「西武電車沿線案内」がそれで、別館のものたがひさんClick!から詳細な画像データをお送りいただいたので、旧版と比較しながら新版の内容をご紹介したい。なお、新版のタイトルは「西武電車」となっており、また開業後に掲載された新聞媒体など各種広告も、西武鉄道村山線のことを「西武電車」の名称で統一しているので、西武鉄道としてはこのネーミングを浸透させたかったものと思われる。しかし、沿線地域では鉄道の名称に関する面白い習合現象がみられ、「西武鉄道が経営する西武電車」というイメージが強いせいか「西武電鉄」という呼称、あるいは地域地図(落合町や淀橋区などの区分図など)への「西武電気鉄道」という記載が、その後、敗戦時までエンエンとつづくことになった。
 さて、1927年(昭和2)の開業直前に発行された「西武鉄道沿線御案内」が、日本橋浜町の日本名所図絵社による制作だったのに対し、1930年(昭和5)の「西武電車沿線案内」には発行所の記載がない。旧版の「沿線図絵」が、鳥瞰図画家として有名だった同社社員の金子常光の作品だったのに対し、新版には「旭堂(TN)」の落款があるものの、どこの誰が描いたものかが不明だ。ひょっとすると制作費節減のために、西武鉄道社内の制作部門が内制しているのかもしれない。表紙のビジュアルも含め、デザイン・レイアウトのすべてが一新されている。旧版の表紙が、いかにも軽妙なイラストタッチだったのに対し、新版の表紙はおそらく村山貯水池の風景を描いたものだろう、やや重厚で暗めな油絵タッチに変更されている。
 「西武電車沿線案内」の奥付を見ると、淀橋町角筈788番地の西武鉄道本社とともに、上石神井駅に新設された西武鉄道営業所、そして開業したばかりの村山貯水池湖畔の村山ホテルが並んで記載されている。名所案内として挿入されている写真類も一新され、村山貯水池が特に大きくフューチャーされている。同貯水池の眺望をはじめ、湖面に設置されたばかりの大噴水、湖畔の森林など写真点数がもっとも多い。また、飛行機を見物するのが流行したものか所沢飛行場の写真、ハイキングの途中で立ち寄る行楽のひとつだったのか川越の甘藷掘り(イモ掘りClick!)の写真などもめずらしい。また、上井草に建設されたばかりの西武競技場の写真も載っており、東京市街地にあった早稲田大学や明治大学、法政大学などのグラウンドを次々と誘致するなど、西武鉄道が沿線に人々が集まりやすい施設を、できるだけ建設していった様子がうかがわれる。
 
 
 
 鳥瞰図絵が一新された、蛇腹に折りたたまれる「沿線図絵」を見ると、旧版では赤の実線で描かれていた早稲田までの地下鉄「西武線」Click!が、工事の先行きが不透明になってきたものか、予定線の点線として描かれるようになった。沿線に描かれた名所・旧跡や多彩な行楽施設のイラストは、旧版に比べてそれぞれサイズが大きめに描き直されているのが目立つ。西武鉄道としては、旅客をできるだけ沿線の奥へ奥へと導き、長距離の乗車を誘引するとともに、同線沿いに開発されつつあった郊外住宅地も、同時に強くアピールしたかったのだろう。
 「沿線図絵」の裏面に印刷された、観光スポットの紹介コピーもブラシュアップされている。2色印刷なのは旧版と同様だが、上部に線路と駅名が描かれた鉄道イラストが挿入され、駅ごとに行楽地や名所がひと目で参照できるように工夫された。旧版の文章がリライトされ、おしなべて読みやすくはなっているのだけれど、目白文化村Click!の解説はよけいにわけがわからなくなってしまった。旧版では、「文化村」という項目で目白崖線上の洋風文化住宅街を紹介しており、目白文化村の名称は本文に登場していたが、新版では「目白文化村」という項目をわざわざ設けている。
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 目白文化村(北一町) 妙正寺川に面し、目白台から御霊神社付近迄の南向高台一帯の地に邸宅、別荘等建ちならんでゐる。目白駅まで遠すぎた不便は取除かれた。
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 相変わらず目白台から御霊神社まで、つまり江戸川橋近くの目白坂から下落合西端のバッケ坂まで、目白崖線沿いの住宅地全体が「目白文化村」ということになっている。
 
 
 目白台や現・下落合が面しているのは、神田上水(神田川)であって妙正寺川ではないし、「目白駅まで遠すぎた不便」と書かれているけれど、この規定では「目白文化村」に含まれているらしい近衛町Click!や近衛新町Click!は、目白駅まで徒歩数分の距離なので整合性がとれない。つまり、前半の文章にみられる規定と、後半の記述とがチグハグで齟齬が生じているのだ。
 大正中期、下落合の林泉園Click!に面した中村彝Click!アトリエを訪ねた中村秋一Click!が、のちにそこを「目白文化村」だと誤解して書いているのも、このような規定が大正期から地元以外の地域で一般化していったとすれば無理もないのだろう。これでは、金乗院Click!近くの“電気の家”=山本忠興邸Click!も、巨大な西洋館・藤田邸Click!(現・椿山荘)も、はたまたアビラ村(芸術村)の金山平三アトリエClick!も林唯一アトリエClick!も、みんな残らず「目白文化村」に建っていたことになってしまう。昭和に入ってから、マスコミなどに登場する記事や広告、資料類、あるいは新たに開発される住宅地Click!などの名称において、「目白文化村」の規定がどんどん曖昧化していったのは、西武鉄道によるこのパンフレットを含めた、さまざまな広報資料に由来するのかもしれない。
 ものたがひさんからお送りいただいた、新版「西武電車沿線案内」(画像データ)は保存状態がとてもいいようで、褪色や汚れなどが少なく細部まで参照することができ、発行当初の姿をよくとどめているようだ。この新版パンフを見ると、西武鉄道が観光事業や宅地開発へ本腰を入れ、この時期、沿線へ少しでも多くの集客あるいは集住民をめざしていたのがわかる。


 訴求のポイントが、「西武電車で遊びにいらっしゃい」から「西武電車沿いに住んでみませんか?」へと変わっていく、まさに過渡的な時期の販促ツールといえるのではないだろうか。

◆写真上:1930年(昭和5)ごろに発行された「西武電車沿線案内」の表紙(左)と裏表紙(右)。
◆写真中上:改めて撮影しなおされた掲載写真で、井上哲学堂(上左)と石神井公園三宝池(上右)、西武競技場(中左)と所沢飛行場(中右)、村山貯水池(下左)と湖畔に拡がる森林(下右)。
◆写真中下:同じく川越の甘藷掘り(上右)と小金井のサクラ(上右)、村山貯水池にできた大噴水(下左)。下右は、1928年(昭和3)に完成した村山貯水池湖畔の村山ホテル(のち多摩湖ホテル)。
◆写真下:上は、「旭堂(TN)」の落款が入った沿線図絵の下落合周辺。下は、レイアウトが一新されコピーもブラシュアップされた「西武電車沿線案内」の下落合界隈。