下落合にアトリエをかまえた重要な洋画家に、二瓶等Click!(二瓶徳松/二瓶等観)がいる。1918年(大正7)に東京美術学校へ入学すると、同期生には佐伯祐三Click!や山田新一Click!がいた。しかし、同校の予備科へは1年だけ通ったあと、なんらかの事情が発生して退学し、翌1919年(大正8)に改めてもう一度、東京美術学校へ入学しなおしている。
 北海道出身の二瓶は、実家が豪商で裕福であり、中村彝Click!が1916年(大正5)に下落合464番地へアトリエを建てると、それを追いかけるように彝アトリエから西へ200mとちょっと、下落合584番地へ自身の豪華なアトリエと自邸を建設している。1920年(大正9)には、すでにアトリエが存在していたのが中村彝の手紙からも明らかなので、おそらく1918~19年(大正7~8)に竣工したものだろう。彝アトリエや、曾宮一念アトリエClick!と同じ赤い屋根のアトリエは、おそらくいずれのアトリエよりも大きく豪華だったのではないだろうか。また、二瓶は小遣いにも困らなかったらしく、師事した中村彝の作品『少女像(相馬俊子像)』を購入している。
 佐伯祐三も、下落合へアトリエを建てた1921年(大正10)以降は、目白駅Click!へと向かう途中、曾宮アトリエの前と同様、元同期生だった二瓶等(徳松)のアトリエ前を頻繁に往復していたと思われるので、当然、機会があれば同アトリエを訪問していただろう。したがって、中村彝の作品は展覧会で観るほか、佐伯は二瓶アトリエで実物に接していた可能性が高い。同時に、二瓶等は佐伯と中村彝とを直接結ぶ接点であり、両者間でどのようなやり取りあるいは交渉があったのか、さらに他の画家たちとの関係を探れる重要なハブ的存在ということになる。
 しかし、現在では二瓶等に関する情報はきわめて少ない。出身地である札幌の北海中学校(現・北海高等学校)には、ある程度のまとまった資料が眠っているのだろうか? 二瓶は昭和初期に渡仏したあと、帰国すると今度は中国で「満州美術会」に参加しているので、下落合のアトリエはそのままだったけれど日本にはあまりいなかったようだ。1945年(昭和20)の敗戦後、二瓶はすぐに下落合から池袋へと転居している。だから、中村彝の作品が注目され、特に戦後になってから佐伯祐三の作品が大きくクローズアップされはじめたころ、残念ながら二瓶等の影は薄く、証言や手記を残す機会にめぐまれなかったと思われる。
 
 大正期に、帝展や光風会の展覧会に発表された二瓶等の作風を観ると、明らかに中村彝の影響が顕著だ。彝よりは少し薄塗りのように見えるが、大正初期の彝作品に近似している。このサイトの「別館」であるものたがひさんClick!が、二瓶等の作品画像や展覧会資料をわざわざ探し出してくださった。(冒頭写真と図録資料) この二瓶作品を、中村彝図録の『婦人像』あたりに混ぜたら、そのまま不自然さを感じずにページをめくってしまいそうだ。渡仏後そして渡満後に、二瓶の作品がどのように変化していたのかは、ほかに作品画像が見つからないので不明だ。
 二瓶等が重要なのは、なにも下落合における画家たちの関係性を探るテーマばかりではない。二瓶が渡仏直前、1927年(昭和2)10月に開いた個展へ「下落合風景」を描いたとみられる作品を、多数出品している点も大いに注目される。しかも、二瓶等はアトリエを建てた下落合584番地を起点に、旧・下落合(中落合・中井2丁目含む)の中・西部を描いた佐伯祐三や松下春雄Click!たちとは異なり、下落合の東部を重点的に描いていることがタイトルなどから類推することができる。つまり、大正時代の後期から数多くの文化住宅や西洋館が建ちはじめた新興住宅地ではなく、もう少し前の時期から華族の巨大な屋敷や西洋館、別荘などが建ち並んでいた、下落合東部の風景をモチーフに選んでいる可能性が高いということだ。
 その中には、目白通り沿いに建っていた目白中学校などの洋風建築群や、丘上あるいは斜面に建つ華族の屋敷群、関東大震災Click!後に増築された中村彝アトリエ自体なども含まれていたのかもしれない。ちょうど、松下春雄や佐伯祐三たちのモチーフ選びとはまったく正反対の視線を、二瓶等は下落合東部の風景に向けていた気配を感じる。
 
 1927年(昭和2)10月に、札幌で開催された個展の出品目録を参照すると、北海道の風景画やアトリエ内で描いた静物画などに混じって、下落合のアトリエ近くの風景を描いたとみられる作品タイトルを見いだすことができる。中には、タイトルに「目白」や「近衛町」Click!と付けられた作品もあり、どのような画面だったものか非常に惹かれる風景画だ。全部で50作品が展示された中で、風景作品のみに絞れば、作品ナンバーが29番から45番までが下落合界隈での作品だと思われる。そのうち、風景画が13点ほど出品されており、1926年(大正15)の冬から翌1927年(昭和2)の晩春にかけて、おそらく二瓶アトリエの近所を描いたものだろう。
 これらの作品は、個展を通じて実際に東京や札幌で売れたものなのか、あるいは売れずに札幌の実家か、あるいは下落合のアトリエへ置いたまま渡仏してしまったのかは不明であり、現状ではほとんどの作品の所在がわかっていない。二瓶がフランスに滞在中、彼のアトリエはレンタルアトリエになっていたようで、大正末に萬鉄五郎Click!が目白中学校Click!の美術教師・清水七太郎を通じて住みたがっていたエピソードClick!は、すでにご紹介したとおりだ。二瓶アトリエは戦災にも焼けず、1947年(昭和22)の空中写真でも確認することができる。屋根の形状から、おそらく和洋折衷の大きな邸宅だったと思われ、北辺の道路に面して突き出た部分がアトリエだと思われる。

 二瓶等は名前をコロコロ変える人物で、中村彝関連の資料では二瓶徳松、佐伯祐三の資料類では二瓶等、光風会や帝展では二瓶經松または二瓶義観、そして今日では二瓶等観と呼ばれることが多い。もし、どこかで眠っているかもしれない二瓶等の手紙あるいは作品が見つかれば、美術史の空白だった部分の埋まる可能性が高く、また大正期における下落合東部の様子が、より詳しく明らかになることだろう。おそらく、それらは北海道方面に存在していると思われるのだが、どなたか二瓶等の風景画をお持ちの方はいらっしゃるだろうか?

◆写真上:1922年(大正11)ごろに制作された、二瓶等の『婦人像』(タイトル不詳)。
◆写真中上:左は、1936年(昭和11)の空中写真にみる二瓶等アトリエ。右は、1947年(昭和22)のもので周囲の家々に比べてもかなり大きなアトリエ付き住宅だったのがわかる。
◆写真中下:1927年(昭和2)10月に札幌で開かれた個展における、二瓶等の出品目録。
◆写真下:左は、1921年(大正10)の新井1/10,000地形図に採取された二瓶等アトリエと思われる家屋。右は、下落合584番地に建っていた二瓶アトリエ跡の現状。