大正期から昭和初期にかけ、落合地域の小学校では遠足や林間学校が企画された。もっとも、当時の落合地域はまだ自然がいっぱい残っていたので、わざわざ遠い遠足に出かけるまでもなかったように感じるのだが、ごく近場の周辺散策から電車に乗って遠くまで、学年に応じた遠足が行なわれていた。牛込柳町近くの市谷小学校では、戸山ヶ原から下戸塚(早稲田)・落合方面へ遠足やハイキング(郊外運動)に出るぐらいで、当時の落合地域は目白崖線からの眺めもよく、いまだ自然にめぐまれた景勝地だったと思われる。このサイトでも、ハイカーたちの火の不始末から西坂・徳川邸Click!下でボヤ騒ぎになった事件Click!をご紹介している。
 牛込区(現・新宿区)の区立市谷小学校では、戸山ヶ原から下戸塚(現・早稲田)方面へ遠足に出かけるのを学校行事にしていた。明治から大正にかけては、遠足とは呼ばず「郊外運動」と表現されていた。同校の「市谷学報」には、遠足に参加した4年生の女の子の作文が残されている。1977年(昭和52)に自費出版された、国友温太『新宿回り舞台』から孫引き引用してみよう。
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 きょうはお天気でしたから、先生につれられて郊外運動に出かけました。朝八時学校を出て原町の坂を上がり、若松町を通って戸山学校の前から大久保に出て、戸山の練兵場で兵士の体操を見ました。それから戸山ヶ原を越し、諏訪神社へ参けいして二十分ばかり休んでつみ草をしました。畑には一面の麦のほが出ていました。そして一行は早稲田大学から喜久井町を経て学校に帰って来たのは十一時でした。いい空気を吸ってのんびりしてゆかいでした。
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 これは半日遠足の記録だが、東大久保や戸山、早稲田を牛込柳町から見て「郊外」と認識している視点が面白い。牛込区や四谷区(ともに現・新宿区)から見れば、大久保村や戸塚村、落合村はもはや東京市街地ではなく、街の郊外と認識されていた。
 落合地域の小学校では、共通に出かけた遠足地として羽田海岸と穴守稲荷がある。東京湾を眺めながら穴守稲荷にお参りし、ついでに羽田海岸で潮干狩りを楽しむというコースだった。以前、こちらでも堀尾慶治様Click!が落合第四小学校Click!時代に出かけた、羽田への遠足写真Click!をご紹介している。小学校も中学年になってからの遠出で、低学年では先の市谷小学校と同様に、近くの戸山ヶ原Click!(山手線西側の着弾地側)などへ出かけていたようだ。
 

 また、小学校によっては練馬・石神井の三宝寺と三宝池Click!が遠足地として選ばれていた。当時の石神井公園には、いまだ東側の広いボート池が存在せず、西側の三宝池と中世の石神井城跡を散策するのが小学生たちの遠足コースだったらしい。高学年になると、遠足地も地元からかなり離れた場所が設定され、電車に乗って高尾山や鎌倉などへ出かけている。
 当時の遠足の様子を、隣り町である上高田の小学校の記録に見てみよう。ちなみに、この遠足の様子は堀尾様たちよりも少し上の世代の記録だろう。1982年(昭和57)にいなほ書房から出版された、細井稔・加藤忠雄・共著の『ふる里上高田昔語り』から引用してみよう。
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 愈々(いよいよ)電車で行く遠足となると、羽田海岸の潮干狩りに、穴森神社となる。今の羽田空港は一面の遠浅の海岸で、波打ちぎわはやや高い砂丘で、松林が一面に続き、白亜の燈台があった。アサリ、蛤が袋にいっぱい取れ、潮吹貝などいくらでもいた。やがて潮が上って来ると、海の水は透き通るように綺麗だった。/穴守稲荷の赤い沢山の鳥居や、茶店、土産売りのねえさんやおばさんが、赤や紫の前掛けで大勢賑やかな事に驚いた。前には多摩川の清流が広々と流れ、岸辺は一面に葦が茂っていた。その間から川崎大師へ渡し舟が出て、ノンビリした光景だった。
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 先日、堀尾様にお話をうかがったとき、1940年(昭和15)の小学校卒業のときに催される遠足(修学旅行)が、「非常時」下のために「贅沢」だとされ、淀橋区(現・新宿区)内の小学校で抽選になった経緯をご教示いただいた。従来は、卒業を控えた時期には区内の小学校で必ず行われていた旅行だが、戦時体制の強化とともに全校で行うわけにはいかず、抽選で選ばれた小学校のみが修学旅行に出かけられた。落合第四小学校は残念ながら抽選にはずれ、近場の鎌倉日帰り遠足になってしまったらしい。鎌倉では、当時の皇国史観Click!教育を反映してかメインの鶴岡八幡宮ではなく、護長親王の鎌倉宮で遠足の記念撮影が行われている。
 また、小学校の夏休みに催された林間学校の様子をとらえた写真も、堀尾様よりお見せいただいた。日中戦争が泥沼化していた戦時とはいえ、いまだ太平洋戦争前なので日本本土が戦場になることはなく、子どもたちの表情は一様に明るく快活だ。1944年(昭和19)ごろからいっせいに開始され、米軍の空襲に備えて町から農村へと子どもたちを避難させた「学童疎開」の写真に比べると、その表情に根本的なちがいが見られる。そして、なによりも子どもたちの前に用意された食事が、「学童疎開」時の貧弱な食べ物に比べ、まだ豊かで多彩だ。
 わたしの小学校時代の遠足先には、やはり鎌倉が含まれていた。バスで出かければ湘南道路(134号線=ユーホー道路)を海岸沿いにまっすぐ走り、ものの数十分で鎌倉市街に到着するほどの距離なので、小学生の遠足先としては近場だった。もちろん、わたしの時代は鶴岡八幡宮や高徳院(鎌倉大仏)が記念撮影の場所だった。ちなみに、廬舎那仏の大仏殿が室町期の大津波で倒壊しさらわれたのを、確かこの遠足で耳にしている。関東大震災Click!時の津波Click!の倍以上、おそらく20mを超える津波が発生しないと、長谷の大仏殿までは到達しなかったはずだ。


 小学校の低学年では、春と秋に行われた遠足で湘南平Click!や花水川上流、相模川の寒川浄水場などが選ばれた。高学年になると、相模湖や多摩地域、大山などへ出かけた憶えがある。林間学校は、芦ノ湖畔の小学校を借り切って泊まったのだが、持っていくお菓子がいつもより多かったのと、校庭でキャンプファイアやフォークダンスをしたこと以外、あまりハッキリとした印象がない。おそらく宿泊先が小学校だったので、あまり環境的な変化が感じられなかったせいなのだろう。

◆写真上:小学校の遠足先のひとつに選ばれた、練馬・石神井城址の三宝池。
◆写真中上:上左は、落合第四小学校の卒業記念に行なわれた鎌倉遠足。護良親王(もりながしんのう=大塔宮)が幽閉された、二階堂ヶ谷(にかいどうがやつ)の鎌倉宮前での記念写真。上右は、室町期に大仏殿が津波でさらわれ露座となってしまった高徳院の盧舎那仏(鎌倉大仏)。下は、1963年(昭和38)に父親のカメラをイタズラしてわたしが撮影した鎌倉市街。衣張山山頂からの眺めで、稲村ケ崎の向こうには江ノ島がかろうじて見えている。当時の鎌倉はひっそりとしていて、観光バスが訪れる名所旧跡を除いては市街地でもほとんど人が歩いていなかった。
◆写真中下:上左は、1937年(昭和12)5月14日に行われた落合第四小学校の羽田遠足。上右は、羽田穴守稲荷社の現状。下は、夏休みに富士山の山麓で行われた落四小の林間学校。
◆写真下:ともに、落合第四小学校の林間学校記念写真。上は富士山の稜線がうっすらと見え、下の食事風景は子どもたちの表情に屈託がなくみんな明るい表情をしている。