1947年(昭和22)5月、林芙美子Click!は7年前に完成した下落合4丁目2096番地(現・中井2丁目)の四ノ坂に面した自邸Click!で、『放浪記・第三部』の執筆をはじめている。同年8月には、毎日新聞が初めて朝刊連載小説を企画し、芙美子を起用して『うず潮』の連載がスタートした。
 久米正雄が毎日新聞の文芸担当だった戦前戦中、同紙と林芙美子は一時的に疎遠になっていたので、彼女は素直にうれしかっただろう。そのような環境で芙美子は、四ノ坂筋をはさんで東隣りの同じく下落合4丁目2096番地に建っていた炭谷家の2歳になる幼児に、手縫いの「ちゃんちゃんこ」をつくってプレゼントしている。
 その2歳児とは、このサイトへたびたび貴重な情報をお寄せいただいている炭谷太郎様Click!のことだ。そして、林芙美子の手縫いちゃんちゃんこを、いまでもたいせつに保存しているとうかがい、さっそく拝見することになった。炭谷様は、刑部人邸Click!の西に隣接するハーフティンバーが特徴の大きな西洋館で生まれ、3歳のときまで手塚緑敏Click!・林芙美子邸の隣りで暮らしている。炭谷家は、金山平三Click!がタライを浮かべて遊んだ池Click!を埋め立て、刑部邸の敷地内に建てられた西洋館だ。つい最近まで、刑部邸とともに四ノ坂の入り口に、林邸と向き合うように建っていたおしゃれな西洋館なので、ご記憶の方も多いだろう。
 その後、炭谷家は一時的に転居をしてしまい、1955年(昭和30)の炭谷様が10歳のとき再び下落合へともどってくるのだが、そのときにはすでに、林芙美子は死去していた。
 ちゃんちゃんこは、「林芙美子の縫ったチャンチャンコ」と紙札の貼られた桐箱に、たいせつに保存されていた。箱を開けると、ふた裏に夫・林(手塚)緑敏による1982年(昭和57)の箱書きがある。
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 此のチャンチャンコは昭和二十二年頃 隣り炭谷家の長男太郎君可愛いゝ盛也 芙美子其の可愛さにひかれて著作の合間に是を縫い進呈したるもの也
                                       昭和五十七年一月十二日  林 緑敏 識
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 ちゃんちゃんこは、炭谷様がずいぶん「愛用」されたらしく、かなり使いこまれた感触がある。襟元に虫食いの跡があるのは、長い間、箪笥の奥へ仕舞いこまれていたせいだろう。65年前に縫われたものだが、どこかで林芙美子の体温を感じることができる“遺品”だ。
 芙美子は手芸が好きだったようで、執筆の合い間を縫ってはセーターを編んだり、洋裁・和裁を楽しんでいたようだ。記念館として新宿区が管理をしている四ノ坂の自邸には、養子の林泰のために編んだセーターや、自分で手づくりしたと思われる洋服などが保存されている。裁縫を見ると、縫い目があまり表に目立たないようにする「くけ縫い」というのだろうか、「耳ぐけ」あるいは「三つ折りぐけ」と思われるていねいな糸の通し方がされている。
 林芙美子が、ちゃんちゃんこを縫って隣家の炭谷様へプレゼントしようと思い立ったのは、1943年(昭和18)に養子に迎えた泰(やすし)のための裁縫が面白く、手芸の楽しさにすっかりはまっていたのかもしれない。そして、泰とは2歳ちがいの炭谷様に、同様の母性愛のようなものを感じたせいもあるのだろう。モスグリーンの木綿生地には、変わり菱花紋や変わり丸菱紋の散らしが入り、薄黄色のガーゼのような裏地が当てられている。菱形には、古くから女性を象徴する「やさしさ」「抱擁」などの意味合いがある。ひな祭りの道具に、菱形をしたものが多いのはそのせいだ。林芙美子はそれを知ってか知らずか、物資が極端に欠乏していた敗戦直後、おそらく誰かの着物をつぶしてちゃんちゃんこをこしらえているのではないだろうか。
 
 
 敗戦からわずか2年、戦時中に書きためておいた作品を含め、堰を切ったように次々と作品を発表しはじめた彼女の心境を、「林芙美子記念館」図録(新宿歴史博物館/1993年)に収録された1947年(昭和22)の「『倫落』あとがき」から孫引きしてみよう。
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 私はこのごろ、誰の意見もおそれなくなった。自分のやりたい事を一生懸命やってみたいと云ふ欲だけである。当分、私は人間の弱点のなかへくすぶり込みたいと願ってゐる。私のかうした目的が、私の中のいまゝでの仕事すべてをふいにしてしまっても、それほど強く私を引っぱってはなさない。どんな醜の醜なるものゝなかに、私は作家として無関心であり得ない執着を持つ。
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 炭谷太郎様は、林芙美子に抱っこされたような感覚がかすかにあるそうだが、生きている芙美子の感触をほとんど記憶されていない。わたしは、林芙美子の皮膚感覚や体臭、声といったようなものを知りたかったのだが、残念ながら炭谷様は3歳でいったん下落合を離れているので、彼女が放っていた雰囲気や気配を憶えてはいらっしゃらなかった。そのあたりの様子は、林芙美子からほとんど毎日、食事に呼ばれていた刑部人Click!の二女・中島若子様の貴重な証言を聞いてみよう。でも、もはや文字数がつきてしまったので、それはまた次の、もうひとつ別の物語・・・。

 
 炭谷様は近々、林芙美子手縫いのちゃんちゃんこを、林芙美子記念館(新宿歴史博物館)へ寄贈しようと考えている。貴重な遺品をお見せいただき、ありがとうございました。>炭谷太郎様

◆写真上:65年前につくられ、炭谷家で保存されてきた林芙美子作のちゃんちゃんこ。
◆写真中上:上は、ちゃんちゃんこが縫われた1947年(昭和22)の空中写真にみる四ノ坂界隈。中左は、1940年(昭和15)に基礎工事が終わった林邸で、遠景には竣工して間もない炭谷様が住んでいた屋敷が見える。中右は、四ノ坂のバッケ中腹から撮影した林芙美子邸の母屋。(現・林芙美子記念館) 下は、四ノ坂をはさみ林邸に隣接して建っていた旧・炭谷家の洋館。(撮影:刑部佑三様)
◆写真中下・下:林芙美子の手縫いのちゃんちゃんこ。
★サクラ満開
目白崖線の斜面で、暖かいのかサクラが満開になって散りはじめている。おそらく、気の早いヒガンザクラだろう。ウメではなくサクラが咲く中、あちこちでウグイスが鳴き交わす声を聴くのはめずらしい。一気に春めいたので、柄にもなく、いまが旬のストロベリーパフェを食べに千疋屋へ・・・。