先日、笠原吉太郎Click!の孫にあたる山中典子様より、昭和初期の貴重な資料類をお送りいただいた。昨年、現存する『下落合風景(小川邸)』Click!をお送りいただいたご姻戚のみなさんとは別の孫にあたる方だ。笠原吉太郎には6人の子息子女があり、12人の孫にめぐまれている。そのお孫さんたちのうち、9人の方がご健在だ。
 1954年(昭和29)に笠原吉太郎が死去すると、戦災をまぬがれた下落合のアトリエに残る作品類は6人の子息子女へと受け継がれた。しかし、落合地域を描いた風景作品は、いまのところ別のご姻戚の家に現存しているもの1点のみのようだ。山中様よりお送りいただいた資料類には、大正末に設立された笠原吉太郎の後援会「芳美会」が主催した、個展の目録やマスコミの展評など、これまで一度も目にしたことがない貴重なものが含まれていた。
 たとえば、1929年(昭和4)に東京朝日新聞社の5階展覧会場で開かれた、第4回「笠原吉太郎洋画展覧会」のパンフレットを見ると、大正期と同様に「下落合風景」とみられる『郊外の家』や『緑の屋根と赤い屋根』、『小屋のあるタンク』、『森の家』、『窪地』、『郊外風景』、『秋の郊外』、『テニスコート』、『ガラージュ(ガレージ)』などのタイトルが並んでいる。
 モチーフに選んでいる風景は、どこか佐伯祐三Click!の『下落合風景』Click!との共通性を感じとることができるのだが、『小屋のあるタンク』は目白文化村Click!の第一文化村の水道タンクClick!か第二文化村の水道タンクClick!、『窪地』は笠原邸の東側に口を開けていた西ノ谷Click!(不動谷Click!)か、あるいは第一文化村の前谷戸Click!を描いたものだろうか。『テニスコート』は、佐伯が描いた益満邸のテニスコートClick!に限らず、当時の下落合では各地に造成されているので、そのうちのひとつを描いたものだろう。大正期にはめずらしかった自動車も、昭和に入ると急速に普及するので、下落合に建てられた住宅のあちこちにガレージができはじめていたにちがいない。
 また、個展パンフの作品名から、落合地域の周辺域にまで足をのばし、風景をスケッチしていることが明らかになった。南側では『新宿駅』や『高田馬場ガード下』、北側では『長崎村』などがそれで、笠原は下落合を起点に隣接する長崎町や戸塚町、さらには淀橋町までモチーフを求めて足を拡げていたことがわかる。笠原は佐伯とは異なり、自転車にキャンパスや画道具をくくりつけて出かけているので、自ずと写生エリアが大きく拡がったものだろう。
 1929年(昭和4)の個展パンフとは年度が異なるが、前年1928年(昭和3)に開催された第3回「笠原吉太郎洋画展覧会」の模様を、同年9月13日発行の東京朝日新聞と、同年10月発行の『中央美術』(院展号)に掲載された田澤良夫「笠原氏の個展を見て」から引用してみよう。


  ▼
 笠原氏の個展 長らく図案にかくれて居た笠原吉太郎氏は両三年前から両び洋画に立帰り十二日から十六日まで本社画廊でその第三回個展を開いてゐる。点数五十七、中で風景多数を占め「丘の家」「雪のあした」「船のとも」「波止場の夕」「犬吠岬燈台遠望」「犬吠岬燈台」などとりどりによい。氏の特色とする所は暗い色と力のある筆致で見る者に重々しい気持を与へずには置かぬ、構図の扱方も堂に入つてゐる。(東京朝日新聞)
 笠原氏の個展を見て 田澤良夫
 笠原吉太郎氏の個展を、氏の後援者からなる芳美会主催で九月十二日から十六日まで東京朝日の展覧会場で開いた。氏の個展は今回が三回目であるさうだが私はどうしたのか従来のそれは観なかつた。さて今年の作品五十余点を見て氏の持ついゝ素質にすつかり感心させられた。特に氏の作が他人から余り影響されないことが最も尊いと思つた。中には多少ヴラマンクの影響と云ふか、臭ひと云ふかゞないではないが、それは他の何々張りと云ふ如き、そんな表面的の影響ではなく、たまたま表現の一部とか、色の似通ひとかゞ私にさう思はせたに過ぎない。/何はともあれ、氏の海に対する色と調子とは、一寸、他の追随を許さい(ママ)独特のものと云へやう、例へば「賀加粟ヶ岬海水浴場」「犬吠岬燈台」「船のとも」「ウインチのある波止場」「波止場の夕」「小蒸汽」などがそれである。静物では「日まわり」に何処か大胆な処があり、海以外の風景では「雪のあした」「初夏の豊島園」「水辺の早春」「残雪」「冬木立」などを面白く見た。(中央美術)
  ▲
 画題に『丘の家』や『雪のあした』、『冬木立』などが、いかにも落合地域の風情を感じさせる。また、練馬の豊島園まで出かけて写生しているのは、松下春雄Click!と同じだ。田澤良夫は、「ヴラマンクの影響と云ふか、臭ひ」と書いているが、これはもちろん笠原自身も出品していた1930年協会のメンバー、里見勝蔵Click!や佐伯祐三たちからの影響だと思われる。
 また、第3回個展では岬や海辺の風景画が多かったようだが、第4回個展では東京市街地(『永代橋』など)や日光、大阪、神戸、明石と写生旅行に出ている様子もうかがわれる。これまで、1973年(昭和48)4月発行の『美術ジャーナル』に掲載された外山卯三郎Click!の「画家・笠原吉太郎を偲ぶ」を通じて、「満州風景」(モノクロ画面)は何点か目にしてきたが、国内の風景画では「下落合風景」以外にどのような作品を描いていたのかが不明だったので、とても興味深い作品リストだ。
 
 これらの資料から、笠原吉太郎は風景画や静物画を得意とし、肖像画や人物画をあまり描いていないことがわかる。そのような観点からみると、『下落合風景を描く佐伯祐三』Click!(1927年4月)のように、人物を中心に大きくフューチャーして画面を構成することが少なかったと思われるのだ。換言すれば、佐伯をモチーフにした同作は、笠原自身が佐伯祐三の仕事から受けた印象がきわめて強かったことを、改めてうかがわせる。
 笠原吉太郎は、1897年(明治30)に渡仏後、日本政府の海外実業練習生としてリヨン国立美術大学(ナショナール・エコール・デボザール)の図案科へ入学し、1901年(明治34)に同校を首席で卒業している。この間、若者の教育に熱心だった榎本武揚から支援を受けている。帰国後、1911年(明治44)から翌年にかけ、皇室の女性用礼服のデザインなどを多数手がけているが、関東大震災Click!を境に図案(デザイン)の仕事をやめ、油絵制作に専念している。本格的な画家としてスタートしたのは49歳のときで、佐伯祐三より24歳年長だったが、佐伯の『K氏の像(笠原吉太郎像)』を挙げるまでもなく、ふたりは下落合の近所に住み家族ぐるみで親しく交流していた。山中様は、笠原邸の居間に架けられていた同作をご記憶だった。
 貴重な資料とともに、山中様より面白いエピソードもうかがった。笠原吉太郎が渡仏中、フンドシをクリーニングに出したところ、洗濯のりをパリパリにきかせて仕上げてきたそうだ。「日本のナプキンは紐が付いていて、たいへん便利だ」といわれ呆気にとられたらしい。また、1923年(大正12)から画業のみに専念すると、生活がかなり苦しくなったようで、子どもたちは穴の開いた靴をはいて落合小学校Click!(現・落合第一小学校)へ通ったこともあった。作品が売れると、笠原は家族全員の靴を買ってきたり、また時計ばかりをたくさん購入してきたりと、ちょっと変わった買い物の性癖があったようだ。その後、十和田湖を開発した和井内一族のひとりとみられる、十和田湖畔の和井内ホテルのオーナーがパトロンとなり、生活が少し安定したという。
 
 戦後、タブローを制作することはほとんどなかった笠原吉太郎だが、1954年(昭和29)に79歳で死去すると、美術界からその名前がほとんど忘れられてしまった。したがって多くの作品も散逸し、その画面を実際に目にすることができなくなっている。松下春雄Click!や佐伯祐三、二瓶等Click!たちと同様に、たくさんの「下落合風景」を残した笠原吉太郎だが、関東地方あるいは東北地方を中心に「K.Kasahara」のサインが入った、下落合の風景(昭和初期の東京郊外)らしい作品をお持ちの方が、はたしてどこかにいらっしゃらないだろうか?

◆写真上:1935年(昭和10)に制作された笠原吉太郎『潮の岬』で、笠原が死去した3年後、1957年(昭和32)に開催された「読売アンデパンダン展」に遺作出品されている。
◆写真中上:第4回「笠原吉太郎洋画展覧会」で作成された、図録パンフの表面(上)と中面(下)。
◆写真中下:左は、1973年(昭和48)4月発行の『美術ジャーナル』に掲載された外山卯三郎の記事。右は、1916年(大正5)ごろに撮影された家族写真。奥が笠原吉太郎で手前が美寿夫人、大きい男の子が義男、右側が美代子、手前が寿々代、膝の上が昌代の子息子女たち。
◆写真下:左は、笠原吉太郎が1927年(昭和2)4月に制作した『下落合風景を描く佐伯祐三』のお礼として、同年5月に佐伯祐三が描いた『K氏の像(笠原吉太郎像)』。同作は、長く笠原邸の居間に架けられていた。右は、『美術ジャーナル』掲載の笠原吉太郎ポートレート。