「浮雲城」というと、いまでは“アンパンマン”を思い浮かべる方がほとんどだろう。でも、下落合に関連する「浮雲城」は、もう少し内容がシリアスだ。このサイトでは、結婚した相手が気に入らず、さっさと婚家を飛び出して自由に生きた女性たちを、これまで何人かご紹介してきた。
 大正期から昭和初期にかけて話題になった女性たちで、目白通りをはさみ下落合の北側、上屋敷(あがりやしき)の宮崎龍介Click!と結婚した柳原白蓮Click!、下落合の七曲坂Click!はタヌキの森Click!横で暮らしていた九条武子Click!などが代表的な存在だ。女性たちが結婚することでしか生活する術を持たなかった時代に、彼女たちは主体的に意思決定をし、サッサと行動に移す例外的な女性たちとして、ことさら世間の注目を集めている。もっとも、彼女たちには一般的な女性にはない、その「自由」を得られる財力と華族という出身階級があったことも忘れてはならないだろう。
 1945年(昭和20)、日本が戦争に敗けると米国型「民主主義」がもたらされ、男女が自由意思で恋愛し結婚することが、特に女性の側がポジティブに選択し意思表示をすることが、むしろ当たり前な世の中となっていった。これは米国でもどこか事情が似通っていて、それまで「結婚」や「恋愛」を通じて受動的な生き方をしてきた女性たちが、にわかに自己主張して意思決定をしはじめたのだ。先日から、sigさんClick!がディズニーアニメの歴史を詳細にたどる連載をされているが、そこに登場するヒロインたちが「Dreams come true」(Someday my prince will come)タイプの姿勢から、大きく変化していく様子が貴重な画像とともに紹介されている。
 戦後は、結婚した相手が気に入らなければ、さっさと家を飛び出してもとりたてて不自然な時代ではなくなっていった。ただし、元・華族の女性が連れ合いのもとを飛び出して、ほかの男と結婚するとなると、戦後すぐの時期はまだまだ格好の週刊誌(月刊誌)のゴシップネタになっていたようだ。嫁ぎ先である島津忠秀のもとが気に入らず、島津家を飛び出して下落合へさっさと帰ってきたのは、近衛文麿の次女である近衛昭子Click!だ。下落合は、彼女が生まれ育った土地でもあるので暮らしやすかったのだろうが、再婚相手が下落合に住んでいたという事情もある。
 ゴシップ記事によって「浮雲城事件」と名づけられた、自由な意思を主張する女性が次々と登場しはじめた、戦後を象徴するこの出来事を見てみよう。雑誌には「事件」などと書かれているけれど、女性が夫を嫌いになって好きになった別の男と再婚したという、別にめずらしくもなんともない、ただそれだけの出来事だから、今日ではしごくありふれた日常的な茶飯事だ。当時の雑誌が、この出来事に飛びついたのは、太宰治の『斜陽』(1947年)がベストセラーとなり、「斜陽族」ブームのただ中にあったから、よけいに旧・華族の没落の延長線上で面白おかしく取り上げたのだろう。
 
 案のじょう、柳原白蓮の「恋の逃避行」や九条武子の「無憂華夫人」は、いまでも語り草になっているけれど、近衛昭子の「浮雲城事件」は地元・下落合でも早々に忘れ去られたようだ。出来事の時代背景が、大正期と戦後とではまるっきりちがうからだろう。ちなみに、華族や一部の士族などとは異なり、江戸東京の町では女性が自己主張し意思決定をして主体的に行動するのは、別に明治維新があろうが敗戦を経験しようが、一貫してまったく変わっていない。
 雑誌の記事は、あることないこと面白おかしく書いてセンセーショナリズムを追求するのがあたりまえだから、その経過のどこまで“ウラ取り”が済んだ記述なのかはいっさいわからない。でも、近衛昭子が夫である島津忠秀と離婚し、ほどなく好きになった整体師の野口晴哉と再婚したのは事実だ。おどろおどろしい記事を、どこまで信用していいのかは不明だが、ことの経緯を仮名で記した『浮雲城』という暴露小説が発表されたのも、また事実のようだ。島津家に寄宿していた、旧・加賀藩前田家出身の吉村淳子(ペンネーム加賀淳子w)という女性が書いたようなのだが、今日、同書を発見することができない。もっとも、こちらも雑誌社に煽られて書かれたものかもしれないのだが・・・。
 整体師の野口晴哉は、戦前から華族屋敷などへも出入りしていたせいか、『浮雲城』(多田という整体師として登場している)では、「小男のラスプーチン」などと書かれているようだ。雑誌記事では、人間関係がもうドロドロのグチャグチャな「バクロ合戦」として扇情的に描かれており、もはや事実かどうか確認のしようがないのですべて省略するけれど、島津家を飛び出した近衛昭子は下落合3丁目(現・中落合2丁目)の野口邸に身を寄せている。この部分は事実であり、下落合での写真も掲載されているので、1950年(昭和25)発行の『月刊読売』3月号からちょっと引用してみよう。
 
 
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 事実、新宿区下落合三丁目の国際聖母病院近くにある野口氏宅には、日曜日ともなると子供の手を引いた先夫島津氏の姿がみられ/「おたあさま(お母様)」/と昭子さんに昔変らぬ調子で甘える子供たちの無邪気な声が洩れる。/元華族の人々はいつた。/「不可解だ、島津君は何か、痛いところを野口に掴まれているんじやないかナ」・・・
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 ・・・と、こんな調子で書かれており、近衛昭子との間にできた子供たちを連れて、島津忠秀は日曜ごとに下落合を訪れていたようなのだ。その様子が、旧・華族の行動にしてはあまりに「奇異」なので、あらぬ憶測を書かれ放題になってしまったような気もする。今日では、離婚したあと別れた子供が定期的に親へ会いにくるのは、別にめずらしくもない光景だ。
 1960年(昭和25)に作成された「下落合全住宅案内図」には、国際聖母病院の西、八島さんの前通りClick!を少し入った下落合3丁目1418番地に、野口邸が採取されている。形式的で不本意な結婚生活ではなく、好きな男と再婚した近衛昭子は夫が死去するまで連れ添っている。その間、夫とともに当時は聞きなれなかった「整体」術の普及につとめ、エッセイや句集などの著作も残している。
 

 東京美術学校(現・東京芸術大学)には、野口式体操(通称こんにゃく体操)というのがある。わたしは、こんにゃく体操を考案したのも野口晴哉だろうと想像していたのだが、こちらは野口三千三によるものだった。ちなみに、両者の間に姻戚関係があるのかどうかまでの確認はとれていない。東京芸大では、美術科でも音楽科でも、指や腕にケガをしてしまったらお話にならないので、ハードなスポーツは禁止なのだそうだ。分野は異なるけれど演劇の文学座研究所でも、野口式こんにゃく体操がずいぶん以前から導入されているのを、連れ合いから聞いて知った。

◆写真上:下落合3丁目1418番地(現・中落合2丁目)の、野口邸跡(右手)あたり。
◆写真中上:左は、1934年(昭和9)に下落合の近衛新邸で撮影された渡米直前の近衛昭子。右は、1950年(昭和25)に島津忠秀との離婚後に撮影された近衛昭子。
◆写真中下:上左は、1950年(昭和25)に発行された『月刊読売』3月号の表紙。上右は、同誌の目次でイラストは野口邸から100mほどしか離れていない佐伯アトリエの佐伯米子Click!。下左は、同誌の「浮雲城事件」の記事。下右は、下落合の近衛新邸(近衛文麿・秀麿邸)跡。
◆写真下:上左は、1947年(昭和22)の空中写真にみる野口邸。上右は、1960年(昭和35)の「下落合全住宅案内図」にみる野口邸。下は、下落合で暮らす野口(近衛)昭子と野口晴哉。