人は、突然いなくなる。あとには埋めようのない空白と、むなしさと、虚脱感と、やがて悲哀だけが残る。たいせつな人を亡くすと、それを認めたくないがために葬儀や墓参りさえ拒否したくなる怒りにも似た口惜しさが、いつまでもつづいて抜けない。松下春雄Click!の遺族たちにも、そのような途方もない喪失感が残っただろう。
 山本和男様と松下春雄の長女・彩子様ご夫妻Click!をお訪ねしたとき、1冊の古びた黒皮のアルバムを拝見した。そこには、たいせつなかけがえのない人を亡くした家族たちの、セピア色に変わった想い出の数々が詰まっていた。ページをめくるごとに、運命の1933年(昭和8)暮れへと迫っていく。第14回帝展に『女と野菜』を出品し、それが入選するのをみとどけてから、松下春雄は名古屋に帰郷し、その足で伊勢路を旅してまわっている。そのときの想いを、彼は「伊勢路の旅より」として手記に残した。彼の死後、翌1934年(昭和9)に発行された『パレット』No.35の遺稿から引用してみよう。
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 二三年来、考へて来もし、又着手して来た、仕事の上のことで、やつと次への進路が開けさうになりました。割切れないところの焦燥が若し転換期の苦労であつたなら、もう少し、それを組敷くだけの勇気を続けねばなりません。私は今百号に女と子供を描いてゐます。その途中なんですから、旅を楽しまないのも無理はありません。作品には外科的手術をほどこしてゐます。かうした断片的な口吻をその作品で、よりはつきりと説明出来るやう、馬力をかけてやりましよう。それが一九三三年の最終の念願であり、又一九三四年の最初の報告でありたいのです。
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 書かれている「女と子供」の100号とは、絶筆となった大作『母子』のことで、翌1934年(昭和9)の第15回帝展で特選となっている。はたして、東京へともどった松下は、制作途中の『母子』へ手を入れて「外科的手術」をほどこす時間があっただろうか?
 鬼頭鍋三郎Click!によれば、「暮の十二月五日から十九日まで名古屋へ松下が来てゐて、その間僕は三度会つた」(1934年1月12日/名古屋毎日新聞)と証言しているので、そのあと松下は伊勢旅行に出かけていたことがわかる。したがって、松下が東京へともどったのは、おそらく12月23日か24日クリスマスイヴの日あたりではないかと思われる。
 ちなみに、鬼頭鍋三郎は松下と同時期の1932年(昭和7)に、西落合1丁目293番地へアトリエClick!を建てていたはずだが、1933年(昭和8)現在は名古屋の自宅、すなわち名古屋東区千種町元古井29番地にいたことが、上記の証言記事からもはっきりとわかる。

 
 古いアルバムには、松下春雄が自身で撮影したらしい伊勢旅行のスナップ写真がたくさん残されている。彼が生前、最後に見た旅先の風景だ。伊勢の海を写した写真の中に、二見浦の夫婦岩の姿が目につく。船に乗ってめぐるのは、志摩半島あたりのフェリー航路だろうか? 船べりで健康そうに微笑む、いつもの彼の表情に病魔の影は見えない。
 アルバムが「12.25」と記されたページになると、西落合1丁目306番地の松下邸居間に飾られたクリスマスツリーが登場する。ツリーの前で、プレゼントをもらったばかりと思われる長女・彩子様と次女・苓子様、そして同年3月に生れたばかりの長男・泰様が、楽しそうに笑顔で写っている。おそらく娘ふたりへのプレゼントは、毛糸で編んだベレー帽、まだ1歳にも満たない息子にはクマのぬいぐるみだったのではなかろうか? 娘ふたりは、陽当たりのいい縁側から南の庭へ出てうれしそうにはしゃいでおり、これから起きる悲劇の予感はみじんも感じられない。
 そのうちの2枚の写真に、居間のイスに腰をかけてスケッチブックを手にした、松下春雄の生前最後の姿がとらえられている。旅行から帰ったばかりの疲れからか、あるいはすでに体調が悪化していたものか、庭に降りて娘たちといっしょに写真を撮ろうとはしなかったようだ。そのうちの1枚は、まさにスケッチブックへなにかを描いている姿が記録されている。
 松下春雄の横に立つ、白い割烹着姿の女性が淑子夫人だとすれば、カメラを手にして写真を撮っているのは誰だろう。近くに住んでいた、「サンサシオン」仲間の大澤海蔵Click!だろうか。あるいは、割烹着の女性が松下家の女中だとすれば、撮影者は幸福なクリスマスをすごす淑子夫人だ。

 
 伊勢へ旅立つ直前、名古屋で鬼頭鍋三郎と会ったとき、松下春雄は今後の制作予定や表現法について情熱的に語っていたようだ。先に紹介した、名古屋毎日新聞の記事から引用してみよう。
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 彼れから今度きかされてたものは芸術に対する炎のやうな希望の言葉以外に何もなかつたやうにすら思ふ。数年来につかれた如く口にしてゐたクラシツクとリアルから昨年の帝展製作を境として、彼の芸術へのテーマが非常に生々しい現実へ伸展して来たことも、今度来名第一に彼から聞いたりした、そして大いに彼の芸道に賛成し期待した。尚最近グロツキー(ママ:クロッキー)が如何に製作に役立つかを痛感し僕は何度すゝめられたかわからない程だ。
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 クリスマスの直後、松下春雄は身体に不調をおぼえて帝大病院稲田内科に入院。6日後の1933年(昭和8)12月31日、急性白血病のために死去している。享年30歳だった。
 松下が急逝する前日の12月30日、名古屋で「マツシタキトク」の電報を受けとった中野安次郎は驚愕する。ついこの間、名古屋へ訪ねてきた松下を自宅に泊め、昔話を懐かしくしたばかりだったからだ。1989年(昭和65)に名古屋画廊が出版した、「松下春雄展」図録から引用してみよう。
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 (前略) 名古屋へ来ていた松下君が東京へ帰る前の晩、私の家へふらっと寄ってくれました。後で思えば「生き別れ」に来た、ということだったのでしょうか。親しいとはいえいつもはあまりゆっくりすることもなかった松下君ですが、その日は初めて私の家に泊り、様々なことを懐かしそうに語ったのでした。亡くなる前日、私のもとに「マツシタキトク」の電報が入りました。突然のことなので交通事故か何かと思いました。松下君は平素自分のからだを大事にしていました。「今ぼくが死んだら大変なことだ。家族は、明日からでも生活に困るだろう。ぼくは丈夫なほうだけれど、実際からだを大切にしなければいけないね」と言っていたこともありました。
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 翌1934年(昭和9)1月4日に、西落合1丁目306番地の自宅で告別式が行われている。そして、2月11日から27日にかけ東京府美術館で、光風会主催による「松下春雄遺作展」が開催された。そのときの写真もアルバムには残されており、松下春雄が1930年(昭和5)に制作した『子を抱く』(1930年)の前には、淑子夫人と彩子様、そして鬼頭鍋三郎たち画家仲間が並んでいる。

◆写真上:1933年(昭和8)12月25日のクリスマス、亡くなる6日前に撮られた松下春雄の姿(奥)。
◆写真中上:上は、山本夫妻がたいせつに保存されている松下春雄アルバム。下左は、最後になった伊勢旅行のスナップ。下右は、大正末ごろに撮られたとみられる松下春雄ポートレート。
◆写真中下:上は、絶筆となった松下春雄『母子』(1933年)だが現在は行方不明となっている。下左は、クリスマスツリーを前に長女・彩子様(左)と次女・苓子様(右)。下右は、同じく泰様。
◆写真下:上は、テラスでの彩子様と苓子様で背後には松下春雄の生前最後の姿がとらえられている。中は、西落合1丁目306番地の松下邸で行われた葬儀の様子。下は、「遺作展」における淑子夫人と彩子様で、男性3人の中央が「サンサシオン」の盟友だった鬼頭鍋三郎。