小川薫様Click!よりお借りしているアルバム写真の中で、清瀬にあった「結核療養所」と伝わっていた情景が、どうやら2ヶ所に絞られてきた。戦前あるいは戦後を通じて、郊外にあった結核療養所というと、東京地方では「清瀬の療養所」の名前が挙がるのだが、少なくとも清瀬には4ヶ所の療養所が存在していたことが判明した。
 戦前までは、結核を発症すると江戸期とたいして変わらない「隔離療養」が一般的だった。当時は、抗生物質が普及していなかったため「死病」といわれ、空気が澄んだ地域へ転居してできるだけ栄養を摂る以外に、治療する方法はなかった。大正期は、「結核には潮風がいい」ということで、発症した人たちは湘南や九十九里などへ転地療養している。
 中村彝Click!の主治医だった遠藤繁清Click!が、「結核予防に関する世人の誤解」Click!(1922年)でも指摘しているように、日本人のほとんどはすでに感染し結核菌を体内に保有しているのであり、発症するかしないかは本人の生活習慣が大きく左右する。「結核に感染する」という表現が誤りであることが、早くも大正時代から指摘されており、ツベルクリン反応で陽性となりBCGを打たずにすんだ人たちは全員がキャリアなのだ。でも、昔から不治の病=「労咳」のイメージが強く、昭和に入ってからも結核というと即座に「隔離療養」という流れは変わらなかった。今日では、ストレプトマイシンでもペニシリンでも抗生物質を摂取し、食習慣を改善すればほどなく治る、それほど重篤でない病気のひとつになっているが、当時は結核というといまだ深刻な病気だった。
 小川様の写真を、実際に清瀬で入所(入院)経験がおありの方に見ていただいたところ、戦前の清瀬には公営の結核療養所として、東京府立清瀬病院と東京療養所があったが、そのどちらでもないことが判明した。府立清瀬病院は、かなり大規模な病院で写真の風情とはまったく異なるとのこと。また、東京療養所は逆に小規模の施設で、写真のように広大な敷地ではなかったということだ。すると、戦後に撮影されたとみられるこれらの写真は、残りのキリスト教系療養所の2ヶ所のうちのどちらかということになる。すなわち、「ベツレヘムの園」か「信愛病院」だ。
 小川様のアルバムには、カトリックあるいはプロテスタントを問わずキリスト教系の建物Click!や施設Click!とみられる情景がよく登場するので、実のお父様の身近にキリスト教信者の友人がいたと思われる。その関係から、キリスト教系の施設へ出向いて撮影Click!したり、あるいは戦前の一時期、清瀬のキリスト教系施設で療養をしていたのではないかと想定できるのだ。
 

 
 
 今回お預かりしたアルバムには、おそらく戦後すぐのころに撮影されたとみられる写真類が多く、清瀬の療養所をとらえた写真は上原慎一郎様Click!が全快後、改めて入所していた施設を再訪したものか、あるいは写真撮影の依頼を受けて訪問したものか、そのあたりの経緯が曖昧だ。記念撮影の画面が多いため、後者のような気もするのだが・・・。でも、戦前から様子がたいして変わらないと思われる、清瀬の結核療養所をとらえた写真としてはとても貴重なものだろう。
 もうひとつ、アルバムには悩ましい写真が残されている。下落合に住んでいた、小川薫様の親戚の方が写る1枚だ。おそらく、戦後まもなく撮影された旧・下落合(現・中落合/中井2丁目含む)の祭礼をとらえたものだ。下落合氷川明神社あるいは御霊社のいずれかの祭礼かは不明だが、「中頭」や「小頭」と染められた半纏を着る大勢のトビ職たちが、太い竹を組み合わせてこしらえたと思われる山車を引いている。山車には、笛や太鼓の囃子方が乗っているようだ。
 クルマが2台すれ違えるほどの道幅で、左手にはパーマネント「スタイル」という美容院が手前に、奥の隣りには金物屋と思われる看板が見えている。また、右手には古着の仕立て直しだろうか、手前に和服・洋服高価買取と太文字で書かれた看板の店があり、その奥には「誠クツ店」と読めるタテ看板が軒下にかかっている。祭りには当時、下落合に住んでいた小川様の母・上原とし様のお兄様、つまり小川様の伯父様が参加していたので撮影されたものだが、さて、この山車を引っぱる街角が、下落合のどこなのかがまったく不明なのだ。

 道幅からすると、どうしても目白通りの風情ではない。氷川社だと雑司ヶ谷道Click!、御霊社だと中ノ道(中井通り)Click!(ともに新井薬師道)のように思えるのだが、1960年(昭和35)の「事情明細図」を確認しても、このような店のある道筋は存在しない。氷川社や御霊社の祭礼における、神輿や山車の巡行(渡御)経路は現状のものをベースにおおよそ把握しているつもりなのだけれど、その道順に沿って調べてみたのだが、写真のような街並みを発見することができなかった。あるいは、この祭礼写真は戦後すぐのころに撮影されたもので、1960年(昭和35)にはすでに街の様子(店舗の並び)がだいぶ変わってしまっていた・・・ということだろうか?
 聖母坂の上、下落合の子安地蔵通り、旧・府営住宅界隈(現・中落合北部)、西落合との境界あたり・・・と、両社の神輿や山車が通りそうなルートは当たってみたのだが、いまだ場所を特定できないでいる。特に、十三間道路(新目白通り)の建設で消えてしまった道筋、目白崖線の南側にあった通りや小規模な商店街は気をつけて見たのだが、発見できなかった。現在の神輿や山車の渡御経路は、新目白通りができたために当初のルートとは大きく変わっているのだろう。
 
 
 下落合に住んでいた小川様の伯父様が、隣りの月見岡八幡社(上落合)や長崎氷川社(椎名町)の祭礼に参加していた・・・とは考えにくい。どうしても旧・下落合町内の情景に間違いないと思うのだが、どなたか、この街角の風景に見憶えのある方はいらっしゃるだろうか?

◆写真上:全国の結核療養所では、新鮮なミルクを得るためウシやヤギが飼われていたようだが、写真のウシは乳牛ではなく荷役用に飼われていたもののようだ。
◆写真中上:キリスト教系の療養所で撮影されたと思われる、さまざまな記念写真や情景。戦争が終わり米国から抗生物質がもたらされたせいか、写真の人物たちの表情は明るい。下右は、戦後にようやく普及しだした抗生物質ストレプトマイシンの1953年(昭和28)に掲載された雑誌広告。
◆写真中下:戦後まもなく撮影された下落合の祭礼写真だが、どこの街角かが不明の1枚。
◆写真下:上は、下落合氷川社(左)と中井御霊社(右)の睦会エリアと渡御ルートに設けられた神酒所の位置。1994年(平成6)に出版された、新宿歴史博物館『新宿区の民俗4-落合地区篇-』より。下左は、1999年(平成11)の下落合氷川社(クシナダヒメ)の子ども神輿で下のオスガキも参加している。下右は、神田川下流の高田(たかた)にある高田氷川社(スサノオ)の神輿。