江戸東京には、江戸期に品川の東海寺にいた沢庵和尚が発明した漬け物だから、「沢庵漬け」と呼ばれている…というエピソードが根強く残っている。でも、沢庵が徳川家光に供したとされる漬け物=今日の「沢庵漬け」は、当然のことながら沢庵が生まれる以前からこの世に存在していた。この大根の漬け物に対する命名は、たまたま沢庵和尚のエピソードにからめ、あと追いで江戸期に付けられた名称にすぎないと思われる。
 落合地域とその周辺では、昭和初期あたりまで大根の栽培Click!が盛んに行われていたが、野菜が少なくなる冬場、あるいは凶作に備えて作られる漬け物のことを、古来より「たくわえ漬け」と呼称していた。この呼び名は、おそらく沢庵和尚が出現する以前から存在していたと思われ、「蓄え」という音へのちに「沢庵」とかぶせてしまったのが実情ではないだろうか。あるいは、家光はそれが「たくわえ漬け」だというのを重々承知のうえで、音が似ている和尚の名前と重ね大塚商会レベルの駄ジャレを飛ばしたつもりで、「沢庵漬け」と呼びはじめたのかもしれない。塩と米糠で漬ける「蓄え漬け」は、おそらく室町期から存在していたと思われる。
 近代の落合地域で栽培されたいわゆる“落合大根”は、宮重種と練馬種がほとんどだが、畑地での収穫が終わると目白崖線沿いのあちこちにあった湧水池=洗い場Click!で泥を落とされ、雑司ヶ谷道Click!を通じて江戸川橋や神田にあった青物市場へ出荷されるか、沢庵漬けの材料として加工場へ運ばれて干された。落合地域で沢庵漬けの生産がもっとも盛んだったのは大正期で、製品は国内ばかりでなく、米国のハワイまで輸出されていた記録が残っている。
 さて、当時の沢庵漬けの製造工程をみてみよう。落合地域など、江戸近郊で使われていた方言=江戸東京弁の一部が混じるが、そのままの形でご紹介しよう。まず、いい大根を作るには「ジダケ(地丈)」が必要で、関東ローム層まで達する間には厚い黒土層が必要だった。根菜類は、地下へ向かってまっすぐ垂直に伸びるため、浅い黒土の耕作では出来が悪い。7月のお盆前後から畑を「ウナイ(深く耕す)」して、「ナワズリ(縄ずり)」を行ない種子を定間隔で直線状にまいていく。芽が出た葉のうち、いちばん元気がいい苗を残して、あとはすべて引っこ抜いて棄ててしまう。
 
 やがて、11月の中旬には収穫期を迎え「コギ(引き抜き)」が行なわれる。獲れた大根は、洗い場へ運ばれて泥を落とすのだが、近くに湧水池がなかった上落合などでは、「大盤(おおばん)」と呼ばれる大きなタライ桶を畑に置き、川から水を「ニナイ(水桶)」で運んで貯めておく。大盤は3つあり、一番盤は土落とし、二番盤は鮫皮か藤屑で表面の汚れ落とし、三番盤では再びよく洗ってから「アミ(干し縄)」方へ運んでいく。「アミ」とは、大根を干すために編んだ縄のことで、これに大根を挿しては「レン(連)」にして吊るし、よく乾燥させてから夕方に取りこむ。
 夜は、水分の多い大根が凍結してしまうといけないので、地面に藁(わら)か蓆(むしろ)を敷き、取りこんだ大根を積み上げ、その上から再び藁や蓆をかけて、最後に藁で作った「サンダラボッチ」と呼ばれる大きな覆いをかける。翌朝になると、再び丸太に連を吊るして大根を乾燥させ、夕方になると取りこんで「サンダラボッチ」をかけておく。この作業を連日、10日~20日間ぐらいつづけると、大根は乾燥でクタクタになる。これが、沢庵漬けの原料の状態だ。
 通常は、米糠7割に対して塩3割を混ぜ、四斗樽へ乾燥した大根を次々と漬けていく。より長期間の保存をするためには、米糠5割に塩5割、あるいは特別に超長期間の保存食として米糠3割に塩7割という、非常にしょっぱい沢庵漬けもあったらしい。四斗樽は押蓋でふさがれ、その上から「バンギ(番木)」と呼ばれる角材を2本置き、その上に板を敷いて大きな漬け物石(50kg~70kg)を載せる。このような作業は昭和初期まで、落合地域やその周辺域の農家で一般的につづけられていた。

 下落合4丁目2107番地に住んだ作家・船山馨Click!は、毎年、自宅で漬け物を作るのが楽しみだったようで、冬になると軒下に大根を吊るして干していた。それを見ていた婦人客から、「大根を腐らせて、もったいないことを…」と、とがめられたエピソードが残っている。船山は沢庵漬けではなく、北海道の鰊漬けを作っていたのだが、かなり心外に感じて印象に残ったものか、1978年(昭和53)に構想社から出版された『みみずく散歩』でこう書いている。
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 この秋、私は一念発起して鰊漬けを四斗樽に二本試作した。/ちょうど大根を荒縄で編んで乾かしているところへ、来あわせた婦人客が「まあ、もったいない」と咎めるような嘆声を発したのには面喰らった。漬物などズブの素人の私が貴重な大根を無駄にしている、という意味かと思ったが、そうではなかった。「せっかくのお大根を、どうして腐らせるんですの」と婦人が言ったからである。/私はその都会育ちの御婦人に、やおら鰊漬けの漬け方を講釈し、北海道流の漬物がいかに珍味であるかを自慢し、正月には樽をひらいて、まずあなたに賞味していただく。その時、あなたの漬物の概念に革命が起きるでありましょう、などと言った。
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 いかにも、乃手Click!らしいエピソードなのだが、戦後になると沢庵漬けは作るものでなく買うものであり、江戸東京でも有数の大根と沢庵漬けの名産地だった落合地域にさえ、その作り方を知らない女性が出現していたようだ。もっとも、わたしも一度として沢庵漬けを自宅で作ったことはないけれど、それが大根を干して乾燥させることからはじめるぐらいは、なんとか承知している。

◆写真上:下落合の近くの畑地では、いまでも“落合大根”が栽培されているが、少量生産なのでもっぱら自宅消費用に作られている。おそらく、都心・新宿に残る最後の大根畑だろう。
◆写真中上:左は、次々と畑から収穫され最後に残った落合大根。右は、佐伯祐三のスケッチ「農婦」。キセルで一服する農婦が描かれているが、川端で大根を洗い終えたところだろうか?
◆写真中下:下落合に残るSさんの畑には、四季折々の花々が植えられていて楽しい。
◆写真下:左は、東京ではお馴染みの沢庵漬け。右は、明治期に造られたとみられる四斗樽。