中村彝Click!が周囲の友人たちに語った話で、現在ではあまり引用されることのない言葉がある。きょうは、それらをまとめてご紹介したい。彝の言葉は、本人が執筆し美術誌や新聞に掲載された文章や、書簡類から引用されることが多い。それらは、1926年(大正15)に岩波書店から出版された『芸術の無限感』Click!にまとめられている。
 でも、彝が発した言葉で印象に残るものは、友人たちがそのつどノートにメモを残したり、改めて思い出しながら記録しているものも多い。そのひとりに、多くのエッセイをのちに出版することになる、彝アトリエから西へ300mほどの下落合623番地へアトリエClick!を建てた曾宮一念Click!がいる。曾宮は、彝が『エロシェンコ氏の像』(1920年)を描いた直後に、彼の言葉を思い出しながら1920年(大正9)に発行された『みづゑ』11月号(189号)へ記録している。
 曾宮は、彝アトリエでイーゼル上の『エロシェンコ氏の像』を眺めながら、「未だ彝君のどの画にも表はされなかつた美しさを、此の画が表してゐると思つたが、それは寧ろ今迄考へて居り、又少しづゝ画面に表はされつゝあつた事を非常に強く信じさせた結果にすぎなかつた」と書いている。では、同誌の曾宮一念「エロシエンコの画を見て」から、彝の印象に残った言葉を引用してみよう。
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 彝君はこんな事を話した。「一時的、外面的効果を追へば追ふ程、内面的本質が薄くなる---例へば森を描くにしてもその一つ一つの葉の持つ美しさや、移りゆく光のエフエクテイブな美に注意を向け過ぎると、森の本当の味はひが忘れられてしまふ。」 又「これからは一層スナホに描きたい」と語つたが、この「スナホ」に描くといふ事は本当に自然と冥合して、自然が画家の腕を動かして描かすやうになることだと思ふ。/自分は今秋谷中にかざられた、ロダン、ルノアー等の作品を見て非常に感じた一人である。それらの画や彫刻は我々に現代的な刺激興奮を与へたといふよりは、更に、内面的な常住な美が静かに深く流れ込むのを感じた。そして近よつて見た時、如何にもスナホな筆触に再び頭がさがつた。
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 中村彝の言葉を記録しつづけたもうひとりの画家に、彝アトリエへ通いつづけた鈴木金平Click!がいる。鈴木良三Click!と混同されることの多かった鈴木金平だが、鈴木良三は中村彝について『中村彝の周辺』(中央公論美術出版/1977年)など数冊の書籍にまとめているが、鈴木金平は著作を出すと予告していながら、それをはたせずに死去している。彼のノートに記録されつづけた膨大な彝の言葉は、今日、なかなか見る機会が少ない。
 なお、鈴木金平は下落合800番地に住んでいたが、この住所は鈴木良三のアトリエClick!と同一地番であり、おそらく隣り同士か同一の建物内で暮らしていたものだろう。関東大震災のとき、中村彝が避難した家でもある。ちなみに、松下春雄Click!や鬼頭鍋三郎Click!など名古屋の「サンサシオン」Click!の画家たちともつながる有岡一郎Click!も、下落合800番地に住んでいた。
 中村彝の歿後25周年、1949年(昭和24)7月11日に鈴木金平は鶴田吾郎Click!や小熊虎之助Click!、多湖實輝Click!、堀進二たちとともに水戸へ墓参りに出かけている。中村彝忌は、本来なら12月24日の命日に行なわれるはずなのだが、暮れだと画家たちが多忙で都合がつかず、この時期は夏に一同が集まって墓参をしていたようだ。茨城の水戸駅には、鈴木良三と本郷惇が出迎え、そのまま祇園寺へ墓参りに向かっている。
 鈴木金平がノートに記録した中村彝の言葉は、彝が下落合464番地にアトリエClick!を建てた1916年(大正5)から、関東大震災Click!が起きる1923年(大正12)までの7年間にわたる膨大なものだが、鈴木金平はその一部を1948年(昭和23)に美術出版社から発行された『美術手帖』12号で、「彝さんの言葉」として公開している。かなり長いが、貴重な記録なので引用してみよう。
 
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 ◎今度描く絵は、梨の色の様に、人の目を刺激しない感じで描きたい。(エロシェンコ像を描く時) ◎展覧会や、現社会を、我々は越えねばならない。 ◎人間は、他人から軽蔑されてもかまわない。人間は、裁定の位置にいて、人格者の行いをせねばならない。 ◎美しい女に魅せられて、恋をする。そのファーストインプレッションこそ、芸術的な感動だ。我々が美しい風景を見た感じだ。恋の進むに従って、相手の美醜がわかってくる様に、美しい風景もそれと同じだ。そこに理智が伴う。 ◎嘗て、私は博覧会に裸婦を出品した。一日私は自分の絵の前に立って居ると、二人の女学生が来て、私の裸婦を指して、「憎らしいおなか」と、さも憎らしそうに言った。私は失望してしまった。◎(嵐の夜、電灯の消えた時。)闇は不思議な色をしている。目をとじてみても同じ色で、インプレッション式だ。感情は(蝋燭の灯を指して)此の灯の様なものだ。この灯によって、智を増す本を読む事も出来るし、美しいものを見る事も出来る。此の灯が、何もない所に置かれたら、それは無意味な光に過ぎない。だから感情は、所によって、良くも悪くもなる。今夜の様な嵐の夜は、風の音を聞きながら、額縁の陰や、絵を見ていると、何時もそれ程感じなかったものでも、非常に神秘的に感じる。 ◎智的な、物の見方をすると言っても、思わくだの、テクニックだのだけでは、厭味になり、感情的な絵で経験する不思議なものが、見えなくなる。
 ◎芸術は、科学的に説明するものではないと思う。自分の原則を守って、象徴的に表現するにあると思う。芸術は、無限さの大小によって価値は定まる。 ◎画家は先ず、自然の組織的なものを知らねばならぬ。物をよく見る事だ。腕で描くと思うな。 ◎感情で出来た絵は、後の智で、それを心理と見る時がある。感情と理智とは、入替ってくる。 ◎真の愛は、犠牲によって輝く。愛を感じた時、苦痛の陰は消える。そして意志的な和を感じる。 ◎近代絵画の傾向は、余り微妙な色彩、光に心を傾倒した為、色彩、線条を現わすに、非常に複雑になって、錯綜する様になった。それが為、全体の物質表現が弱められてしまった。例えば、マネー、ルノアール、モネーの如きである。クラシックの絵は、よく物質を現わすのに確かりした線を引いたのである。そこがクラシックの良いところである。 ◎オランダ派の画家は、実に偉大であった。例えば、レンブラントの如く、表現としては、写実であり、その上崇高な心をその中に見出した。レンブラントの肖像を見ると、よくわかる。 ◎私が自画像を描く時、実に困った。(骸骨を持てる自画像を描く時)顔は鏡を見て描けるけれど、手は動いて見る事が出来ない。私は何も知らないのだと思った。先ず本当の調子をのみこんで、自由に描きたい。
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 この中で、意味がよくわからない言葉がある。展覧会に「裸婦」を出品して、彝が絵の近くに立っていると、女学生たちがやってきて「憎らしいおなか」といったことに対して、「失望」していることだ。この「裸婦」作品がどの絵を指すかは不明だが、彝が展覧会でひがな1日立ち合うことができた時期というと、相馬俊子Click!の肖像を描いた新宿中村屋の時代Click!、大正初期のエピソードなのかもしれない。当時の女学生がいう「憎らしいおなか」とは、いったいどのような感覚なのだろうか。「憎々しい」という表現なら、まだなんとなく理解できないこともないのだが・・・。それとも、「しゃくに触る」というような意味合いで、江戸期の町言葉がそのまま活きていたのだろうか?
 「憎らしい」という表現が、おそらく少しズレた意味合いで用いられていた、明治末から大正初期にかけての“流行語”、ないしは若い子たちの慣用表現のような気がする。また、10代後半の女学生たちにそういわれて「失望」する彝の感覚が、現在の観点からはよくわからない。

 「マジ~、お腹がチョーメタボみた~い」、「てゆ~か~、モデル圏外じゃ~ん」、「やだ~、もう信じられな~い」、「ウッソ~、オニかわいくないし」、「てゆ~か~、肉らしいし」、「これってフライング?」、「ね~、いこいこ」・・・というような彼女たちのシチュエーションだったら、彝はせっかく描いた絵を前に、「トシちゃんは、確かにちょっとお腹がおデブ」と「失望」したのかもしれないのだが・・・。

◆写真上:1914年(大正3)に制作された中村彝『少女裸像』(部分)にみる相馬俊子のお腹。
◆写真中上:左は、1916年(大正5)制作の中村彝『裸体』(部分)にみるモデルのお腹。右は、1919年(大正8)に描かれた中村彝『画家達之群』(部分)にみるモデルのお腹。
◆写真中下:左は、1916年(大正5)ごろに撮影された完成して間もない中村彝アトリエの芝庭に座る鈴木金平。右は、1913年(大正2)に制作された鈴木金平『有楽町附近』。
◆写真下:1924年(大正13)12月25日発行の読売新聞に掲載された中村彝の訃報。