洋画家・鬼頭鍋三郎の名前は、すでに松下春雄Click!が参加していた名古屋の美術研究グループ「サンサシオン」がらみの記事Click!で、すでにここでも登場している。鬼頭は、松下春雄が下落合に住み「下落合風景」シリーズClick!を描いているので、それへ惹かれて下落合にやってきたのだ・・・と、勝手に解釈し思いこんでいた。ところが、順序はまったく逆なのだ。
 まず、鬼頭鍋三郎が下落合にやってきて住みつき、付近の風景を描いていたことは、ある方からお送りいただいた1923年(大正12)制作の『落合風景』が残っていることでも明らかだ。当時、松下春雄はすでに東京へ来て、岡田三郎助に師事し本郷洋画研究所へ通っていたが、浅草のオペラ館周辺に住んでいて下落合とはまったく関わりがない。名古屋画廊が1989年(昭和64)に出版した「松下春雄」展図録から、「サンサシオン」の仲間だった春山行夫の証言を聞いてみよう。
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 松下君は、最初に上京した時代に、浅草のオペラ館(大衆寄席)で、舞台装置を手伝っていたと、いっていました。背景を描いたり、舞台にゴンドラのつくりものを配置したりして、一晩でベニスの港が出来あがるといっていました・・・。(春山行夫「野バラの丘-松下春雄君の思い出-」より)
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 このあと、1923年(大正12)9月の関東大震災Click!に遭遇した松下と、落合地域に住んでいた鬼頭鍋三郎は、ともに名古屋へ帰省している。鬼頭と松下が知り合ったのは、この帰省時ではなく、名古屋の人見彌(わたる)洋画塾でいっしょだった可能性が高い。ふたりは、このあと中野安次郎や佐藤一英、加藤喜一郎を含めて名古屋で「サンサシオン」を旗揚げすることになる。
 冒頭に掲載している画像は、1923年(大正12)の鬼頭作『落合風景』だが、おそらく彼が関東大震災で名古屋へ引き上げる直前に描かれたものだろう。鬼頭鍋三郎が、下落合のどこに住んでいたのかは不明だが、描かれた『落合風景』にはかなりの特徴がある。
 直線状に整備された、1間半か2間ほどありそうな道路、規則的に並んだ電柱(電燈線)、道端に整備された下水溝、そして左右に建ちはじめている家並みから、すでに宅地開発がかなり進んでいるエリアの情景だ。1923年(大正12)の大震災前というと、箱根土地Click!が目白文化村Click!の第一文化村の販売を終え、第二文化村の開発にかかっていた時期であり、東京土地住宅Click!が近衛町Click!の建設をしているころで、いまだ郊外住宅地としての落合が大きく注目されてはいなかったころだ。大震災後は状況が一変し、東京市街から転居してくる住民たちによる住宅建設ラッシュClick!にみまわれるのだが、この作品はそれ以前の、比較的ひっそりとした落合風景を写している。
 
 また、鬼頭の『落合風景』に描かれた地形にも特徴がある。彼が写生をしている位置は、どうやら下り坂あるいは下り斜面らしい。左右のコンクリートと思われる塀のパースや、視線の高さからもそれはうかがえ、前方の道を歩く人物の頭よりも鬼頭の視線は高い。右手に並ぶ電柱の、下から3分の1ほどの高さは十分にある。そして、画面右手の塀の描き方は、右手にも上り坂がありそうな気配で、反対側の左手にも下り気味の道が通っていそうだ。画面の左から太陽光が射しているので、どうやら左手が南側に近い方角だとすると、右手が上り斜面の北側ということになる。カラー画像で観れば、細かなディテールがわかるのだが・・・。
 1923年(大正12)現在で、このような情景は目白崖線に通う坂道を下りきってすぐのところ、すなわち鬼頭がイーゼルを立てている坂道あるいは斜面の背後に、目白崖線が存在すると考えた場合、このような直線状の道路へとつづく風景は存在しないと思われるが、目白崖線の麓の緩斜面を西側に向いて描いた情景だとすれば、思い当たるところが1ヶ所存在する。また、時代的にも早い時期なので、自ずと風景のポイントも絞られてくるのだ。
 大正中後期の下落合には、直線状の道路が案外少ない。住宅地として、あらかじめ計画的に造成された道路以外、多くが江戸期から明治期にかけての山林や農地の道のままであり、この作品の区画にはかなり開発の手が加えられているのがわかる。つまり、大震災の以前から、ある程度の家々が建っていたエリアではあるが、目白文化村のように共同溝へ電源ケーブルを埋設して電柱をなくしてしまった区画ではない・・・ということになる。
 
 ちなみに当時、東京府の風致地区に指定されていた葛ヶ谷(現・西落合)は、ほぼ地元の農家と農道しか存在せず、例外的に葛ヶ谷の西端へオリエンタル写真工業Click!の工場が誘致されているのみで、宅地開発はいまだ手つかずだった。のちに、作品にみるような直線状の道路が数多く造成される西落合の姿はまだない。また、東京土地住宅による下落合4丁目(現・中井2丁目)のアビラ村(芸術村)Click!開発も、ほとんど新聞発表のアドバルーンのみで進捗していなかった。当時の両地域ともに、このような風景や地形の場所が、わたしには思い当たらない。1923年(大正12)というのは、里見勝蔵が『下落合風景』Click!を描いたころであり、あまりにも時代が「早すぎる」のだ。関東大震災の直後から、落合地域は今日へとつながる風情や道筋が整備されてくるため、それ以前の風景作品の場所を特定するのはむずかしい。
 ほぼまっすぐな道、少し高い位置からその道を見下ろせる場所、右手にも上り坂か斜面、画面左が南側らしい点、目白崖線の急斜面が視界に入らず、また道路に近接していない場所、そして早くから下水溝が整備されている2間ほどの街道らしい風情・・・、これらを総合すると目白崖線の下を通る旧・鎌倉街道のあるポイント、中ノ道(下ノ道)と雑司ヶ谷道という呼称が混在Click!していそうな位置の下落合1804番地界隈、現在の中井通り東端ではないだろうか?
 該当する中井通りの道筋は、北東から南西へ向けて直線状につづいているので、目白崖線の急斜面は道路際まで迫らず、右手はその麓である緩斜面がつづいている。ただし、現在は十三間通り(新目白通り)が、画面のすぐ右手枠外を貫通しているため、土地全体が掘削されずいぶん斜面が削られていそうだ。また、鬼頭鍋三郎がイーゼルを据えている背後の斜面や道路も、現在は新目白通りへとつづいており、坂道が残っているとはいえ、これほどの高低差はなくなっている。画面の左手へと抜ければ、いまだ蛇行したままの妙正寺川が流れているのだろう。・・・と想像してはみたのだが、イマイチ確信が持てないため、ぜひカラー画面で見てみたいものだ。
 
 
 もし、道路の突き当り、横へ黒々と繁って見える樹木の上、ちぎれ雲の流れる下あたりが、空色ではなく緑色に塗られているとすれば、目白崖線が南側へ張り出して見えていることになり、上記の描画ポイントではないだろう。下落合のもっと東寄り、七曲坂などが通う道筋にありそうな風景だ。また、右手の1本目の電柱背後にある、奇妙なフォルムも気にかかる。ポプラのような樹影の木が2本、並んで立っているようにも見えるが、なにやら人工的な構造物のようにも見えてくる。いずれにしても、今日の道筋が形成される以前、関東大震災前の「下落合風景」は、少し前の佐伯祐三『秋の風景』Click!でも書いたけれど、実景を記憶されている方がいないので特定がむずかしい。

◆写真上:関東大震災の直前、1923年(大正12)に制作された鬼頭鍋三郎『落合風景』。
◆写真中上:左は、帰省した名古屋で結成された「サンサシオン」のメンバー。前列右が鬼頭鍋三郎で、後列左が松下春雄。右は、1926年ごろの鬼頭鍋三郎(左)と松下春雄(右)。
◆写真中下:左は、1955年(昭和30)ごろに描かれた鬼頭鍋三郎『ミューゼ・ゴブランの裏通り』。右は、「鬼頭舞妓」で有名な連作シリーズで1972年(昭和47の)鬼頭鍋三郎『先笄』。
◆写真下:上左は、1921年(大正10)現在の1/10,000地形図にみる下落合1804番地あたりの描画ポイント。上右は、1936年(昭和11)の空中写真にみる同所。下左は、現在の同所。下右は、1959年(昭和24)に制作された鬼頭鍋三郎『室内の少女』。