下落合679番地に建っていた笠原吉太郎アトリエClick!を、戦後に借りて仕事をしていたとみられるのは、シュルレアリズムやキュビズムを研究・表現した洋画家であり写真家、前衛美術家、マルチ・アーティストとさまざまなショルダーをもつ阿部展也(芳文)だ。
 阿部展也(のりや)Click!は、この笠原アトリエで「アトリエ研究会」(あるいは「日曜研究会」とも)を催し、若い駆けだしの美術表現者たちを集めては現代美術に関する画塾、講習会、ないしは情報交換会のような集いを定期的に開いていた。阿部が笠原アトリエを借りて制作をしていたのは、戦争が終わった1940年代後半から1957年春までのおよそ10年間のようだ。
 1949年(昭和24)の秋、阿部展也のアトリエを訪ねた彫刻家・松浦万象の記録が残っている。2000年(平成12)に発行された「画家・阿部展也発見」展から、松浦の文章を引用してみよう。
  ▼
 1949年秋、下落合のアトリエを訪ねた。阿部さんは初めてとは思われない気さくさで、丁寧に話をしてくれた。「毎週日曜日午後、数人で研究会のようなものをやっているので来てみないか」と言う事で、思いがけなく予定をたてる事にした。/当の日曜日は主に数人の若い20代の画家、年上の者は一人か二人位、他は建築家、写真家も一人づつ(ママ)加わっていたはじめに阿部さん自身が現在描きかけの絵を見せ、その絵に関する話をしたり、また雑談から始める日もあった。
  ▲
 この下落合で催されたアトリエ研究会には、ときにイサム・ノグチも通ってきていた。阿部展也が仕上げた『蛸猿』という作品の画面を、ノグチは何枚もカメラで写真に収めている。なにか、制作のヒントになるような触発を受けたものだろうか。イサム・ノグチと阿部展也は、欧米の視点から日本文化を眺めるとどのように映るのか、それが日本文化の欧米側からの“発見”にどのように結びつくのか、あるいは相互に影響や触発しあう状況とは具体的にどのようなものなのか・・・など、おもに洋の東西文化の接点をテーマに議論しあっていたようだ。
 アトリエ研究会(日曜研究会)は、ときどき講師もまねいていたらしい。美術研究家の江川和彦が講師に招かれ、ジョージ・キープスが著した『Language on Visual(視覚言語)』の原書購読会なども行なわれている。研究会のメンバーには、美術畑ばかりでなく建築家なども参加していた。
 
  ▼
 このアトリエは他にも思いがけない人が出入りするので、まるでコミュニケーションの交差点になっている様だった。日曜研究会は二年余り続けたが、この間も阿部さんの制作は進んでいた。「飢え」の2、「太郎」「花子」「骨の歌」もその一部であって、それぞれの制作過程を見ることが出来た。その頃の作品について瀧口修造は「象形と非象形の相克」(『アトリエ』1950年11月号)と言う見出しで阿部展也の芸術について美術誌に書き記している。
  ▲
 阿部展也は戦前、おもにヨーロッパの現代美術に強い関心をしめしていたけれど、下落合でアトリエ研究会を開いていたころは、ヨーロッパの美術界からは少し距離をおきはじめ、独自の世界を展開しようとしていた。米国で開花したヨーロッパとは異なる現代美術についても、アトリエ研究会では課題に取りあげられている。「現代ヨーロッパ美術、それも二十世紀前半には多彩な現れ方があり、それぞれのポリシーを通しての研究者になるのは自由だが、アーチストは、時に足踏みも必要なだけすればよいのだ」・・・という言葉を下落合時代に残している。
 この時期の阿部展也は、下落合679番地の笠原アトリエを恒常的に借りていたようだけれど、阿部自身も笠原邸に間借りをして住んでいたとは想像しにくい。戦後は制作しなくなってしまったとはいえ、笠原邸には笠原吉太郎Click!や美寿夫人Click!と家族たちがそのまま暮らしていたはずで、邸自体を阿部に貸していたとは考えられない。広い邸なので、アトリエつづきの部屋を阿部に貸していた可能性は残るのだが、阿部には子どもたちも含めた家族がいたはずだ。笠原夫妻のご子孫にうかがっても、阿部展也のことを記憶されていないところをみると、阿部は笠原アトリエだけ借り受けて自身は家族とともに、ごく近くの家に住んでいた可能性もありそうだ。
★その後、阿部展也アトリエは下落合2丁目679番地(現・中井2丁目)にあったことが、同アトリエを購入され居住されていた方からの証言Click!で確認できた。

 下落合時代からの阿部の仕事について、再び同図録から松浦万象の文章を引用してみよう。
  ▼
 52年秋頃、阿部展也は美術文化協会を離れ、その後も新しい作品を発表してゆく、50年代では曲線のある有機体の中に「つまるもの」「つまらねえもの」があるが、この頃の集成と思える造形が印象的だ。「人間シリーズ」その他、方向も変わり、60年代近くからは主題性から離れ、造形思考、そして抽象に、阿部のローマ時代後期の絵画になってゆく。しかし抽象表現的な傾向は下落合時代からも窺う事が出来る。制作だけでなく幅広い触手は私達にも関心の対象を広げさせてくれた。東欧等の探索旅行はその民族文化の接点を連想し、多くの写真と言葉の一部を残した。
  ▲
 下落合のアトリエでくつろぐ、阿部展也の写真が残っている。写真家の大辻清司が撮影したものだが、北側と思われる大きな採光窓を背景に、ソファへゆったりと座る阿部の姿がとらえられている。初めて垣間見る笠原吉太郎アトリエの内部写真(?)だが、印刷がやや不鮮明だ。もし笠原家のご子孫のアルバムClick!からアトリエ写真が見つかれば、改めてご紹介したい。
 
 阿部展也は1957年(昭和32)3月まで、下落合679番地のアトリエあるいは付近の家に住みつづけたが、その後、隣りの中野区へと引っ越しているようだ。角筈の熊野十二社Click!もほど近い、その西側(中野区側)のにぎやかな商店街の裏手にあたる、住宅街の一画が転居先だった。

◆写真上:写真家・大辻清司が撮影した、下落合のアトリエでくつろぐ阿部展也。
◆写真中上:いずれも下落合679番地の阿部展也アトリエで制作された作品で、1949年(昭和24)の阿部展也『作品』(左)と1951年(昭和26)の同『シンワA』(右)。
◆写真中下:阿部展也の代表作である、1950年(昭和25)に描かれた『骨の歌』。
◆写真下:下落合のアトリエ内部がうかがい知れる作品2点で、1953年(昭和28)制作の阿部展也『オブジェ』(左)と同『モダンアーチストの肖像』(右)。撮影は、いずれも写真家・大辻清司。