とてもめずらしい地図が残っていた。1927年(昭和2)に発行された、1/8,000の落合町市街図(地形図)だ。前年の1926年(大正15)の10月に発行された、「下落合事情明細図」Click!につづく落合地域の姿を記録した地図として位置づけられる。この地図に記録された表現の面白さは、おもにふたつのテーマが重なって存在しているところにある。
 ひとつは、東京市が計画していた「大東京35区」構想に合わせ、新たに「淀橋区」が策定されている最中の地図だということだ。同地図は、行政側(おそらく東京市)が作成した計画図面の一部であり、「第六図落合町」あるいは「淀橋区其ノ三」という、連続する図面の一部であることを示唆するタイトルとともに、すでに丁目区分の境界線が朱線で記入されている。落合町には、大正期から丁目表記が存在していたことは、先の「下落合事情明細図」の記載や、さらに古い1925年(大正14)に発行された「出前地図」の中央版Click!や西部版Click!でも明白だ。でも、行政側によって明確に丁目が規定され記載されたのは、おそらくこの地図が最初だろう。
 行政による丁目付加が、いつごろから意識され規定が行なわれたのかはハッキリしないが、1927年(昭和2)の地図をベースに区分けされているところをみると、同年からそれほど時間が経過していない昭和初期のころではないだろうか? 丁目を分ける境界線は、その後に成立する淀橋区時代とまったく同じであり、南側の旧・神田上水(1960年代より神田川)の直線化工事によって、戸塚町(上戸塚)と下落合との境界が南北に前後する箇所を除いては、この図面がそのまま淀橋区の落合地域へと引き継がれている。また、葛ヶ谷(現・西落合)の飛び地であった、御霊社の南に位置する「葛ヶ谷御霊下」Click!が「下落合五丁目」と記入されており、同エリアの下落合編入を明確化した、もっとも早い時期の地図であると思われる。
 さて、ふたつめの面白いテーマはといえば、淀橋区の区制計画の基盤となっているこの地図自体が、1927年(昭和2)現在の落合町を映した市街図であるという点だ。これまで、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」(上落合は記載されていない)にフリーハンドで描かれた地図から、1929年(昭和4)の「落合町市街図」にいたるまで、その間を埋める地図を見つけることができなかった。ところが、この地図には昭和最初期の落合地域の姿が記録されている。
 
 
 西武電車は、山手線のガードClick!をくぐって同線・高田馬場駅へと乗り入れるルートが工事中となっており、下落合15~16番地あたりに設置されていた高田馬場仮駅がハッキリと描きこまれている。地元の地図へ正式に描かれた、初めて目にする高田馬場仮駅の姿だ。駅の南端から、神田上水をわたって早稲田通りへと抜ける、長大な連絡桟橋Click!こそ記載されていないけれど、同駅が下落合駅や中井駅と同様の島状ホームClick!を備えた仕様だったことがわかる。高田馬場仮駅へと向かう線路は、やはり相当な急カーブで敷設されており、電車のスピードをかなり落として進入しなければ、常に脱線の危険にさらされたのではないか。
※その後の取材で、高田馬場仮駅は山手線土手の東側にももうひとつ設置されていることが判明した。地元の住民は、「高田馬場駅の三段跳び」Click!として記憶している。
 その高田馬場仮駅から、わずか西へ200m余のところ、下落合氷川明神社の前には初代の下落合駅が設置されている。高田馬場仮駅には見えないが、下落合駅には電車の車庫あるいは折り返しの場Click!と思われるスペースの描写、駅員あるいは乗務員宿舎と思われる建物の記載がみられ、実質的には下落合駅が起点駅Click!(始発/終点)の役割を果たしていた様子がうかがえる。この地図では、色が濃く塗られているエリアが市街地(建物密集区)化している部分なのだが、1936年(昭和11)現在の空中写真を見ても、氷川社前の旧・下落合駅周辺(特に南東側)は、これほどビッシリ住宅が建ち並んだ市街地化が進んでいるようには見えない。

 前年、鉄道連隊Click!による線路敷設演習を結了したのち、1927年(昭和2)のこの時期、東村山駅から貨物列車で運んできた陸軍の軍需物資(建築資材)Click!を荷下ろししたあと、なんらかの保管施設(倉庫など)あるいは物流設備(作業員宿舎や車両庫など)が、いまだ駅周辺にはそのまま建っていたものだろうか? それとも、下落合駅が西へ移動する以前、駅前には将来の繁華街化を当てこんだ、旅館や商店などが早々に建ちはじめていたのだろうか?
 
 目を下落合の北側へ向けると、御留山Click!に建っていた相馬邸Click!の建物が、いい加減に描かれている。これは、古い時代の地形図(大正初期の発行)に記入された描写を、そのまま踏襲しているせいだと思われ、御留山に関しては実際に現地調査をしていないことがわかる。東京土地住宅Click!によって開発された、近衛町Click!の北側には近衛新邸Click!が採取されているが、前年(1926年)の夏に練馬へ移転してしまった目白中学校跡Click!の敷地は、そのまま空き地表現となっている。また、林泉園Click!からつづく谷戸は本来の姿をとどめてはいるが、東邦電力による「近衛新町」の開発計画は、宅地の造成工事が着々と進んでいたようだ。
 この地図が作成されたとき、佐伯祐三Click!はおそらく下落合で風景画の連作Click!をつづけていたのだろうが、この時点では八島さんの前通りClick!が東京府による補助45号線Click!計画として、拡幅予定だったのがわかる。でも実際には、1931年(昭和6)の国際聖母病院Click!建設とともに、青柳ヶ原Click!を南北に縦断する新たに拓かれた聖母坂Click!が補助45号線として規定され、下落合から西武線の踏切りをわたり、上落合の東端を抜けて早稲田通りへと合流することになる。
 下落合の西部を観察すると、山手通りの貫通Click!にともなう多少変化した部分を除き、ほぼ現在の道筋がすべてできあがっている。葛ヶ谷Click!から地名変更が予定されている、西落合の計画的で整然とした道路も同様だ。このころ、落合町は東京市内から押し寄せる住宅建設のラッシュClick!にみまわれており、東京府へ葛ヶ谷の「風致地区」指定を返上し、本格的な住宅地「西落合」の建設へ乗り出していたものだろうか。ただし、「西落合」という地名が実際に住所表記として採用されるのは、淀橋区が成立する1932年(昭和7)10月以降のことだ。それは、同年に出版された『落合町誌』Click!の住所表記が、すべて葛ヶ谷のままであることからも裏づけられる。
 
 この地図には「第六図」という整理番号がふられているが、おそらく淀橋区の区分でも最後のほうの図面に当たるからだろう。いまでも、新宿区(四谷・牛込・淀橋3区による戦後の合併区)における落合地域は、同区の北西部にまるで半島のように突き出た外れの区域であり、淀橋区でも新宿区でもこれまであまり目立たない、ひっそりとした地味な住宅街だった。そこに埋もれている、豊富で多種多様な物語の地層とは裏腹に、それは現在でもあまり変化していないようだ。新都心の新宿が「表座敷」だとすれば、落合の街はいまも昔も「はなれ」のような存在に見える。

◆写真上:1927年(昭和2)作成の落合町地図をベースにした、「淀橋区其ノ三/第六図落合町」。
◆写真中上:地図は、モノクロにして拡大したほうが見やすい。上左は、正式な地図に採取された初めて目にする高田馬場仮駅。上右は、1936年(昭和11)の空中写真にみる下落合15~16番地界隈。下左は、氷川明神前の下落合駅。下右は、近衛新邸と目白中学校跡。
◆写真中下:左は、東京府の補助45号線記載がみえる八島さんの前通り。右は、文化村から目白通りあたり。目白バス通り(練馬街道)に、「活動写真館」として洛西館Click!が収録されている。
◆写真下:左は、のちに下落合5丁目となる葛ヶ谷御霊下あたり。右は、のちに西落合となる葛ヶ谷界隈。1927年(昭和2)の時点で、整然とした道路の建設を完了していたことがわかる。