目白文化村Click!北側の一画、下落合1385番地Click!に住んでいた二科の甲斐仁代Click!と帝展の中出三也Click!は、1928年(昭和3)の早い時期に、妙正寺川沿いの野方町上高田422番地へ転居している。下落合の画室には、アビラ村(芸術村)Click!の下落合2108番地に住んでいた吉屋信子Click!が散歩の途中で立ち寄っては、甲斐の作品を購入していた。
 きょうは、林芙美子Click!が1933年(昭和8)に書いた『落合町山川記』にも登場している、近くに豚小屋があった上高田422番地の甲斐仁代・中出三也のアトリエについて書いてみたい。ふたりが、下落合からすぐ西隣りの上高田へ引っ越したのは、中出三也が同地にあった昭和女子高等学校(現・昭和女子大学)の美術教師をつとめていたからだ。林芙美子が『落合町山川記』を書いた1933年(昭和8)当時も、ふたりは上高田422番地の8畳ほどのアトリエと3畳ほどの寝室が付属した、小さな家に住んでいたと思われる。
 当時の甲斐仁代・中出三也アトリエの様子がうかがえる貴重な資料を、北海道立三岸好太郎美術館Click!の学芸員・苫名直子様Click!からお送りいただいた。それをご紹介する前に、林芙美子が書いた『落合町山川記』の一節を、少し長くなるが引用してみたい。
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 この落合川に添って上流へ行くと、「ばつけ」と云う大きな堰があった。この辺に住んでいる絵描きでこの堰の滝のある風景を知らないものはもぐりだろうと思われるほど、春や夏や秋には、この堰を中心にして、画架を置いている絵描きたちが沢山いた。中井の町から沼袋への境いなので、人家が途切れて広漠たる原野が続いていた。凧たこをあげている人や、模型飛行機を飛ばしている人たちがいた。うまごやしの花がいっぱいだし、ピクニックをするに恰好の場所である。この草原のつきたところに大きな豚小屋があって、その豚小屋の近くに、甲斐仁代さんと云う二科の絵描きさんが住んでいた。御主人を中出三也さんと云って、この人は帝展派だ。お二人とも酒が好きで、画壇には二人とも古い人たちである。私はこの甲斐さんの半晴半曇な絵が好きで、ばつけの堰を越しては豚小屋の奥の可愛いアトリエへ遊びに行った。/夕方など、このばつけの板橋の上から、目白商業の山を見ると、まるで六甲の山を遠くから見るように、色々に色が変って暮れて行ってしまう。目白商業と云えばこの学校の運動場を借りてはよく絵を書く人たちが野球をやった。のんびり講などと云うハッピを着た連中などの中に中出さんなんかも混っていて、オウエンの方が汗が出る始末であった。/来る人たちが、落合は遠いから大久保あたりか、いっそ本郷あたりに越して来てはどうかと云われるのだけれど、二ヶ月や三ヶ月は平気で貸してくれる店屋も出来ているので、なかなか越す気にはなれない。それに散歩の道が沢山あるし、哲学堂も近かった。春の哲学堂の中は静かで素敵だ。認識への道の下にある、心を型どった池の中にはおたま杓子がうようよいて、空缶あきかんにいっぱいすくって帰って来たものだ。
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 この中に登場する「落合川」は、林が独自にそう呼んでいる妙正寺川(北川)Click!のことで、「ばつけ」とはもちろん東京方言でハケと同様にバッケClick!(崖地・急斜面)のことだ。「ばつけの堰」は、林の連れ合いである手塚緑敏Click!も描いているバッケ堰Click!のことで、「広漠たる原野」は戦後までなにもない原っぱのままだった、上高田のバッケが原Click!をさしている。おそらく、隣りの西落合と同様に田畑を宅地化するための整地が行われ、昭和初期には耕地整理のまっ最中だったと思われる。井上哲学堂Click!もほど近い、妙正寺川沿いのそんな一画に、甲斐仁代と中出三也のアトリエはあった。

 では、苫名様よりお送りいただいた、1932年(昭和7)9月15日の読売新聞の記事、シリーズ「美術の秋に…絵をかく夫婦」の13回から、ふたりの様子を一部引用してみよう。
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 恋愛千浬自由形/「貧」も顔負けの打倒泥棒
 お二人とも岡田三郎助氏の門下 先生は帝展、奥さんし二科で先生の方はそんなでもないが、奥さんは廿一歳(21歳)のとき入選して以来たつた一回落ちただけ、「二科の甲斐さん」つていへば有名なもンだ。(中略) いま住んでゐる家も故虫明柏太氏の画室で新井薬師の裏の方の田園に担いで来てちよつと置いたやうな小さいやつ、「朝飯前の貧乏」には、はなはだ適当な家である。八畳ぐらゐの画室らしい部屋と三畳の寝間らしいのがあるだけで玄関はもちろん便所さへあるかなしかだ。人が来て靴を脱ぐとすぐ家の中に靴を入れて呉れる。さうしないと通行人がもつて行つてしまふからだ。
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 読売新聞では、「絵をかく夫婦」としているが中出三也にはすでに妻がいて、ふたりは駆け落ちした画家同士の事実婚と表現したほうが適切だ。上高田の家は、おそらく二科のつながりから甲斐仁代の知人であり、1926年(大正15)11月に34歳で急逝した、同じ洋画家・虫明柏太のアトリエだったことがわかる。画室の大家は、未亡人となった虫明夫人なのだが、ふたりは貧乏なので家賃をなかなか払わなかったらしい。読売新聞は、「未亡人撃退術」まで紹介しているが、夫人のほうも戦術を練り、夫婦どちらかがひとりのときに急襲して、家賃を回収していたようだ。
 関東大震災ののち、東京郊外の宅地化が急速に進むにつれ、田畑の跡地には勤め人向けの借家が数多く建てられているが、家賃をめぐる大家と店子との“攻防”は、今日までさまざまなエピソードを残している。以前、松本竣介Click!の「雑記帳」Click!に掲載された、上高田のめずらしい「親切な大家」Click!のことをご紹介している。でも、甲斐仁代と中出三也のふたりは、いつも家賃を払いしぶる、いわば確信犯的な店子だったようだ。

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 奥さんの断髪が伸びると先生は早速鋏を研いで切つてやる。するとこんどは奥さんが返す剃刀で先生のお髭を、数年来お二人は髪床へ行つたことがない。大根でも味噌でも必ず先生が学校(先生は昭和高女の絵の教師)の帰りに買つて来る。月末になると大家さんである虫明氏の未亡人が家賃をとりにやつて来るがお二人この場合は特に念を入れて水も漏れない細いところをやつてみせる、未亡人すつかり面喰つて家賃もそこそこ退散、未亡人、ちかごろはどつちか一人欠けてゐるときでないと決して来なくなつた。けだし未亡人撃退術としては尤(もっとも)なるものだが、これはチト現代の道徳上欠けるものである。
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 でも、家賃を払えないほどの小さな貧乏所帯にもかかわらず、中出三也はなぜかボクシング用のエキスパンダーを購入して、強盗が押し入ったときの撃退法を練習していたらしい。ドロボーClick!のほうも、あらかじめおカネのありそうな家を物色し、まかりまちがっても見るからに貧乏そうな画家の家はターゲットから外すと思うのだが、ふたりは大マジメで心配していたようだ。
 ちなみに、下落合の画家でドロボーにやられたのは、曾宮一念Click!の2回がもっとも多いだろうか。一度めは目白通りの北側、下落合544番地の借家Click!に住んでいたときで、家具もほとんどない部屋から盗られたものはなく、二度めは下落合623番地にに建てたアトリエで、渡仏する佐伯祐三Click!からもらった黒いニワトリ7羽Click!が、すべて佐伯が建てた鶏舎から盗まれている。
 実際、当時はドロボー事件が多かったらしく、特に華族やおカネ持ちの大邸宅、目白文化村の大きな西洋館などがターゲットにされ、頻繁に被害Click!をうけていた。
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 ところが最近、この辺は大へん物騒でことに先生の家は田圃の一軒家だから強盗などに襲はれたときの用意に先生はエキスパンダーなんか買つて盛(さかん)に拳闘の練習をはじめた。奥さんもまたそんな場合先生だけに委せて置いては夫婦の道にはづれるとあつて毎朝お二人おそろひでラヂオ体操に調子を合はせて「オいちにオいちに」とやつてゐる。「泥棒もこれを知つてゐると見えてやつて来ませんよ」なんて威張つてゐるがおそらく泥棒と名のつくものなら決して先生のお宅へなんか眼をつける道理はない。それよりも窓からのぞく怪しき漢(おとこ)の用意にカーテンでも買つた方がためになる。
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 家で大きな物音がしたため、ドロボーないしは強盗への対応は若い奥さんや妹にまかせ、自分はさっさと庭へのドアから外へ逃げ出そうとした画家に、下落合753番地に住んでいた中村彝Click!の師匠である満谷国四郎Click!がいる。あとから宇女夫人Click!にこっぴどく叱られたようなのだが、満谷邸ほどの大きなお屋敷であれば、ドロボーが目をつけても不思議ではないのだが…。

◆写真上:妙正寺川の北原橋から眺めた、旧・野方町の上高田422番地界隈。昭和初期に行われた妙正寺川の整流化工事で、同地番の敷地はやや東へ広くなっているようだ。
◆写真中上:勤務先の上高田にあった昭和高等女学校で撮影された、中出三也(左)と甲斐仁代(右)。ふたりそろった写真は、案外資料にも少なくてめずらしい。
◆写真中下:1932年(昭和7)9月15日発行の、読売新聞に掲載された記事全文。
◆写真下:左は、1930年(昭和5)の1/10,000地形図にみる上高田422番地。妙正寺川の対岸には大正末まで灌漑池が存在しており、織田一磨Click!がその風景を作品を描いていると思われる。右は、1919年(大正8)の第6回二科展に出品された虫明柏太『風景』。