1925年(大正14)12月24日、陸軍は西武川越線(現・西武新宿線の一部)の所沢駅周辺で、大規模な「兵器、器材鉄道貨車搭載演習」を実施しようとしていた。全国的に行なわれる鉄道輸送演習の一環として、所沢周辺が選ばれているのは、もちろん陸軍の所沢飛行場Click!があったためだ。演習は、翌1926年(大正15)2月2日から24日にかけて、全国各地で実施されている。
 敵を観測したり、防空用に係留したりする気球やその器材類を、貨車(無蓋車)で運搬する訓練が所沢駅の周辺で行なわれた。また、飛行機を各部位に分解して個別に運搬し、輸送先で改めて組み立てる研究も検討されている。陸軍参謀本部が演習に先立ち、1925年(大正14)12月に配布した「兵器、器材鉄道貨車搭載演習施行要領」には、次のように演習の目的が規定されている。
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 本演習ハ主トシテ内地鉄道十五噸無蓋貨車(或ハ其以上ノ大型貨車)ニ対シテ未タ正確ナル搭載ノ実験ヲ経サル兵器、器材ニ就キ其搭載量及方式ヲ研究シ 以テ戦時ニ於ケル鉄道輸送計画ノ基礎ヲ確立シ且其実施ヲ円滑ナラシムルヲ目的トス 又同一ノ目的ヲ以テ南満州鉄道無蓋貨車ノ模型ニ対スル演習ヲモ併セ施行ス
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 当時の陸軍は、戦時ではないので予算が潤沢でなかったせいか、省線ないしは私鉄から演習のために貨車を借りるときは、レンタル料の高価な箱状の大型貨車ではなく、できるだけ安価な無蓋車にするようコト細かな指示までが出されている。
 この演習が行なわれる直前、1926年(大正15)1月25日に演習の統裁官だった陸軍少将・木原清から陸軍省あてに、「統裁部職員ニ対スル希望事項」という書類が提出されている。これは、演習が予定されている各鉄道会社から、演習を統括する陸軍省内に設けられた組織「統裁部」へと参加している、鉄道各社の職員も含めて配布された書類だと思われる。西武鉄道と陸軍省とが、密接に連携している様子をうかがわせる文章なので、文中の「三」を引用してみよう。
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 三. 本演習ニ於テハ鉄道職員亦参加シ吾人ト共ニ研究ニ従事セラルルヲ以テ 此際両者密接ニ協同シ鉄道輸送ノ見地ヨリ兵器、器材並鉄道車両ノ制式如何ヲモ攻究シ得ルノ便益アリ 而シテ此カ攻究ノ結果カ将来制式改正ノ資料タルヲ得ハ更ニ幸甚ナリ 職ニ兵器、器材ノ設計、調査ニ任セラルル諸官ニ対シテ特ニ之カ研究ヲ嘱望ス
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 陸軍省の統裁部と、西武鉄道が同部へ派遣した幹部社員とが「密接ニ協同シ」たことをうかがわせる要領事項だが、おそらく大規模な演習の計画時点(1925年内)から、西武鉄道の村山線を井荻以西の高田馬場駅Click!方面へ乗り入れる計画や、東村山駅に集積されていた厖大な建築資材Click!を、戸山ヶ原の陸軍施設まで運搬してくる計画などが、すでに両者の間で話し合われていたものと想定できる。そして、井荻から高田馬場(実際は下落合Click!)までの線路敷設工事を、陸軍の鉄道連隊が施工する下準備も進められていたように思われる。
 西武電鉄(現・西武新宿線)における井荻-高田馬場(実質は下落合)間の線路が、鉄道連隊の演習によって敷設されたという事実確認の“種本”=出典として、おそらくもっとも多く用いられているものの1冊に、1971年(昭和46)に出版されたお隣りの『中野区史-昭和編-』がある。専修大学の栗木安延助教授が執筆している、当該箇所から引用してみよう。
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 中野区地域でも西武鉄道村山線(現在の新宿線)が、昭和ニ年(一九二七)四月十六日に開通した。国電高田馬場駅と東村山を結び、同時にそれまで東村山と所沢間の川越線も電化し、今日の西武新宿線の基礎をつくった。(中略) この西武村山線の敷設作業は、千葉県津田沼の鉄道第一連隊の演習として行なわれ、建設費は、いわば、ただ同様の少ない費用ですんだ。しかも、軍隊の演習だから、なによりも工事のスピードが重視される。そのためであろうか、昭和ニ年一月に着手して、四月には開通という短期間の工事だった。
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 この記述には、事実関係に関連して明らかに4つの誤りがある。1927年(昭和2)4月16日に開通したのは、氷川明神前にあった西へ移設される前の初代・下落合駅(ないしは建て前では下落合15~16番地にあった高田馬場仮駅Click!)であり、「国電高田馬場駅」に乗り入れた同線駅でないことは、このブログの読者ならすぐに気づかれるだろう。
※その後の取材で、高田馬場仮駅は山手線土手の東側にももうひとつ設置されていることが判明した。地元の住民は、「高田馬場駅の三段跳び」Click!として記憶していた。また、鉄道連隊の工事は東村山から田無の先の井荻付近まで8日間、井荻付近から下落合の山手線線路土手まで7日間の、のべ15日間の建設リードタイムだったことも判明している。
 それ以外に、まず鉄道第一連隊の本拠地についての記述だ。陸軍の鉄道第一連隊は千葉県千葉(市内)を拠点としていたのであり、千葉県津田沼に本部を置いていたのは鉄道第二連隊のほうだ。また、西武電鉄の井荻-下落合間(高田馬場駅は未設Click!)の演習工事を行なったのは、津田沼鉄道第二連隊とともに、朝鮮鉄道の鎮昌線で行なわれた線路敷設演習につづき、千葉鉄道第一連隊の部隊も同時に投入されている可能性が高い。
 さらに、線路敷設の演習工事は1927年(昭和2)1月に着手しているのではなく、同年1月13日には「新兵器」を投入した線路敷設の演習が、すでに終了している公算が高いことだ。それは、「新兵器」の成果を報告する書類「鉄道敷設器材審査採用ノ件申請」が、近衛師団長・津野一輔から陸軍大臣・宇垣一成あてに、1月13日付けで提出されている点に注目したい。演習が完全に結了しなければ、この種の報告書が現場から陸軍省の中枢へ上がることは考えにくい。
 そして、なによりも鉄道連隊による井荻-下落合間の線路敷設演習が、1月から4月までの3ヶ月以上もかかることなどありえない。『中野区史』がいう「短期間」などではなく、当時の鉄道連隊による実績を踏まえるなら、超「長期間」になってしまうのだ。そんなノンビリした鉄道敷設工事をしていては、兵員の増強や兵器の運搬、兵站などを必要とする前線では戦闘が終わってしまうだろう。
 
 鉄道第一・第二連隊の合同による前年の演習実績では、13哩(マイル)=約21kmにおよぶ線路敷設の演習をわずか2ヶ月弱で完了している。井荻-下落合間は、約8kmにわたる平坦な直線状の線路敷設にすぎず、困難な演習をこなしてきた鉄道連隊にしてみれば、2~3週間程度のほんの朝飯前の仕事だっただろう。では、これまで西武鉄道の敷設に関連し、出典の“種本”として多用されてきた「公式」記録、『中野区史』にみられる記述の誤りについて、ひとつひとつ検証していこう。
                                  <つづく>

◆写真上:1923年(大正12)の関東大震災で被害を受けた、東海道線と横浜線の復旧のため横浜の子安付近に出動した千葉県津田沼の鉄道第二連隊。
◆写真中上:左は、1925年(大正14)9月に計画された「兵器、器材鉄道貨車搭載演習」の施行資料。右は、西武線の所沢停車場で行なわれた演習計画の実施内容資料。
◆写真中下:左は、1971年(昭和46)に出版された『中野区史-昭和編-』(中野区役所)。右は、1926年(大正15)5月に行なわれた津田沼-松戸間の松戸線線路敷設演習の陸軍資料。
◆写真下:いずれも現在の西武新宿線で、旧・指田製綿工場前Click!(清水川橋筋)の踏切りから下落合駅方向の眺め(左)と、氷川明神前の旧・下落合駅あたりを通過する西武電車(右)。