先日、送電鉄塔の記事Click!でご紹介しているテレビ東京の番組Click!で発見された、林武Click!の風景画について書いてみたい。林武は、1922年(大正11)の後半または1923年(大正12)の早い時期から1925年(大正14)にかけ、2年間ほどを上落合725番地界隈ですごしている。筋向いには、佐伯祐三Click!の北野中学Click!における先輩であり、のちにフランスでも交流することになる林重義Click!(上落合725番地→716番地)が住んでいた。ふたりの林が、裸同然の下着姿で付近を走りまわり、地元の青年団から注意されたエピソードClick!もご紹介している。
 林武はこのあと、1925年(大正14)の早い時期に上落合から下落合を飛び超えて長崎4095番地、すなわち目白通り沿いにある長崎子育地蔵Click!の東側へ転居している。そして、翌1926年(大正15)には下落合の目白文化村Click!へと足を運び、箱根土地の旧・本社ビル(中央生命保険倶楽部)をモチーフに『文化村風景』Click!を制作した。つまり、関東大震災Click!が起きた1923年(大正12)前後から大正末にかけて、林武は落合の風景画を連作しているとみられる。
 さて、本年の初めに発見されTV番組で紹介された風景画には、大正末に用いられていた林武のサインが入っている。画面の左下すみに赤で「T.Hayashi.」と入り、サインの描かれた画面手前には収穫を待つ麦畑と思われる情景が拡がっている。おそらく大正末に住み、麦畑が一面に拡がっていた落合地域の風景だと想定できる。そして、この作品の決定的な特徴は画面を左から右へと横切る、高圧電線の系統と思われる送電鉄塔の列だ。
 1922年(大正11)に描かれた鈴木良三の『落合の小川』Click!では、この東京電燈谷村線の送電塔には、明治期から大正中期まで東京郊外で見られた木製の「円」字型柱が用いられていた。ところが、1926年(大正15)に制作されたとみられる佐伯祐三の『下落合風景』Click!(蘭塔坂=二ノ坂Click!からの眺め)では、すでに頑丈な四角錐の鉄塔に建て替えられているのが見てとれる。おそらく、関東大震災で被災した系統網が多数あり、東京電燈では木製の送電塔を耐久性に優れた鉄製のものへ建て替えていると思われるのだ。したがって、林武の風景画が上落合在住作品だとすれば、1924年(大正13)に麦が黄金色に実る初夏に描かれた公算が高い。
 なぜなら、前年の1923年(大正12)の初夏は関東大震災前であり、あえて東京電燈が既存の木製送電塔を強固な鉄塔へと建て替える必然性が薄いと感じられるし、1925年(大正14)の初夏だと、林武はすでに上落合に住んでいないからだ。1925年(大正14)4月に作成された、「下落合及長崎一部案内図」(出前地図)西部版Click!の長崎4095番地には、すでに引っ越しを終えた林邸が収録されている。つまり、林武が上落合で林重義アトリエの筋向いに住み、同風景を目にしてスケッチをする機会があったのは、1924年(大正13)の初夏がもっとも可能性が高いことになる。



 さて、画面を詳しく観察してみよう。空は佐伯の『下落合風景』シリーズClick!のように、少し雲が多い様子をしているが、光線は右手から当たっているように見える。つまり、画面の右手が南側だと想定することができる。地面は緩斜面であり、左手から右手へとゆるやかに下っている。東京電燈谷村線の鉄塔がこのような位置に見え、土地が南へとなだらかに下っている地域は、下落合側ないしは上落合側でもおのずと範囲が限られてくる。送電鉄塔の向こう側、すなわち北側に連なる緑の高台は目白崖線=下落合の丘であり、林武は妙正寺川ないしは旧・神田上水が流れる谷底付近から、東北東の方角を向いて描いていることになる。
 でも、谷村線の鉄塔列は、寺斉橋Click!をすぎてほどなく妙正寺川をわたる地点から、下落合側の南斜面ではなく上落合側の北斜面に沿って設置されており、この作品の風情とは正反対の地形、すなわち南の右手から北の左手へと下っていく緩斜面へと変わる。したがって、本作の風景は送電鉄塔が妙正寺川を上落合側へ渡河するポイントよりも西側、北から南へ向けた緩斜面に鉄塔列が並ぶ下落合側でなければ、地形的な整合性がとれないことになる。そう考えてくると、おのずと描画ポイントの範囲が絞られてくるのだ。
 画面の手前にはふたりの人物が描かれており、そこには農道がありそうな気配を感じとれる。ふたりの人物の右手には、麦畑とは異なる緑色の草地が見えている。同様の草地は少し離れたその向こう側にも見え、遠景の草地は送電鉄塔のすぐ真下までつづいているようだ。通常、一面の麦畑の中にあえて草原の空き地を設けるとは考えられないし、もしこの緑地が麦畑の畦道ではないとすれば、当時は小川だった妙正寺川の岸辺、つまり小川土手と考えても不自然ではないだろう。当時の妙正寺川は、整流化(直線化)工事が施される前で大きく蛇行を繰り返しており、本作の風景のように手前で小蛇行をし、少し先へいくと送電鉄塔の下まで大きく蛇行する地点、そしてふたりの人物が立ち話をしているような農道と思われる道路が南北に横切り、谷村線の鉄塔列がこのような角度で見える地点というのは、下落合側にたった1ヶ所だが存在している。

 
 
 それは、昭和初期ぐらいまでに字「御霊下」と呼ばれ、一部の土地に葛ヶ谷(西落合)の飛び地を含んでおり、のち1932年(昭和7)より下落合5丁目となる妙正寺川の北岸一帯の麦畑だ。しかも、描画ポイントはかなり西寄りの位置で、林武の背後には水車橋とその名前の由来となった水車小屋Click!が見えるような位置だったろう。現在の場所でいうと中井1丁目にある落合公園のすぐ東側、蛇行する妙正寺川の北岸あたりに林はイーゼルをすえていたことになる。画面で見ると、麦畑の中に入りこんでスケッチしているようにも思えるが、林武が立っていたのは妙正寺川の草原土手に近い位置かもしれない。林は、寺斉橋近くの上落合725番地の自宅から、妙正寺川を土手沿いに上流へと歩きつづけ、この風景モチーフを見つけているのかもしれない。
 画面右端に描かれている建物は、収穫した麦の製粉場を兼ねていたバッケ堰Click!下の水車小屋(小屋というより当時の小工場ぐらいの製粉所)であり、同じく右端のこんもりとした緑(樹林)は、上落合の北斜面に点在していた森だろう。ちなみに、林武が描いた当時の水車小屋は新しいもので、明治期からあった旧・水車は蛇行した北側の流れに設置されていた。そして、新・水車小屋の建設とともに不要になった旧・水車小屋を、のちに小島善太郎Click!の父親が借り受けて付近の農民相手に銭湯を営業していたエピソードClick!は、すでにここでもご紹介している。
 画面右寄りの遠方に、ゴチャゴチャかたまっている家々は、林武や林重義が住んでいた寺斉橋周辺の家並みだ。肉眼で見るよりもやや大きなサイズに描かれているようで、実景をかなり誇張しているようにも思えるのだが、画家の目は望遠・広角が自由自在なのでなんともいえない。送電鉄塔の列は、大雨が降った際に妙正寺川の氾濫を想定してか、少し高めの位置に並んで建てられているが、1926年(大正15・昭和元)のおそらく晩秋から暮れにかけ、鉄塔の列に沿って千葉の鉄道連隊Click!により西武電車の線路が敷かれることになる。
 送電鉄塔の向こう側、画面の左から右へと横切っている緑のラインは、下落合の目白崖線だ。でも、そそり立つようなバッケ(崖地)状の丘陵には描かれていないのは、林武が立っている位置が妙正寺川沿いのかなり低い場所であり、緩斜面自体を中心に描いているのと、この風景画のポイントとなる送電鉄塔の列を強調したいがため、あえて背景の丘陵を高くしなかったものか。あるいは、実際に現地を歩いてみるとわかるのだが、目白崖線ではもっとも高い37.5mのピーク(目白学園の丘)があるにもかかわらず、それほど丘陵が高くは感じない。描画ポイントの位置が、川の上流域ですでに高めの土地になっているからかもしれない。
 画面の左端には、少し大きめの西洋館らしい建物が描写されている。この位置に建っていたのは、五ノ坂下のやや西寄りに位置する建物だが、1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」にみえる大きな平山邸だろうか? 五ノ坂の下にあった、西洋館の林芙美子邸Click!のすぐ西側に建っていた邸なのだが、わたしはその外観をこれまで一度も見たことがない。

 
 大正末のこの時期、もうすぐ結成される1930年協会Click!の主要メンバーたち、小島善太郎Click!や里見勝蔵Click!、前田寛治Click!、そして佐伯祐三らはパリ市街のみならず落合地域のあちこちですれちがうように暮らし、また風景を描いた画家たちはモチーフを求めてウロウロと周囲を散策しているのだが、林武もまた、上落合725番地と長崎4095番地を拠点に落合地域を歩きまわっている。そして制作した作品がたまってくると、彼は関西方面へ“行商”に出かけていた。佐伯の作品と同様に林武の「下落合風景」もまた、関西方面にたくさん埋もれているのではないか。

◆写真上:麦が実った1924年(大正13)初夏に制作されたと思われる林武『下落合風景(仮)』。
◆写真中上:上は、1921年(大正10)の地形図にみる描画ポイントと画角。中は、画面の風景と地形図との対比。下は、1936年(昭和11)現在の空中写真にみる描かれた地域。すでに西武電鉄が敷かれて妙正寺川も工事がはじまり、送電鉄塔は同鉄道と重なるように設置されている。
◆写真中下:画面の部分拡大だが、遠景の薄塗りに対し手前の麦畑は絵具が厚塗りだ。
◆写真下:上は、西隣りの中野側を流れる妙正寺川で周辺は落合地域と同様に麦畑だったと思われる。下左は、新杢橋から上流(西側)の水車橋を眺めたところ。現在では、妙正寺川の流れが当時とは大きく異なるため描画ポイントを厳密に規定することはできないが、林武は川の北側土手(写真では右手)にイーゼルをすえて描いたと思われる。下右は、落合公園の東端から西武新宿線の線路(鉄塔跡)と目白崖線のある北東を向いて撮影した風景。