このところ福島県を中心に、東北の産物を買うようにしているのだが、会津の伝統的なお惣菜「花嫁ささぎ」もそのひとつだ。できるだけ放射線量の低そうな食品を購入しているが、会津の産物は被曝地から距離があるせいか、相対的に低レベルのものが多い。「花嫁ささぎ」も、放射線測定器を密着させて表面線量を測定したが、わずか0.09μSv/hにすぎなかった。
 この数値は、毎週とどけてもらっている東都生協の食品(全国各地の生産物)に比べてもかなり低く、ほとんど事故にかかわりのない平常値に近い。むしろ、関東や中部地方の野菜のほうが数値が高いくらいだ。「ささぎ」というのはエンドウマメのことで、地域によっては「ささげ」や「はなまめ」と呼ばれている。東京地方では、「(大)角豆」と書いて「ささげ」と読まれることが多く、おそらく江戸時代からの町言葉Click!のひとつだろう。サヤエンドウは、実(種)が熟す前に収穫するので豆が小さいが、成熟したエンドウマメは肉厚で大きい。現在は瓶詰めの「花嫁ささぎ」だが、戦前は缶詰めにして東京地方へ出荷されていなかったか?・・・というのが、きょうのテーマだ。
 佐伯祐三Click!のファンで、もうカンのいい方はお気づきだろう。佐伯は、食べ物や料理に一度凝りはじめると、とことん食べつづけなけれ気がすまない性格をしていた。1921年(大正10)に、下落合661番地Click!へアトリエClick!を建てた直後は「すき焼き」Click!に凝り、毎日三度の食事はすき焼きばかりを食べつづけている。肉食好きの山田新一Click!でさえ、呆れて気持ちが悪くなるぐらいだから、佐伯は日々徹底的に食べつづけたのだろう。基本的には菜食Click!だった米子夫人Click!は、三度の食事がすき焼きだったことに相当こたえたのではないか。
 すき焼きの次に凝りはじめたのが、目白通りにあった食料雑貨店から御用聞きClick!がやってきて、おそらく試供品として置いていったのだろう、「はなよめ」という缶詰めだった。山田新一Click!は、缶詰めの中身を“福神漬け”のようなものとして記憶しているが、当時もまた現在でも福神漬けの商標で「はなよめ」は発見できない。「はなよめ」の中身について山田新一が誤記憶をし、福神漬けのような食べ物ではないと仮定すると、大正期から今日までお茶請けやご飯のお供として食べられつづけているのは、缶詰めならぬ現在は瓶詰めとなっている会津の「花嫁」だ。
 

 佐伯祐三が、缶詰め「はなよめ」に夢中になるのは、すき焼きに凝ったあとだから1922年(大正11)から、渡仏する直前の1923年(大正12)にかけてのことだろう。そのあたりの様子を、1980年(昭和55)に中央公論美術出版より出版された、山田新一『素顔の佐伯祐三』から引用してみよう。
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 米子を迎えてからの佐伯家は、どんな家庭生活を営んでいたのか。新婚当初、“すきやき”がたいそう好きになり----当時、すきやきは相当に贅沢な献立といえる----毎晩でも多いと思うのに、朝昼晩と毎日のように三度、三度すきやきなのである。/ちょうど、彼の本拠のアトリエが下落合に建って、僕も池袋から通って一緒に絵を描いている頃のことであった。かなり肉食偏向の僕自身が佐伯の“すきやき”には、うんざりして、/「そんな君、朝昼晩とすきやきばかり食べて、気持ち悪くないか」/と訊くと、
 「うまいがな、うまいがな」
 と答えて、少しもひるむところがなかった。/また或日、出入りの食品屋の丁稚が持ってきた、“はなよめ”という、なんのことはない福神漬のような缶詰めが好きになり、当分すきやきはやめて、毎日はなよめばかり注文して食べている始末である。
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 ちなみに、「花嫁ささぎ」は時間をかけてエンドウマメを甘露煮にしたものだが、煮豆にありがちな強い甘味ではなく、お茶請けはもちろん、飯のおかずにもなりそうな、そこそこの甘さをしている。豆の芯まで味を染みこませるには、相当な手間や時間が必要だろう。だから、お茶請けばかりでなく、箸休めのおかずのひとつとして食べられる点が魅力だ。飯がどんどん進む、漬け物のような食品ではないけれど、メインディッシュから味覚を変えるための口直しには最適な1品だろう。すき焼き好きな佐伯は、けっこう甘めなおかずで飯を食べていた気配がするのだ。
 
 
 すき焼きをやめ、「はなよめ」のほうに目が向いた佐伯を見て、米子夫人は心底ホッとしただろう。1923年(大正12)の第1次渡仏の際、パリで日本の味が恋しくなるのを予想して、トランクに「はなよめ」をいくらか詰めていったかもしれない。あるいは、先に渡仏していた里見勝蔵Click!や前田寛治Click!に、「うまいがな、うまいがな、ほんま、うまいのんや!」と日本からの土産がわりに配ったかもしれない。さらに、ヴラマンク邸を訪れたとき“日本の味”のお土産として持参し、ひと口味わったヴラマンクから「この、甘豆煮ズムが!」と怒鳴られたかどうかは知らないけれど、とにかく「はなよめ」への執着は並みの凝り方ではなかったようだ。
 さて、佐伯のアトリエへ「はなよめ」缶詰めを配達していた店、すなわち丁稚を御用聞きにまわらせていた食料雑貨店はどこの商店だろう? 大正の中期、目白通りには何軒かの食料雑貨店が並んでいたと思うのだが、下落合661番地にある佐伯アトリエ近くの店というと、自ずと限られてくる。決められた食品の専門店ではなく、缶詰めをはじめ各地のいろいろな食料雑貨を扱い、佐伯邸に近い商店というと「高幸商店」がある。高幸商店は下落合607番地、すなわち子安地蔵が建立されている角地で営業しており、高田幸三郎という人が経営していた。
 高幸商店は、米や雑穀、鶏卵、茶、缶詰め、乾物、砂糖、海産物、小麦粉、蕎麦粉・・・と多彩な食品や雑貨を手広く販売しており、郵便切手や収入印紙まで売る店だった。規模もそれなりに大きかったものか、1919年(大正8)現在の『高田村誌』へ出稿した媒体広告までが残っている。この食料雑貨店の店員が、以前から佐伯邸に出入りしていて、1922年(大正11)のある日、会津産の缶詰め「はなよめ」を置いていったのかもしれない。もちろん、この丁稚くんは、佐伯アトリエの増築を手伝わされ材木運びなどをやらされた、あの丁稚くんだろう。それまで、毎食すき焼きを食べつづけていた佐伯は、その缶詰めの中身を味わうと、翌日からピタリとすき焼きを止め、「あのな~、店にあんだけの“はなよめ”缶詰めな~、はよ持ってきてんか~」と、御用聞きに言いつけたのだろう。
 
 以来、「はなよめ」ばかりを毎日、三度三度飽きもせず食べつづけ、一度めのフランス行きの時期を迎えたように思われる。1923年(大正12)9月に起きた関東大震災Click!のとき、佐伯が家族や友人たちの次に心配したのが、「はなよめ」を販売していた店の無事だったのかもしれない。

◆写真上:会津の伝統的なお惣菜、(有)平野物産店が製造する瓶詰め「花嫁ささぎ」。
◆写真中上:上は、「花嫁ささぎ」の容器と中身。下は、1925年(大正14)12月に撮影されたモンマルトル近くリュ・デュ・シャトー13番地の佐伯アトリエで、背後の棚に酒瓶といっしょに缶詰めらしきものが写っている。人物は左から佐伯米子、彌智子、佐伯祐正(兄)、佐伯祐三。
◆写真中下:缶詰め「はなよめ」を、いつも手放せなくなってしまった佐伯祐三。w
◆写真下:左は、1919年(大正8)出版の『高田村誌』に掲載された高幸商店広告。右は、1925年(大正14)の「下落合及長崎一部案内図」(出前地図Click!)にみる高幸商店と佐伯邸の位置関係。
★下落合の環境サウンド(春)
連休に早起きしたので、ベランダから5月の朝の環境音を録ってみた。鳥たちのさえずりや、十三間通りを聖母病院へと向う救急車のサイレン、西武線や山手線を通過する電車の微かな響きなど、下落合から「出張中」あるいは少し長めの「お留守」の方には、ちょっと懐かしい里心をくすぐられるサウンドではないだろうか。少し大きめのスピーカーで再生されると、よりリアルに聴こえます。
Shimoochiai sound.mp3