洋画家志望だった伊藤ふじ子は、長崎・落合地域とのつながりがひときわ濃い。彼女は1911年(明治44)、山梨県北巨摩郡清哲村(現・韮崎市)に生まれ甲府第一高女を卒業している。同級生には、のちに太宰治Click!の妻となる石原美知子がいた。伊藤ふじ子は、1928年(昭和3)5月に東京へやってきて、知人のつてで石川三四郎・望月百合子Click!の家へ下宿している。そして、絵の勉強をするために文展画家だった小林萬吾の画塾「同舟舎」へと通いはじめた。小林多喜二Click!と知り合い結婚するのは、4年後の1932年(昭和7)のことだ。
 伊藤ふじ子は、絵の勉強をつづけるかたわら、さまざまな職業に就いている。1929年(昭和4)には上野松坂屋の美術課に勤務していたが、すぐにそこを辞めて明治大学事務局に転職している。彼女は明治大学で働きながら、長崎町大和田1983番地にあった「造形美術研究所」へ、おそらく目白駅から歩いて通いはじめた。このころには、小林萬吾の同舟舎で学ぶのはやめてしまっていただろう。東京へきてからわずか1年ほどで、共産主義運動に惹かれたと思われる。
 長崎町大和田にあった造形美術研究所は、三科がプロ芸派と造形(型)派に分裂したあと、造形(型)派の拠点になったところで、1929年4月に同所へ設立されている。伊藤ふじ子が絵を学びに通いだした翌年、1930年(昭和5)6月から「プロレタリア美術研究所」と改名されている。ちなみに、一部資料で「1929年4月にプロレタリア美術研究所が落成」となっているのは、造形美術研究所の誤りだと思われる。当時の地図を確認すると、長崎町荒井1832番地の「中央美術学院/中央美術社」は収録されているが、当然のことながら造形美術研究所あるいはプロレタリア美術研究所は、当局の弾圧下におかれていたので収録されていない。
 1930年(昭和5)の当時、長崎町大和田(椎名町界隈)は、ちょうど大規模な地番変更のまっ最中であり、造形美術研究所=プロレタリア美術研究所の場所を特定するのがむずかしい。落合地域のように、ほぼ同一区画で地番数字が1番台で微妙に変わっていくというような小規模なものではなく、100番台または1000番台の単位でまったく新しい地番がふられているから特定が困難なのだ。ちなみに、1929年(昭和4)と1930年(昭和5)で長崎町大和田1983番地を確認すると、双方が直線距離で300mほど離れている。当時のプロレタリア美術研究所へのアクセスには、「目白駅から徒歩20分」という表現が確認できる。このテーマについては、また改めて今月中に取り上げてみたい。
 
 
 伊藤ふじ子は、明治大学へ勤務するかたわら、日本橋にあった銀座図案社にも非常勤で勤務し、グラフィックデザイナーとして働きはじめた。彼女が担当したクライアントは、東京芝浦電気(現・東芝)の宣伝部だった。ふじ子は演劇にも興味をもちはじめ、労農芸術家聯盟の「文戦劇場」で女優としても舞台に立っている。1931年(昭和6)の春、ふじ子は新宿の果物屋の2階に下宿していたが、そのころ刑務所を出たばかりで保釈中の小林多喜二と親しくなったといわれる。小林多喜二は、ちょうど『オルグ』を執筆中だった。そして、多喜二が“地下”へ潜行中の1932年(昭和7)の春にふたりは結婚している。でも、翌1933年(昭和8)2月20日、多喜二はスパイの手びきで赤坂区福吉町(現・赤坂2丁目)の喫茶店におびきだされて特高警察Click!に逮捕され、築地署で虐殺されてしまった。ふじ子にとっては、わずか1年たらずの結婚生活にすぎなかった。
 伊藤ふじ子は多喜二の死後、小池元子が運営する淀橋区下落合1丁目(現・下落合3丁目)の目白通り南側にあった「クララ洋裁学院」へと通いはじめている。なぜ目白通りの南側だと特定できるのかといえば、1944年(昭和19)の秋から暮れにかけて目白通り南側の幅20mにわたって行われた建物疎開Click!で、クララ洋裁学院がひっかかり解体されているからだ。このころ、伊藤ふじ子は洋裁のほかに和裁や編み物も習っていたと思われ、それは彼女が多喜二の死後、「手に職」をつけてひとりで生きていく決心をしたからだと思われる。しばらくすると、伊藤ふじ子は帝大セツルメントで、近所の女子工員たちを集めて編み物や和裁、洋裁などの教室を開いている。
★その後、目白通り沿いの建物疎開は、1945年(昭和20)4月2日から5月17日までの、いずれかの時期に行われているのが判明Click!している。
 クララ洋裁学院は、のちに安部磯雄や吉野作造、片山哲らと社会民衆党の創立にかかわり代議士となる小池四郎が、1923年(大正12)に設立した高田町雑司ヶ谷1117番地(現・西池袋2丁目)の出版社「クララ社」が母体となっている。クララ洋裁学院(のちクララ洋裁研究所)を主催したのは、妻の小池元子だった。自由学園Click!に接して婦人之友社が建つ、坂下の路地を東へ20mほど入ったところ、山手線の線路際に近い位置に出版社と洋裁教室があった。おそらく、生徒数が急増するにつれ池袋の家屋では手狭になったのだろう、昭和初期に下落合1丁目の目白通り沿いに移転している。伊藤ふじ子が、再び目白駅で下りて通学したのは、下落合時代のクララ洋裁学院だ。
 
 
 そのころ、落合地域にはたくさんのプレタリア美術家が参集していた。当時、上落合に住んでいたプロレタリア漫画家・森熊猛や、下落合に住んでいた秋好一雄も日本プロレタリア美術家同盟(ヤップ)東京支部のメンバーだった。ただし、この時期は特高による徹底的な弾圧で、事実上ヤップは解体寸前にあったようだ。伊藤ふじ子が森熊猛と知り合ったのは、秋好一雄の紹介だったという。彼女は秋好の世話で、下落合の下宿で暮らすようになるのだが、残念ながら上落合の森熊猛の下宿も、下落合の秋好一雄と伊藤ふじ子の下宿も住所がわからない。彼女が風邪を引いて寝こんでいるとき、森熊猛が薬をもって見舞いに訪れプロポーズしたといわれている。
 「思想的な漫画」をめざす森熊猛は、1909年(明治42)生まれで小林多喜二よりも6歳年下だった。札幌の北海中学校へ進学し、左翼美術運動の拠点だった北二条西3丁目の喫茶店「ネヴォ」に出入りしていた。「ネヴォ」には、小林多喜二も出入りしていたようだが、森熊と多喜二が知り合いだったかどうかはわからない。もともと、北海中学は美術活動が盛んで、佐伯祐三Click!と東京美術学校で同期だった、「団栗会」Click!の創立者である二瓶等Click!も同校の出身だ。
 1934年(昭和9)3月、伊藤ふじ子は日本赤色救援会(モップル)に参加していたという理由で特高に逮捕された。モップルとは、左翼運動で特高警察や思想検事に逮捕された活動家を支援するグループだ。留置所から釈放されたあと、彼女は帰るところがなくなり、神楽坂に転居していた森熊猛の下宿を訪ね、そのままふたりはいっしょに暮らしはじめて結婚している。
 
 伊藤ふじ子は、小林多喜二の分骨を終生大切に保管していたという。多喜二の葬儀に立ち合っていない彼女が、なぜ分骨をもっていたのかは明らかでないが、1981年(昭和56)4月に森熊(伊藤)ふじ子が死去すると、森熊猛はふたりの遺骨を合葬して同一の墓所に納めている。

◆写真上:小林多喜二が特高に逮捕された赤坂区福吉町の裏道界隈だが、道路の拡幅でにぎやかな飲食街となり当時の面影はない。この日から、伊藤ふじ子の運命は大きく変わりはじめた。
◆写真中上:上左は、「文戦劇場」に参加していたころと思われる伊藤ふじ子。上右は、1931年(昭和6)ごろに制作された伊藤ふじ子『自画像』。下左は、長崎町大和田1983番地にあった造形美術研究所(のちプロレタリア美術研究所)。下右は、制作年代が不詳の小林多喜二『静物』。
◆写真中下:上左は、1926年(大正15)の「高田町北部住宅明細図」にみる雑司ヶ谷1117番地のクララ社。上右は、同地図に掲載されたクララ社販売部の広告。下左は、クララ社があった周辺の住宅街。下右は、雑司ヶ谷1148番地(または上屋敷1148番地)に現存する婦人之友社。
◆写真下:左は、当時各地で発行されたプロレタリア漫画誌のひとつで1931年(昭和6)制作の『労働者マンガ』。右は、1935年(昭和10)ごろの撮影とみられる森熊猛・(伊藤)ふじ子夫妻。