堤康次郎が下落合575番地Click!に住んでいたのは、登記簿によれば1919年(大正8)から1932年(昭和7)の14年間ということになっている。でも、これはあくまでも登記簿上のことで、実際の住居は本人の自伝や夫人の証言などから、1925年(大正14)ごろには学園都市を開発していた谷保村青柳894番地(現・国立市)へ転居しているようだ。でも、下落合の邸はそのまま登記簿の名義を変更せず、堤康次郎が経営する駿豆鉄道の取締役で、上から読んでも下から読んでも長坂長に、留守番がてら住まわせていたのだろう。
 堤康次郎Click!が、下落合の土地を買収しはじめたのは、明治末ぐらいからではないかと思われる。落合府営住宅Click!の建設用に、目白通り沿いの土地を東京府へ一部寄贈したのは、明治末から大正初期にかけての時期だ。そして、のちの目白文化村Click!を形成するエリアの土地買収がスタートしたのは、明治が終わったばかりの1914年(大正3)からだ。つまり、堤は1913年(大正2)に早大を卒業しているので、卒業とほぼ同時に前谷戸とその周辺の土地に目をつけたことになる。この年だけで、のちに第一文化村の南側となる土地2,667坪を、地付きの宇田川家から購入している。つづいて、1917年(大正6)までに第一文化村エリアのほぼ全域を、1919年(大正8)までには第二文化村の半分ほどを買収し、堤が手にした下落合の土地の総面積は、『No.8706「目白文化村」に関する総合的研究(2)』(1989年)によれば1万4,235坪にもおよんでいる。
 この過程で、かなり強引な取り引きや、土地を売らない地主に対するさまざまな嫌がらせもあったようだ。いまだ買収の済んでいない他人の土地へ、勝手に宅地造成の区画番号をつけ販売価格まで決めて公表してしまい、所有者たちが手放さざるをえない状況へと追いこんでいくようなことまでしたようだから、下落合の地元では大きな反発や顰蹙をかっている。上記の宇田川様Click!が、西武系の鉄道やデパートなどの施設をいまだに利用されないのは、堤康次郎のメチャクチャな買収事業の被害に遭われたからにほかならない。
 ところで、堤は下落合の土地を買収して、当初から目白文化村を計画していたのではなさそうだ。大学を卒業したころは、単に財産を増やすための投機目的(早大当局を巻きこんでいる)だったように思えるが、買収をはじめたころには遊園地「不動園」の構想があったと思われる。当時は、遊園地ブームのただ中にあり、軽井沢の遊園地+新興別荘地構想を具体化するために、堤は沓掛遊園地株式会社を設立している。ここでいう「遊園地」とは、戦後のアトラクションや乗り物が中心の娯楽施設ではなく、文化施設を含む庭園や公園をより大規模にしたような(たとえば「新宿御苑」のような)ものだった。のち、1924年(大正13)に箱根土地は劇場や映画館などを備えた、いまでも語り草になっている「新宿園」Click!を出雲松平藩の下屋敷跡だった新宿番衆町に開園している。


 さて、明治末から大正末期までに作成された、陸軍参謀本部の陸地測量部Click!による1/10,000地形図を時系列で眺めていたとき、以前から目白文化村界隈におかしな記号を見つけていた。おそらく1916年(大正5)から間もない時期、つまり堤が下落合の前谷戸一帯の土地を買収しはじめてから数年後に、この地域へほぼ正方形に近い土塁がエンエンと築かれているのだ。その範囲は広く一辺は200mにおよび、のちの箱根土地の本社敷地Click!をすべて含み、現在の第一文化村東部の北辺から、谷戸が埋め立てられた西辺沿いに第二文化村までの筋を西辺とし、第二文化村の北東部にまで及ぶ長大な土塁だった。
 この土塁が、初めて1/10,000地形図に採取されたのは1921年(大正10)の第2回修正測図、すなわち1916年(大正5)の第1回修正測図から5年後のことだ。でも、堤がこのエリアの土地をほぼ買収し終えた1917年(大正6)ごろから、土塁は築かれはじめていたのではないかと思われる。それは、目白文化村の開発計画が持ち上がる以前、1917年(大正6)現在で堤が買収した土地と土塁のエリアとが、おおよそ一致していることからもうかがえる。
 ちょうど、前谷戸(第一文化村の谷戸地形部)を湧水源の手前で土塁によって仕切り、谷底にあった洗い場Click!と思われる池を取り入れて、大きな回遊式庭園のような風情を形成している。また、土塁に囲まれた敷地の南東部には、直径が20mほどの正円形の丘が地図上に改めて採取されているが、これはもともと存在した古墳期の墳丘の痕跡か、それとも「不動園」用に盛り土をした、のちに四阿(あずまや)でも建てる予定になっていた見晴らし台用の人工丘陵だろうか? ちなみに、上野公園では見晴らし台用の高台として、摺鉢山古墳Click!の後円部が残されているようだ。1/10,000地形図に採取されたこれらの様子が、下落合の土地を買収しはじめて間もないころに、堤が構想していた遊園地「不動園」造成中の姿ではないだろうか。
 
 
 この土塁構築で“問題”なのは、いまだ未買収の土地が残っているにもかかわらず、他人の土地までを土塁内に囲いこんでしまっている点だろう。堤に土地を売らなかった地主は、どれだけの高さがあったのかは不明だが、土塁を越えて自分の土地(畑地)まで行かねばならず、明らかに嫌がらせと受け取ったにちがいない。あるいは、うがった見方をするならば、堤は遊園地「不動園」建設という買収目的を説明しながら(そのほうが土地を安く手に入れやすかったのかもしれない)、実は近郊住宅地の開発を当初からもくろんでおり、谷戸や低地を埋め立てるために大量の土砂を、「不動園」建設の名目で早くから運びこんでいた・・・というようにも思えてくる。土塁の膨大な土砂が、のちに目白文化村の埋め立てや造成Click!に使われたのはいうまでもないだろう。
 1/10,000地形図では、正方形の南東角がえぐられるように内側へ凹んでいるが、この部分が堤の強引な土地買収による被害を受けた、宇田川家の広大な敷地の一部だ。結局、遊園地「不動園」の建設は、1919年(大正8)ごろにはいつの間にか消滅し、郊外の「文化村」住宅の建設計画に変わっている。そして、「不動園」という名称は、箱根土地本社の南側に設置された庭園名として、かろうじて残ることになるようなのだが・・・。
 箱根土地が「不動園」構想を起ち上げるのとほぼ同時に、1/10,000地形図における「不動谷」Click!の名称位置が、西へ一気に400mほど移動Click!しているのも興味深い現象だ。大正期には、すでに広範な字(あざな)として用いられていた「不動谷」だが、江戸期から明治期にかけての位置、あるいは1916年(大正5)に出版された『東京府豊多摩郡誌』に添付の地図Click!でも、「不動谷」は諏訪谷の反対側の谷戸、すなわち現在の国際聖母病院Click!西側の谷戸(西ノ谷)をさしており、また旧・下落合東部(現・下落合地域)の地元伝承でも同様だ。


 なぜ谷戸名が突然、大正中期から400mも西の谷間へ移動するのか、箱根土地による「不動園」というネーミングにもからんで、そこに早大を足がかりに政界への太いパイプを持っていた、堤康次郎によるなんらかの働きかけが行われたのかどうか、気になりつづけているテーマなのだ。

◆写真上:「不動園」計画と思われる土塁が築かれていた、第一文化村の前谷戸あたり。
◆写真中上:上は、1921年(大正10)の1/10,000地形図の第2回修正測図にみる、1辺が200mほどの土塁記号。すでに池や橋が造成され、土塁の南には円墳状の正円丘が見えている。下は、1936年(昭和11)の空中写真にまで残る長大な土塁の痕跡。
◆写真中下:上左は、1916年(大正5)に作成された第1回修正測図で土塁は採取されていない。上右は、1929年(昭和4)の第3回修正測図であちこちに土塁の痕跡が見られる。下左は、土塁が築かれた北辺あたり。下右は、現在は道路となっている土塁の西辺。
◆写真下:上は、1909年(明治42)の1/10,000地形図に記載された不動谷。下は、1921年(大正10)の同地図に記載された不動谷で、谷名の位置が西へ大きく移動している。