大磯Click!にお住まいのSILENTさんClick!より、1979年(昭和54)に出版された花田衛『五代太田清蔵伝』(西日本新聞社開発局出版部)の資料をお送りいただいた。その中に、下落合から見ると不可解な記述がみえるので、さっそく記事に書いてみる。それは、1944年(昭和19)現在には存在していない旧・相馬邸の母屋Click!が、本書では1945年(昭和20)5月25日の第2次山手空襲Click!で「全焼」したことになっているからだ。でも、旧・相馬邸の母屋と黒門Click!は、1944年(昭和19)に陸軍によって撮影された空中写真にはすでに存在しておらず、同書に書かれた「旧相馬邸」とはどの建物のことを指しているのかが、きょうのテーマだ。
 同敷地に住んでいた太田一家の様子について、戦争末期の記述を同書から引用してみよう。
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 そのころ、太田新吉一家は新宿区下落合の広壮な旧相馬邸に住んでいた。食糧不足のため池を埋め立てて水稲をつくり、広い庭には野菜をつくっていた。農園係りは東大在学中の長男・新太郎と、東京高校在学中の二男・幹二である。新太郎は二千坪、幹二は三十坪だったが、収穫してみると両者の量はほとんど変わらなかった。(「兄弟の野菜畑」より) 敷地一万五千坪の旧相馬邸には、新吉、妻の淑子、二女・寛子、二男・幹二、三男・昌孝、それにお手伝いの六人がいた。新吉五十二歳、淑子四十三歳、寛子二十歳、幹二十七歳、昌孝十一歳である。/空襲は午後十時半ごろから始まった。前日と同じB29二百五十機による夜間無差別爆撃で、雨のように降りそそぐ焼夷弾のため、東京の夜はまたしても真っ赤に彩られた。(「旧相馬邸の焼失」より)
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 のちに、5代・太田清蔵となる太田新吉一家のほかに、4代・太田清蔵も同じ旧・相馬邸の敷地内に住んでいたはずだ。それは、同邸の正門(黒門)Click!の福岡移築Click!にからみ、香椎中学校の校長・長沼賢海が、1941年(昭和16)に下落合の旧・相馬邸へ4代・太田清蔵を訪ね、移築の打ち合わせをしていることからも明らかだ。黒門の移築作業は、同年からスタートしている。
 太田家は、1939年(昭和14)に相続税の支払いのため相馬家が同邸を売りに出すと、御留山Click!の全敷地および広大な屋敷を購入している。そして間をおかず、翌1940年(昭和15)には「淀橋区下落合壱丁目指定申請建築線図」、すなわち通称「位置指定図」Click!と呼ばれる6m道路建設と宅地開発計画の図面を淀橋区役所へ申請している。太田家が宅地造成を目的として作成した同図は、現在の新宿区役所に保存されている。
 太田家の計画にもとづき、1941年(昭和16)から黒門の解体・移築作業がスタートし、1943年(昭和18)3月には福岡の香椎中学校正門として移築を完了。また、旧・相馬邸の母屋はおそらく同時期に解体がはじまり、少なくとも1944年(昭和19)までにすべての解体が終了していると思われる。ところが、花田衛『五代太田清蔵』では、1945年(昭和20)5月25日の空襲で旧・相馬邸の母屋が炎上していることになっているのだ。同書から、そのシーンを引用してみよう。

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 新宿区下落合にあった旧相馬邸は奥州中村の中村藩(相馬藩ともいう)江戸藩邸だったもので、四代太田清蔵が昭和十四年に買い取った。/敷地一万五千坪、建坪五百坪、部屋数五十という広大な屋敷で、乙女山と呼ばれる庭は丘と林と谷川を擁して広々としていた。/昭和二十年五月二十五日の東京空襲で灰燼に帰し、土地もほとんど売り払われた。残っているのは三百坪弱の土地と石造りの堅牢な倉庫二棟だけで、太田家の美術品や什器が収納されている。
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 下落合にお住まいの方、あるいはこのブログをつづけてお読みの方なら、すでにおかしな記述にお気づきだろう。下落合の相馬邸敷地が、相馬藩の「江戸藩邸」だったことはかつて一度もない。福岡の香椎中学校(現・香椎高等学校)の校長・長沼賢海と、同じ誤りを犯している。旧・相馬邸の敷地は、幕府直轄の鷹狩り用「御領地」(御留山)であって、大名の藩邸(下屋敷など)が建っていた事実はない。また、幕府の「天領」なので立入禁止とされ、そこから「御留山(おとめ山)」Click!と呼ばれていたのであり、丘の名称は「乙女山」ではない。
 この記述をそのまま解釈すれば、旧・相馬邸の母屋は1945年(昭和20)の時点で、いまだ解体されずに建っており、5月25日の空襲で炎上したことになる。だが、太田家の宅地造成計画は戦時中も進捗しており、前年1944年(昭和19)6月の時点で旧・相馬邸の母屋はすでに存在せず、母屋跡を貫く東西の6m道路が建設されている。同書から、空襲時の様子を再び引用してみよう。
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 外へ出てみると、広い芝生の庭の闇の中に、あちらこちら点々と蝋燭を立てたように芝や樹木が燃えていた。一瞬、美しいとさえ思われる光景であった。もちろん、次の瞬間には炎の輪に取り囲まれているのだという恐怖が走った。逃げられるかな、という不安に駆られながら家族たちはみんなで池の側を走り、丘の間を抜けて少しでも遠くへ逃げようとした。だが、新吉の姿だけがなかった。/左手の方が急に明るくなり、家のきしむような異様な気配と熱気にみんなが思わず振り返ると、広大な屋敷が紅蓮の炎に包まれていた。夜空に燃えさかるわが家を見上げながら、そのときになって家族は新吉がいないのに気がついた。(「旧相馬邸の焼失」より)
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 すでに存在しないものが焼けるはずはないので、著者の花田衛が太田家を取材する過程で大きな勘違いをしているか、あるいはそのときインタビューに答えた太田家の誰かが錯覚していたかのいずれかだろう。太田新吉(5代・太田清蔵)一家は、旧・相馬邸の南側庭園にあった芝生の斜面を駈け下りて、御留山の谷戸に形成された池の端を通りぬけ、南北の6m道路(現・御留坂筋)をはさんで東側にあった弁天池Click!(養魚場)方面へ逃げているようだ。なぜなら、「左手の方が急に明るくなり、家のきしむような異様な気配と熱気」を感じたと記しているので、谷戸沿いに逃げれば敷地内の家屋は左手、すなわち北側の丘上に建っていたと思われるからだ。
 だが、このときに燃えていたのは旧・相馬邸の母屋ではない。1944年(昭和19)6月に陸軍が撮影した空中写真では、母屋跡を東西に貫く6m道路の南側へ、すでに新しい屋敷が4~5棟建っているのが見てとれる。先の「位置指定図」(1940年)でいえば、「所有者太田新吉/地上権利者同上」と記載されているエリアだ。この太田新吉一家が暮らす新邸(あるいは近隣邸)が、空襲で炎上しているのが見えていた・・・と想定することができる。
 余談だけれど、旧・相馬邸の解体後、1945年(昭和20)まで第一徴兵保険(東邦生命保険)の社長一家が、御留山に新たな邸宅を新築して住んでいたとすれば、向田邦子Click!の父・向田敏雄は敗戦の年まで、下落合の御留山へ年始に訪れていたことになる。
 下落合の地元でも、旧・相馬邸の母屋は空襲で焼けたとする伝承が残っているけれど、ひょっとすると本書の記述に起因しているのかもしれない。あるいは、4代・太田清蔵や太田新吉(5代・太田清蔵)が、1943年(昭和18)ごろに建設した屋敷が燃えるのを、塀の外側から見ていた周辺住民が、混乱のさなか「相馬邸が燃えている」と誤認識したのかもしれない。なぜなら、1943年(昭和18)に福岡へ移築され戦後も健在だった黒門さえ、戦災で焼けたと認識している方もおられるからだ。
 

 同書の著者・花田衛は、1944年(昭和19)6月現在、すでに旧・相馬邸の母屋跡を東西に6m道路が貫通し、さらに敷地を南北に縦断する6m道路(御留坂筋=現・おとめ山通り)も同時に拓かれていたことを、おそらく知らない。うがった見方をするなら、旧・相馬邸が空襲で焼けたことに「しておかなければならない」なんらかの事情でも、太田家にはあったのだろうか?

◆写真上:1944年(昭和19)には拓かれていた、相馬邸敷地を南北に縦断する6m道路。
◆写真中上:1940年(昭和15)に太田家から淀橋区へ申請された「淀橋区下落合壱丁目指定申請建築線図」(通称・位置指定図)で、新宿区役所に現存している。
◆写真中下:上左は、1936年(昭和11)の空中写真にみる相馬邸。上右は、1944年(昭和19)の写真にみる相馬邸跡。すでに東西および南北に6m道路が拓かれ、旧・相馬邸母屋は黒門とともに存在していない。下は、太田新吉邸(想定)と一家が避難した想定ルート。
◆写真下:上左は、1979年(昭和54)に出版された花田衛『五代太田清蔵』。上右は、おとめ坂の現状。下は、1940年(昭和15)ごろに撮影されたとみられる旧・相馬邸母屋の南側「居間」。