復元された中村彝Click!アトリエの、屋根上のフィニアル(飾り立物)Click!が面白い。初期型アトリエの屋根に載っていたのは、切妻の外側に向かってまるで波止場のもやい綱をとめる繋船柱のような形状をしたフィニアルだった。復元されたアトリエには、それとは多少デザインが異なるけれど、建築家の方々が似たようなフィニアルを探してくださったようだ。
 以前、「杏奴」で復元にかかわる方々にお話をうかがったとき、大正期と同じデザインのものは残念ながら現在では製造されていないということで、フィニアルは現状で入手可能なものを用いるとうかがっていた。わたしは、水戸の茨城県近代美術館の敷地内に再現された彝アトリエ・レプリカClick!(関東大震災以後の改装タイプ)に使用されている、尖がった一般的なフィニアルを想定していたのだけれど、それらしい似たような「波頭」型のフィニアルを見つけられたらしい。
 どこか、蕨手刀の柄(つか)のようなかたちにも見えるフィニアルで、水戸出身の彝にはピッタリのように思えてくる。建築家の方は、意識されていたかどうかは不明だけれど、茨城県は全国でも蕨手刀の出土地としてはトップレベルを誇る土地がらだ。こちらでも、高根古墳(7世紀前半)の蕨手刀Click!をご紹介している。のちに、日本ならではのオリジナル刀剣である湾刀へと進化する、まさに祖形となった古墳時代の作品だ。おそらく、ナラのヤマトに「蝦夷(えみし)」などと蔑称された、東北の舞草鍛冶(もぐさかじ)あるいは月山鍛冶(がっさんかじ)あたりが中心となって開発し、のちに関東そして西日本へと伝わり、いわゆる日本刀Click!を形成する大もとになった体配だ。その茨城を象徴する、蕨手刀の柄(つか)を模したようなフィニアルが、彝アトリエの屋根に載せられている。
 既存のピンク色が混ざったような、鈴木誠アトリエClick!の屋根に載っていた戦後の日本瓦ではなく、戦前に焼かれたフランス瓦が見つかり、それを復元に用いると聞いたときと同様のうれしさを感じる。彝アトリエに用いられていたのは、大正期のベルギー製の屋根瓦Click!だが、戦後に生産された日本製の瓦よりも、ほぼ同じ時期の隣国フランスで製造された同系色の屋根瓦のほうが、より当時の意匠や風情に近い姿で、リアリティの高い復元ができるのはいうまでもないだろう。


 
 実は、大正期の中村彝アトリエに載っていた瓦と、おそらく同一と思われる屋根瓦やフィニアルは、下落合464番地の彝アトリエから西へ200mほど離れた、下落合579番地に建つ井出邸Click!にも採用されていた。彝アトリエと同様にオレンジがかった赤い瓦で、フィニアルはほとんど同一といってもいいデザインをしていた。残念ながら、同邸は先年リニューアルで建て替えられてしまったけれど、おそらく彝アトリエと同じ屋根材が用いられていたのではなかろうか。
 以前、中村彝アトリエ保存会Click!でご一緒した、彝アトリエの近くにお住まいの建築家・植田崇郎様Click!より、彝アトリエと大正末から昭和の最初期に建てられたと思われる井出邸、さらに六天坂のスパニッシュ風西洋館の典型である中谷邸Click!の屋根瓦とを比較した、たいへん興味深い写真をお送りいただいたが、その井出邸がこんなに早くリニューアルされ建て替えられてしまうのであれば、フィニアルだけでも彝アトリエの屋根復元へ流用させていただけていたらと思うと、少し残念な気がしている。それほど、井出邸のフィニアルは旧・下落合全域(中落合・中井含む)でもほかに例を見ない、独特なデザインをしていて気になる存在だった。
 彝アトリエは、既存の腐食していない建築部材を可能な限り活用した、1916年(大正5)に建てられた当時の初期型アトリエの姿として、すでに竣工している。曾宮一念Click!が目にしたら、おそらく総毛だつようなリアルな出来ばえだろう。南の芝庭や北側の井戸、井戸端に植えられていた柿、彝手植えのアオギリや藤棚、そして本来の門があった位置のエントランスや玄関口もできあがった。あとは、「中村彝アトリエ記念館」として3月17日のオープンClick!を待つだけの状態になっている。

 
 従来、1929年(昭和4)に鈴木誠Click!が改装する際、母屋へと流用されていた彝アトリエの窓のひとつも、窓ガラスごとアトリエ側へともどされている。ガラスも既存のものをそのまま流用しており、いわゆる“大正ガラス”と呼ばれる表面が波打った趣きのあるものだ。既存材や古材を、最大限に活用した今回の彝アトリエ復元は、根津教会のケーススタディと同様に、美術史的にも建築史的にみても、非常に価値のある保存形態といえるだろう。
 この中村彝アトリエの復元・保存プロジェクトを後世へのデファクトスタンダードとして、美術家に関するアトリエの復元・保存には、建築分野の視点のみによる企画・設計ではなく、現時点における美術史分野の懸案課題や追求テーマ(当の美術家をめぐる今日的な研究課題とはなにか?)に通暁しているチームによる復元プロジェクトを、ぜひ今後とも望みたい。新宿区では、このようなプロジェクトについては、さまざまな設計・建築事務所によるコンペティションを実施していると思われるが、単なる近代建築の保存・復元案件ではなく美術家のアトリエの場合には、美術史における課題や懸案を十分に掌握し意識したプレゼン企画へ、より留意していただき採用を決定してほしいものだ。
 
 
 
 解体された佐伯祐三Click!アトリエの、数多くの部材Click!がいったいどこへ消えてしまったものか、わたしは「佐伯祐三アトリエ記念館」の竣工と同時に新宿区へ訊ねているが、いまだ回答をいただいていない。繰り返すが、美術史の今日的な課題に注意深く留意し、またそれらを前提とし充分に配慮した復元・保存のコンペティションを展開してほしい。ひとたび消滅してしまえば、二度と再びアトリエ自体をテーマとする研究の進捗も深化も、永遠に望むことができないからだ。

◆写真上:復元・保存された、中村彝アトリエの屋根上に設置されたフィニアル。
◆写真中上:正面から見た彝アトリエと、西側切妻上のフィニアル(左)と東側のフィニアル(右)。
◆写真中下:上は、植田崇郎様よりお送りいただいた鈴木誠アトリエ(左)と井出邸(中)、六天坂は中谷邸(右)の屋根瓦比較写真。下は、リニューアル前の2006年に撮影した井出邸。屋根上のフィニアルは、おそらく1916年(大正5)竣工の中村彝アトリエのものと同一だと思われる。
◆写真下:竣工した中村彝アトリエを、さまざまな角度から。窓枠やガラスの一部にも既存の部材がそのまま活かされており、ガラスの表面が波打つ“大正ガラス”が見られる。
 
★植田崇郎様より、リニューアル前の井出邸の屋根上に載っていた、貴重なフィニアルの写真をお送りいただきました。復元された中村彝アトリエに使われている現行製品に近似していますが、“背”の傾斜が井出邸のほうが急角度のように感じます。さて、大正期の同型フィニアルが、どこかに残っていないでしょうか。
★また、建築がご専門の植田崇郎様Click!より、以下のような感想をいただきました。
 「棟飾りを比較して気づいたのですが、棟瓦の形の違いのせいで棟飾りが違うのか、逆に山形の棟瓦に合った棟飾りしかみつからなかったので棟瓦を山形にしたのか、ともかく古い屋根の丸形棟瓦に対して復元は山形棟瓦を使っています。復元アトリエの棟瓦は山形で角張っているため、屋根全体の印象がよく言えばシャープに感じます。昔の屋根は全体の印象がのんびりしていて柔らかです。同じことは井出邸の棟飾りと復元アトリエの棟飾りにも言えます。井出邸の棟飾りは背が低くふっくらして屋根全体になじんでいますが、アトリエの物は突出した感が否めません。このあたりは意図したことなのか、しかたなくこうなってしまったのかは不明ですが気になりました。」
★sigさんからいただきましたコメントにより、復元前の鈴木誠時代のアトリエの姿(左)と、建築初期の中村彝アトリエの姿(右)を追加いたしました。ご参照ください。