1920年(大正9)の秋に、中村彝Click!の『エロシェンコ氏の像』Click!が、第2回帝展で注目された直後、1921年(大正10)の初頭にエロシェンコの様子をとらえた貴重な資料が残っている。その姿を目撃して記録にとどめたのは、東京帝大「新人会」に参加していたエスペランティストの河合秀夫だ。河合は、当時の若者たちの多くがそうだったように、帝展が開かれていた上野竹の台へ足を運び、会場で『エロシェンコ氏の像』を目にし、強い印象を受けている。
 1921年(大正10)の初め、帝大近くの本郷上富士前で開催され新人会合宿では、新人会創立2周年祭が同時に催された。新人会は、当時の思想家や労働運動家、学生、海外からの留学生たちが加わる、リベラルでインターナショナルな文化団体だったらしい。中国人の留学生が詩を朗読し、朝鮮人の学生が演説をしたあと、吉野作造Click!から借りてきたビクトロラ(ビクター=蓄音機)でベートーヴェンの交響曲を聴くなど、プログラムの構成は多岐にわたっていて、進歩的な言論を聴取し芸術を鑑賞するグループだったようだ。
 ただし、このような「知識階級」のみによる「知識階級」のための文化サークルに飽き足らなかった学生もいたようで、当日の様子を河合秀夫『エロシェンコの思い出』から引用してみよう。
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 吉野作造博士から借りてきたビクトロラでベートーベン(ママ)の第五をかけておると、無帽で来た暁民会の高津正道氏が憤然として立って「僕は今日学校(早大)を放校された。新人会の諸君、こんな生温い空気ではダメだ。労働者はベートーベンなど聞く余裕はない。僕は別の会合があるからこれで失敬する」とこきおろして行ってしまった。
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 高津正道が席を蹴って退出したあと、バラライカを手にしたエロシェンコが会場に姿を見せている。新人会のメンバーが、新宿中村屋Click!へ出かけて彼と相馬黒光Click!に出演を依頼したものだろう。エロシェンコについては中村彝が肖像画を描く以前、秋田雨雀Click!や竹久夢二Click!らとともに活動をしていたころから、ある程度の知名度はあっただろう。だが、彼の名前が一気にポピュラーになったのは、河合秀夫がそうであったように帝展の肖像画が評判となり、新聞や雑誌でいっせいに報道されてからではないかと思われる。
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 「エロシェンコ」という声がしたので、入口近くにいた私はすばやく飛んで行くと、帝展肖像画の主の長身の西洋人が盲人の学生に手を引かれてはいって来た。(中略)/私はその学生に代わってエロシェンコの手を把った。大きな温かい手だ。床を上がって奥の方にみちびき、適当な場所に座らせた。彼は流暢な日本語をあやつった。/やがてエロシェンコは携帯のバラライカを弾じながら、いくつかの歌を歌った。「革命家の死を葬う歌」「友人のシベリア流刑を見送る歌」「失敗した蜂起の歌」等々。ロシア語の歌詞は解すべくもないが、豊かなよく澄んだ声は切々として人の胸にくい入った。一人の学生はつぶやいた。「僕は音楽をやっておるが、日本の専門の音楽家と称する人たちよりうまいね。エロシェンコは立派な音楽家だよ」と。
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 新人会創立2周年祭のあと、河合はエロシェンコの動向へより注意を払うようになる。しばらくすると、神田のYMCA講堂で「暁民会」主催による社会問題講演会が開かれ、エロシェンコも弁士として登壇するというので、河合はさっそく顔を出している。しかし、新人会の催しとは異なり集会には警官隊が出動し、演壇の下に陣どっていた。2千人におよぶ参加者の多くは、エロシェンコの演説を聞きにきていたらしい。ところが、彼が流暢な日本語で語りはじめたのは、演説というよりは「詩の朗読」であったと、河合はあとで書いている。それまで、警官の「演説中止!」と参加者の怒声が飛び交っていた会場が、一気に静まりかえった様子が記録されている。
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 開会の六時には階上階下二千の座席はぎっしり詰まった。皆エロシェンコを聞きに来たのであった。あご紐をかけた警官がとくに演壇ふきんに密集していた。出る弁士も出る弁士も、「注意」「中止」の連発で、殺気立った。「警官横暴」「かまわぬ続けろ」と怒声が飛ぶ。幾人目かに学生に手を引かれてエロシェンコが登壇した。まず聴衆に許しを乞うて椅子に腰を下ろし「禍(わざわい)の盃」という演題でしずかに話しはじめた。/その時のエロシェンコの演説は、言葉の一つ一つが詩であり、シャンデリアの光に照らされて襟元までかぶさった金髪は絵であり、金の鈴をふるような声は音楽であった。歴史に残る名優の演じた舞台の一コマであったといっても過言ではない。私は何とも言えない感動をもって下宿に帰った。
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 演説の途中で警官たちが「注意」とも「中止」とも叫ばなかったのは、エロシェンコの言葉が「扇動的」ではなく情緒的かつ詩的で気勢を削がれてしまったものか、あるいは「金髪の外国人」には弱かった当時の卑屈な官憲Click!の姿をさらけ出したものかは不明だが、「演説中止」の声もかからず、エロシェンコは最後まで邪魔されずに語り終えている。
 おそらく、当時の学生や知識人の間でエロシェンコがことさら注目されたのは、彼がロシア人(ウクライナ人)であること、1917年(大正6)に母国ロシアでブルジョア革命をほとんどすっ飛ばすように社会主義革命が成功していたこと、そして中村彝『エロシェンコ氏の像』が注目されたことなど、いくつかの要素が重なったからだろう。エロシェンコの知名度が上がり、さまざまな講演や集会へ呼ばれるようになるにつれ、警察では「ボルシェヴィズムの宣伝」をする危険なロシア人として、国外追放の準備を進めることになる。


 日本からウラジオストックへ追放されたのち、エロシェンコは中国へとわたり上海や北京に姿を現している。同時に、日本での作品を上海で知り合った魯迅Click!とともに、中国語へ翻訳する仕事をスタートしている。中国に滞在したのは、1922年(大正11)2月から翌1923年(大正12)4月までのわずか1年と2ヶ月で、その後、革命後のロシア(旧・ソ連)へ帰国しているようだ。エロシェンコが日本人によって目撃されたのは、1927年(昭和2)11月7日にモスクワの赤の広場において、たまたま出会った秋田雨雀が最後のようだ。
 秋田雨雀が偶然、赤の広場でエロシェンコと出会ったころ、彼は極東勤労者共産主義大学の通訳をしており、このあと、1930年(昭和5)に全露盲人協会外国通信部と、国立図書出版部に勤務していたことが確認されている。1932年(昭和7)に、エロシェンコはパリで開かれた第24回万国エスペランティスト大会に参加したあと(このとき日本からの参加者に目撃されているはずだが記録が見あたらない)、1935年(昭和10)には極東シベリアのチュコトカ半島にあった兄の家に長期滞在し、いくつかの童話(民話)作品を残している。第2次世界大戦中は、トルクメン地方のクシカに住んで英語の教師をしていたらしい。1945年(昭和20)には一度モスクワへともどり、1949年(昭和24)にはクルスカ県ズミエヴスキイ郡アブホヴカ村へと帰り、1952年(昭和27)12月23日に死去している。
 秋田雨雀は、エロシェンコの人物像を1958年(昭和33)に発行された『ソビエト・中国の友情』第26号へ、次のように書いている。同誌「魯迅の友/エロシェンコ」から引用してみよう。
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 注意すべきは、エロシェンコは非常に多感で、すぐ興奮する性癖であったことである。なお彼ははなはだ真摯であって、自分の信念および友人に対して忠実であった。十月大革命が日本に直接の影響を与えたとき、エロシェンコは東京で非常に歓迎された人物であった。片山潜は彼をはなはだ高く評価し、彼は日本語をよくマスターし、ロシア語を非常に正確に日本訳し得る能力をもった専門家と見なしていた。エロシェンコは文学界の“啓蒙”の事業に参加し、日本の社会主義青年を団結せしめた。彼の社会主義運動での活動によって、日本政府は彼を“危険人物”として、日本より、当時無頼の徒と帝国主義者の支配するウラジオストックに追放した。しかし人々は、彼がどうしてうまく上海に到着し、その後北京に行ったかを知らない。
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 下落合に復元される初期型の中村彝アトリエClick!では、彝の『エロシェンコ氏の像』(1920年)と鶴田吾郎Click!の『盲目のエロシェンコ』(1920年)の競作シーンClick!が、必然的に大きくクローズアップClick!されることになるだろう。でも、エロシェンコが日本を追放されてからの、その後の軌跡については、いまだ不明な点が数多く残っている。ロシアや中国で、当時を知る人々が徐々に少なくなるにつれ、彼の足跡を追いかけるのもますますむずかしくなるだろう。

◆写真上:1920年(大正9)制作の、『エロシェンコ氏の像』(部分/上)と中村彝(下)。
◆写真中上:あどけなさが残るエロシェンコ(左)と、新宿中村屋時代のエロシェンコ(右)。
◆写真中下:1920年(大正9)9月に中村彝アトリエClick!で中村彝『エロシェンコ氏の像』と同時に描かれた、新宿中村屋が所蔵する『盲目のエロシェンコ』(部分/上)と鶴田吾郎(下)。
◆写真下:左は、エスペランティストで作家の秋田雨雀。右は、新宿中村屋の相馬黒光。