また、非常に貴重な戦時資料をある方からいただいた。淀橋区(現・新宿区の一部)が密かに作成した、空襲に備えた防火帯造りのために住宅街を打(ぶ)ち壊す「淀橋区建物疎開地区図」(秘)だ。おそらく、この計画図はサイパン島の陥落が予想され、東京が長距離爆撃機の空襲圏内に入りそうな1944年(昭和19)の春以降に策定がスタートし、同年夏には具体的な計画案として区民に発表され、秋以降には順次実施へ移されたとみられる。新宿区の資料DBにも登録されていないので区にも保存されていない、たいへん貴重な戦時資料のようだ。
 「建物疎開」が幅20mにわたって行なわれた、目白通りClick!の南側と長崎の目白バス通りClick!(練馬街道)の西側一帯については、これまで何度か記事に書いてきている。でも、淀橋区の建物疎開計画の全貌を実際に見るのは、これが初めてだ。「淀橋区建物疎開地区図」では、建物疎開の実施地区は緑色の帯で描かれており、市街地はピンク、主要道路は薄い赤、「交通広場」の設置は濃い赤色、消火のための「給水不良地」は青の斜線などで描かれている。用いられている地図は、戦時中に発行された「淀橋区全図」をベースにしており、戸山ヶ原の陸軍施設はすべて“白地図”化され、建物はひとつ残らず抹消されている。
 おそらく、東京市あるいは東京都(1943年から「府」が「都」へ変更)の消防関係機関と軍などが中心となって、大規模な空襲を受けたときの被害や延焼のシミュレーションを行ない、その結果にもとづいて各自治体ごとの区分図へ、おおよその防火帯の設置位置やラインを反映させていったものだろう。それを受けた各区役所では、さらに地元の具体的な現場環境などを想定し、実施レベルの手順や方法などを加味して、「建物疎開地区図」を完成させていると思われる。それは、建物疎開のラインに振られているナンバーが「31号」からはじまり「36号」で終わるという、通し番号ではない中途半端な様子からもうかがわれる。同地図は、当然のことながら住民たちには極秘扱いとなり、裏面には「秘」の印判が押されていた。
 さて、まず下落合の「建物疎開」計画から見ていこう。目白通り沿いの南側、旧・下落合1丁目から同4丁目の小野田製油所Click!にかけ、幅が50mの防火帯33号帯(山手沿線・其ノ五)の建設が予定されている。つまり、実際に実施された建物疎開の幅20mよりも、さらに30mも南側へ入りこんだ防火帯の建設が計画されていたことがわかる。33号帯は、目白通りがバス通り(練馬街道)と分岐する長崎の二叉路Click!までくると、バス通りのほうへ折れ北西に向かっている。計画幅が50mもあるので、もし33号帯が計画通りに実施されていたら、下落合のメーヤー館Click!も小野田製油所の近代建築も、長崎の岩崎邸Click!の母屋も残らず壊されていただろう。
 また、33号帯は目白駅前の金久保沢Click!から山手線に沿って直線状に南へと下り、高田馬場駅を通り抜け戸山ヶ原の諏訪通りガードClick!にまで達している。同じく計画幅は50mであり、目白駅の南側から山手線の両側がすべて建物疎開対象となるので、山手線を真ん中にはさみ東西幅が100mの空き地が、諏訪通りへぶつかるまで延々とつづく予定だった。
 

 しかし、南へと下る33号帯の建物疎開は、どの程度実施されたのか疑問だ。なぜなら、金久保沢の豊坂稲荷は、戦前戦後を通じて元の位置を動かずにいるし、山手線の線路沿いの諏訪町に下宿していた学生時代の親父は、建物疎開による立ち退きなどに遭遇していないからだ。この諏訪町下宿は、二度にわたる山手空襲Click!からも焼け残り、戦後まで線路のすぐ近くに建っているのが空中写真でも確認できる。おそらく、建物疎開を実施する以前に、1945年(昭和20)4月13日か5月25日の激しい空襲を迎えてしまったのではないだろうか。
 「建物疎開地区図」ですぐにも気づくのは、下落合と西落合の全体が青い斜線で覆われている点だ。青斜線は「給水不良地」であり、水道網が行きわたっておらず消火作業がむずかしいとみられている地域だ。これに対し、上落合は全体に水道が普及していた様子がうかがえる。下落合にも、とうの昔に荒玉水道Click!が引かれていたのだが、湧水による清廉な清水Click!や井戸水Click!のほうが水道水よりも美味しく、各家庭へ水道管を引くニーズが高くなかったせいなのだ。おカネを払うマズイ水道水よりも、美味しくてタダの井戸水のほうが魅力的な環境は戦後までつづき、下落合の水道普及率がほぼ100%になるのは1960年代末のことだ。同じ崖地(バッケClick!)沿いで湧水が豊富な国分寺崖線(ハケClick!)でも、おそらく同じ現象が見られるのだろう。
 下落合の神田川沿い、あるいは妙正寺川沿いは目白通りよりも防火帯幅が広く、80mにわたって建物疎開が計画されていた。飯田橋方面から伸びてきている緑のラインは、防火帯36号(江戸川線)というナンバーがふられている。これは、東京西北部の市街地を南北に分断する目的で計画されていたようで、火災の延焼を両河川沿いで絶対に阻止するという意図が強く感じられる。戸塚町(早稲田)方面から伸びてきた36号帯は、下落合の南側(旧・下落合1~2丁目南部)で最大約150~200m幅となり、約100m幅のまま神田川両岸沿いに小滝橋までつづいている。また、下落合駅前から分岐した36号帯は妙正寺川沿いを西へと進み、下落合5丁目(旧・葛ヶ屋字御霊下)に建っている住宅をすべて壊して行き止まる計画だった。この計画も実施される以前に、1945年(昭和20)4月13日の神田川沿いに建つ中小工場をねらった第1次山手空襲を受けてしまったのかもしれない。もし、計画がそのまま実施されていれば、下落合氷川明神も丸ごと壊されていた。



 そのほか、新宿駅周辺も緑の帯が数多く描かれており、防火帯31号(山手沿線・其ノ三)および32号(山手沿線・其ノ四)として計画されている。特に目立つのは、新宿駅北側の山手線と中央線の分岐地区で、東西幅がおよそ200mを超える建物疎開が予定され、そのまま80m×2(線路両側)=160m幅で中央線沿線へ、緑の計画帯が延びている点だ。特に、山手線の東側にある西大久保と東大久保の両地域、また西側の柏木地域(現・東中野)が緑の計画帯だらけなのが目をひく。これらの地域は当時、住宅の密集度がかなり高かったのだろう。
 さらに、「交通広場」として明治通り(環5)と早稲田通りとの交差点、および明治通りと大久保通りの交差点が指定されている。「交通広場」とは、交差点に広場のようなスペースを設けて、車両の通行をよりスムーズにしようと意図するもので、消防車などの緊急車両の通過や軍需物資のトラック輸送に便宜を図るのが目的だろう。同時に、大火災が起きた場合などの、地域住民の避難を円滑に進める意図もあったと思われる。もちろん、建物疎開とまったく同様で交差点を中心に、周辺の商店街や住宅街はすべて取り壊されることになる。
 「淀橋区建物疎開地区図」に描かれた計画は、実際に建物疎開が行なわれなかった地域も多く含まれており、また実施された地域でも規模がかなり縮小されているようだ。目白通りや練馬街道沿いも、幅50mの防火帯33号計画が幅20mへと半分以下に縮小されている。実施されなかった地域は、計画を推進する以前に、空襲を受けて焼け野原となってしまったせいもあるが、当然のことながら住民たちによる言わず語らずの、無言の抵抗もあっただろう。
 そして、これだけ多くの住宅地の建物を解体し、それによって出た廃材をどこかへ片づけ、大規模な防火帯工事を実行できるほどの人的資源や機材が、もはや戦争末期の各地域にはほとんど残っていなかったのだ。健康な男性の多くは、入営して戦地にいるか勤労動員で各地の工事へ駆りだされており、建物疎開の対象になった住宅の引っ越し作業さえままならない状況だった。
 

 淀橋区の「建物疎開地区図」による計画は、戦争末期の大本営の作戦立案と同様、もはや計画の現実的な“実現主体”をともなわない、机上の空論に近いものだったのではないか。

◆写真上:幅50mにわたって建物疎開が予定された、目白通り沿いの防火帯33号計画。
◆写真中上:上左は、裏面に押された淀橋区による「秘」の印判。上右は、「淀橋区建物疎開地区図」の凡例。下は、全地域が「給水不良地」と指定された下落合と西落合。
◆写真中下:上は、神田川沿いに予定された防火帯36号計画。中は、妙正寺川沿いを西進する同36号計画。下は、戦時のために“白地図”化された戸山ヶ原の陸軍施設。
◆写真下:上左は、淀橋区でもっとも防火帯幅が広い東大久保3丁目(現・歌舞伎町)と百人町1丁目あたりの防火帯31号計画。上右は、明治通りと早稲田通りの交差点に計画された「交通広場」。下は、新宿駅の周辺で“白地図”化しているのは新宿駅(貨物駅含む)と淀橋浄水場。
★その後、目白通り沿いの建物疎開は、1945年(昭和20)4月2日から5月17日までの、いずれかの時期に行われているのが判明Click!している。