1923年(大正12)に関東大震災Click!が起きてから、日本家屋の重たい屋根瓦の課題が大きくクローズアップされた。同震災の犠牲者13万人のうち、家屋が倒壊して圧死した人々は5,000人以上にのぼると推定されている。屋根が瓦葺きでなければ、倒壊せずに済んだ家屋がずいぶんあったのではないか?・・・という、問題意識にもとづいたテーマだった。
 これにより、震災直後から従来の瓦屋根は避けられるようになり、東京市の条例とも相まってトタンやスレートが屋根材としてがぜん注目を集めるようになる。今日では、トタンは安普請の代名詞のように思われているけれど、当時は軽くて地震に強い新建材(特に屋根材)として大きな注目を集めていた。たとえば、佐伯祐三Click!の『下落合風景』シリーズClick!には、どうしても瓦屋根には見えない表現の住宅Click!が数多く描かれているが、おそらく震災後の大正末から昭和初期に流行した、スレートやトタンによる屋根葺き工法を採用している建物だと思われる。
 佐伯はそれらの屋根を描く際、独特な“てかり”を表現するために、ホワイトベースの上に各色の絵の具を重ねて薄塗りしているのではないだろうか。そう考えると、さまざまな方角に向いた屋根が一方の光線(太陽光)によって光っているとは見えない、角度の異なる屋根の不自然な反射を説明することができそうだ。また、そのように光を強く反射する屋根は、スレートではなく金属板を用いたトタン屋根ではなかったか・・・という想定もできるだろうか。
 さて、震災後に広く普及した屋根用建材のひとつに、「布瓦」と呼ばれた製品が存在していた。これが、長い間どのような瓦なのかがさっぱりわからなかった。資料をあちこち当たったのだが、「布瓦」に関する記録は見つからなかった。そもそも、布で瓦を製造することが可能なのだろうか? 帆布のような厚手の生地を重ね、いくら防水材を厚く塗布して加工しても、経年とともに雨水が浸透し水漏れを起こすのではないかと想像できる。それとも、従来の瓦よりもかなり安価な価格設定で、何年かに一度は屋根瓦をすべて葺きかえることを前提にした製品だったのだろうか。
 
 佐伯アトリエも一時期、この「布瓦」を採用している。おそらく、震災前後から葺かれていたとみられ、曾宮一念Click!はこの瓦のことを「布の便利瓦」と、1992年(平成4)に発行された『新宿歴史博物館紀要』でインタビューに答えて表現している。佐伯アトリエの「布瓦」は、戦後に佐伯米子Click!が緑色の通常瓦に葺きかえるまで使われつづけていたらしい。冒頭の写真が、「布瓦」時代の佐伯アトリエの屋根だ。見馴れた緑色の屋根瓦とは異なり、明らかに通常の瓦とは異なるダイヤ型の薄い「布瓦」が葺かれている。関東大震災のときにアトリエは大きく傷つき、急傾斜の屋根に葺かれた瓦が傷ついたので「布瓦」に変えられたか、あるいは竣工時からすでにクギで打ちつけられた「布瓦」を採用していたが、震災で損傷を受けたために修復しているのだろう。
 これと同じ屋根を、昭和初期に長崎地域へ建てられた住宅でも目にすることができる。小川薫様Click!からお送りいただいた長崎写真の中に、「布瓦」を葺いたとみられる小さな新築住宅の外観が写されていた。いまでは、このような形状の屋根をまったく見かけないので、おそらく耐用年数が短かったのか、戦後になって丸ごと葺きかえられたケースが多いのだろう。
 先日、雑司ヶ谷の宣教師館を訪ねたとき、同館の詳細な建築資料を拝見してきた。その中に、雑司ヶ谷教会の古写真が保存されており、屋根には「布瓦」と同じ形状の瓦が葺かれていた。写真の解説を読むと、「教会の建物は、木造のシングル様式で屋根はアスファルトシングル葺きで鐘楼が設けられていた」と書かれている。雑司ヶ谷教会が竣工したのは、1915年(大正4)で大震災前だけれど、「布瓦」と同様の仕様が採用されているようだ。これは、地震災害を想定して葺かれているのではなく、佐伯祐三がアトリエを建てるとき(最初から「布瓦」だったとしたら)と、おそらく同じ理由からだろう。すなわち、建築コストをできるだけ抑えるために採用された仕様だと思われる。
 
 「アスファルトシングル葺き」という言葉から、大震災後に広く普及した「布瓦」の製品仕様をなんとなく想定できる。瓦の芯に厚手の生地(実際に帆布の“束”だったのかもしれない)を使用し、その周囲へアスファルトを厚めに葺きつけたか、塗布をして固い板状にした、軽くて丈夫な瓦が「布瓦」の正体だったのではないか。それを組み合わせ、屋根に貼りつけるようにしてクギで打ちつけ隙間なく並べたのが、「布瓦」屋根と呼ばれた耐震性の高い屋根づくりだったのではないだろうか。また、単に並べて釘打ちするだけでなく、継ぎ目もアスファルトで接着しているのかもしれない。
 でも、今日まで残らなかったのは、やはり耐久年数に問題があったと思われるのと、もうひとつ強風には弱いという欠点があったのではないだろうか。通常の瓦屋根は、確かに地震の際は重たくて危険なのだが、台風などには屋根を強く押さえつけ、吹き飛ばされるのを防いでくれるメリットがある。逆に、「布瓦」は屋根全体の重量を軽くしてくれる反面、夏の終わりに日本へ頻繁に来襲する台風には、その弱点を露呈してしまったのではないかと考えられるのだ。だから、大震災直後から昭和初期まで「布瓦」は流行したけれど、戦後には廃れてしまった・・・そんな気がしている。もうひとつ、火災には弱いというデメリットもあったかもしれない。
 わたしは、一度も目にしたことがない「布瓦」なのだけれど、いまでもスレートやトタン、あるいは通常の瓦に葺きかえられず、どこかに大正期あるいは昭和初期のまま残っている建築があれば、ぜひお教えいただければと思う。あるいは、「いまでも造ってるんだけど、最近はぜんぜん売れないんだよ~」という瓦屋さんがいれば、ぜひご教示いただければ幸いだ。

 余談だけれど、下落合415番地の近衛町Click!に建っていた大正時代の西洋館が、この5月に解体されてしまった。このサイトへも、ご子孫の方からコメントをお寄せいただいた、「あめりか屋」Click!が1922~1923年(大正11~12)に設計・建築したライト風の旧・杉卯七邸Click!だ。これで、近衛町に建っていた大正時代の西洋館建築はすべて消滅してしまったことになり、とても残念だ。

◆写真上:大震災後に「布瓦」に葺きかえられた、下落合661番地の佐伯祐三アトリエの屋根。
◆写真中上:左は、「布瓦」時代に撮影された佐伯アトリエのめずらしい全体写真。右は、長崎地域に建てられた「布瓦」仕様の小型住宅。(小川薫様のアルバムより)
◆写真中下:左は、「アスファルトシングル葺き」を採用した、1915年(大正4)竣工の雑司ヶ谷教会。右は、雑司ヶ谷宣教師館の現状で屋根はスレート葺きだと思われる。
◆写真下:1922年(大正11)に建てられた、解体される近衛町の旧・杉邸。(提供:植田崇郎様)