1923年(大正12)9月1日に関東大震災Click!が南関東を襲ったとき、佐伯祐三Click!は渡仏前の休養を兼ね一家で信州渋温泉に出かけていた。「帝都壊滅」のニュースは風聞で知ったが、9月7日消印で米子夫人の実家・池田家Click!から、家族は無事だが「家は全焼しました」というハガキが渋温泉にとどいている。佐伯はひとりで、長野から貨物列車に乗って大宮まで出ると、そこから池袋まで歩いてもどり、おそらく9月10日すぎに池袋1125番地の山田新一Click!を訪ねている。
 翌朝、佐伯と山田は土橋Click!の池田家の焼け跡へ寄ったあと、東京の被災地、おもに下町を中心とする市街地をあちこち巡り歩いている。そのときの佐伯の様子を、山田新一は1980年(昭和55)に出版された『素顔の佐伯祐三』(中央公論美術出版)の中で、次のように書きとめている。
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 この尋常でない光景を見て、僕は愕然たる気持におそわれた。しかし、傍らでこれを見ている佐伯の眼は異様に輝いて、じっと見据え、しかもなんとなく薄気味の悪い、ニタニタ笑いのようなものが面貌の上に表れている。僕はゾッと凄味のようなものを彼に感じた。/佐伯は、/「本所の被服廠跡を見に行こうや」(中略)/被服廠跡は、聞きしに勝る惨状であり、ここが安全な避難場所であると考えた、大勢の不幸な罹災者の死体が、運びこまれた家財もろとも、異臭を放ちながら焼け爛れて、惨状を呈していた。/この有様を見た佐伯は、愕くというか悦ぶというのか、そのどちらともいえない不思議な表情で見惚れ、その場に立竦んで動かない。
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 このあと、佐伯はデッサン帳を抱えて被災地へ飛び出して行くのだが、彼は大震災による被害の様子をドキュメントとして記録にとどめようと、写生してまわっていたのではないだろう。被災地の惨状に、なにかしら強く惹かれる「美」や見惚れるモチーフを発見したからこそ危険を冒す気になったと思われる。彼がスケッチして歩いたのは、建物の残骸や火をかぶった塀など、焼け跡の構造物が多かったようだ。でも、大震災からしばらく経過したこの時期、東京市内には戒厳令が敷かれ、ノンキに写生などしていられる状況ではなくなっていた。再び、山田新一の証言を聞いてみよう。
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 後日、これも彼らしいことであるが、佐伯はデッサン帳を携え、まだ後片付けの方策のない、壊れかかった建物や焼け残りの塀などを写生して歩いた。その不審な姿を朝鮮人と間違われ、すんでのところで巡廻の自警団に袋叩きにされるところだったという。
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 佐伯の震災画帳は現存していないようなので、おそらくこのとき自警団Click!に没収されたのだろう。佐伯は口ペタなせいもあり、また地元の言葉ではなく当時は聞きなれない大阪弁を話す怪しい人物とみられて、殺気立った自警団に捕まったのだろう。佐伯のアトリエClick!は戦災で焼けていないので、佐伯が持ち帰っていたとすれば現存している可能性が高いはずだ。
 
 一方、佐伯アトリエからわずか400mほど北東へ、目白通りを隔てた反対側の長崎1876番地(現・目白の森公園あたり)に住んでいた河野通勢Click!も、地震のあと市街地から目白通り伝いに逃れてくる避難民の流れClick!に逆行して、スケッチブックを手にすると被災地へ出かけている。河野は、市街各地を写生してまわっているが、幸運にも佐伯のように自警団に捕まることも、またスケッチブックを取り上げられることもなかったようだ。
 この差は、おそらく河野が9月1日からそれほど時間のたっていないころ、いまだ人々が避難をするのにせいいっぱいで気をとられ、あちこちで混乱がつづく時期に被災地をまわっているのに対し、佐伯は地震後しばらくたってから、自警団の活動が活発化し市街地の警戒が厳重になっていた時期に出かけたことによるちがいだろうか?
 河野の大震災スケッチは、同年にエッチングとして仕上げられているが、美術展などで展示されることは多くない。現在は、被服廠跡に建てられた復興記念館Click!や武者小路実篤記念館に所蔵されている。岩波書店の小林勇Click!が、河野の震災スケッチに初めて接したときの印象を記している。1983年(昭和58)に出版された、『小林勇文集・第八巻』(筑摩書房)から引用してみよう。
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 河野通勢画伯が、東京の焼跡をスケッチして歩いた、画家は何でも目をそむけずに見なければならないといっている、ということを私は友達からきいて感激した。/そのころ、河野画伯は池袋の郊外に住んでいた。畑のなかに家がぽつぽつ建っている。小さな日当たりのよい家に、画伯は住んでいた。私は或る日尋ねて(ママ)いった。初対面であったが、スケッチを見せてもらいたいと頼んだ。画伯は私の申し出を快くうけてくれた。スケッチの数は相当であった。今心に残っているのは、焼け跡の街路樹や、家がなくなった街の坂道などのスケッチである。
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 小林勇は、関東大震災のときはちょうど20歳で、神田神保町で罹災している。神保町は、地震からわずか1時間ほどで街が丸ごと延焼しているが、小林もまた市内のあちこちを歩きまわっては、その光景を目に焼きつけようとしている。彼は東京市街地のみならず、横浜や鎌倉の罹災地も見てまわった。「被服廠の惨状にも目をそむけず、いどむような心持であった。何でも見てやろうという、不遜な了見であった」と書いている。
 
 河野通勢のスケッチは、どちらかといえば美術画ではなく記録画、あるいは震災時の風俗画に近い。佐伯の震災スケッチが残っているとすれば、おそらく対照的だったのではないだろうか。大震災から22年後の1945年(昭和20)、東京市街では同じ焼け跡の光景が再現されることになるのだが、当時は出版人とともに画家でもあった小林勇は、空襲で焦土と化した東京の街並みを描きとめておくことができなかった。引きつづき、小林勇の文集から引用してみよう。
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 それから二十三年のち戦災で焼けた東京の街を歩きながら、私は思いもかけない景色に出合うと、今のうちにスケッチしておいたほうがよい、などと思った。東京には意外に起伏がある。街の中に墓場が多かった。大木がなかば焼けて寒空に立っている姿などに出合った。心にしみる風景がたくさんあった。しかしついに一枚もスケッチをすることができなかった。今や戦災風景の東京は、跡かたもなくなってしまった。一九四五年に、河野画伯が生きていたなら、恐らく東京の焼跡を、スケッチ・ブックをもって歩いたのであろう。
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 小林勇は、1946年(昭和21)現在で河野通勢を「殺して」しまっているが、もちろん戦災で焼け野原となった東京市街を、河野は生きて目にしている。戦時中から南画(文人画)に惹かれていた河野は、関東大震災の当時とは異なり、あまり写実的な風景世界に興味が持てなくなっていたのか、あるいは震災という天災と戦争という愚かしい人災のちがいから、焦土をモチーフとして描く意味をどこにも見いだせなかったものか、戦災スケッチはあえて描いていないようだ。
 
 
 さて、佐伯祐三が1945年(昭和20)まで生きのびていたとしたら、東京の焼け野原を見てどのように感じただろうか? 河野通勢とは異なり、佐伯は再びデッサン帳を抱え眼を異様にキラキラと輝かせながら、東京じゅうを写生して歩いていた・・・、そんな気がするのだ。

◆写真上:震災時に河野通勢が住んでいた、長崎1876番地あたりの豊島区立目白の森公園。
◆写真中上:左は、1918年(大正7)制作の河野通勢『自画像』。右は、1926年(大正15)の「長崎町事情明細図」にみる長崎1876番地あたりで、鈴木三重吉の「赤い鳥社」が収録されている。
◆写真中下:左は、壊滅した神田で右遠景に見えるのは天井が崩落したニコライ堂。右は、震災復興がもっとも難航Click!した御茶ノ水駅付近の大崩落で、神田川も中央線も土砂に埋まった。
◆写真下:すべて河野通勢による震災スケッチのエッチングで、『アアよかつた』(上左)と『マアマア待つた待つた』(上右)、『丸善跡』(下左)と『御茶ノ水土堤大崩潰図』(下右)。