かなり前に、佐伯祐三Click!と米子夫人Click!を主人公にしたNHKドラマ、中島丈博脚本の『襤褸と宝石』Click!(1980年9月8日放送)をご紹介した。現時点から見れば、佐伯祐三をめぐる物語の設定や展開にやや古さを感じさせるシナリオなのだが、作者がなぜ『襤褸と宝石』というタイトルをつけたのかが、いまだ釈然としない。襤褸(らんろう)=ボロの意味だが、いつもボロボロで汚らしい格好をしていた佐伯が、いざタブローを手がけると宝石のように美しい作品を産みだした…という意味合いなのだろうか。
 『襤褸と宝石』といえば、加藤道夫がシナリオを書き千田是也Click!が演出した、おそらく俳優座の舞台のほうが演劇界では広く知られているだろう。1952年(昭和27)の同作は、主人公の片桐民夫役を高橋昌也が初演した舞台としても有名で、ヒロインの澤本百合子役は知らないが御舟京子(滝浪治子)だったものだろうか。物語は、大川(隅田川)沿いのキャバレーやストリップ小屋、ダンスホール、小劇場が軒を並べる歓楽街と、川を挟んだ対岸にある「バタ屋部落」が舞台として描かれている。歓楽街の経営者が、対岸の「バタ屋部落」の土地を利用して、さらに大きな歓楽街を建設しようともくろむことから、部落に棲みついた人々との間で対立が先鋭化していく…という筋立てだ。
 「バタ屋」といっても、いまの若い子にはピンとこないかもしれないが、街中のゴミやクズを拾い集めては転売してわずかなカネを稼いだり、飲食店から出る残飯を集めては飢えをしのいでいた人々のことで、戦争で焼け野原になった1952年(昭和27)の東京には、生活再建のめどが立たない人たちが、戦後7年たったとはいえいまだ大勢いた。片桐民夫(高橋昌也)は、歓楽街の拡張による強制立ち退きに反対している、そんな「バタ屋部落」に棲みついた少し学のある部落代表であり、歓楽街でキャバレーの踊り子をしている空襲で記憶喪失の澤本百合子は、片桐民夫が忘れられない昔の恋人だった…という設定だ。
 戦争の惨禍を色濃くひきずったストーリーなのだが、「バタ屋部落」の住人である片桐民夫と、パトロンの会社社長から宝石を贈られて着飾ったダンサーの澤本百合子との対比が、そのまま『襤褸と宝石』というタイトルへストレートに反映しているのは容易に理解できる。片桐の出現で、百合子は記憶を取りもどしかけるのだが、最後には社長が雇った暴力団員に片桐が刺殺されてしまい、百合子は混乱の中で再び記憶を喪っていく…という悲劇的な終幕を迎える。戦後の混乱期、カネがすべての退嬰的で刹那的、即物的なモノの考え方が幅をきかせ、忘れてはならない人間にとっての普遍的な価値や思想、感覚などが殺されていく…ともとれる、加藤道夫のメタファーなのだろう。

 
 ちなみに、『襤褸と宝石』というタイトルは、1936年(昭和11)に米国で製作された映画の邦題でもあるのだが、加藤道夫はおそらく同作を映画館で観て記憶に残っていたのだろう。この映画も、富豪の娘と浮浪者の男が織りなす物語であり、こちらは悲劇ではなくパロディ的な喜劇だ。題名と、展開するストーリーにも乖離感はない。
 さて、佐伯夫妻を描いた中島丈博の『襤褸と宝石』だが、シナリオを何度か読み返してみても、また1980年(昭和55)に発行された『ドラマ』10月号(映人社)に掲載された、中島本人の文章を読みなおしてみても、ついにタイトルの意味を理解することができなかった。考えられるとすれば、『襤褸と宝石』という題名の響きや表現自体を中島が忘れがたく気に入っており、いつか自身の作品へ使ってやろう…と考えていたのではないかということだ。あるいは、若くして死んだ加藤道夫に対する、中島のオマージュタイトルなのかもしれない。中島が意識していたのは、戦前の米国映画につけられた邦題ではなく、もちろん同じ脚本家である加藤道夫が書いたシナリオ『襤褸と宝石』のほうだろう。
 加藤道夫一家が、世田谷区若林町の北原白秋Click!がいた西洋館に転居して住んでいたのは知られているが、慶應大学に進むころから演劇に興味をもち、芥川比呂志や岸田国士Click!、中村眞一郎、堀田善衛、西脇順三郎らと知り合っている。1944年(昭和19)に代表作『なよたけ』(かぐや姫)を脱稿した直後に、フィリピンから東部ニューギニアへと陸軍省通訳官として徴用され、マラリアと栄養失調で死に直面することになる。戦後は、しばらく連合軍の通訳を現地でつとめたあと、1946年(昭和21)の夏に復員している。
 
 帰国後の活躍はめざましく、シナリオ作品や演劇論文、演劇評、戯曲翻訳などを次々と発表している。『襤褸と宝石』は、1952年(昭和27)10月に文部省芸術祭委嘱作品として創作され、同年に俳優座の高橋昌也らにより三越劇場で初演された。また、加藤道夫は帰国早々に、林達夫が主宰する鵠沼アカデミー(湘南アカデミー)へと参加し、芥川比呂志や御舟京子(滝浪治子)らとともにチェーホフの『熊』Click!を上演している。御舟京子とは戦前から知り合っていたらしく、加藤はこのあと彼女と結婚している。
 御舟京子(結婚してから加藤治子)は、そのときの様子を1992年(平成4)に出版された久世光彦聞き書きの『ひとりのおんな』(福武書店)で、次のように語っている。
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 私達はこうしてまた会えた。ほら、手をのばせばそこに本当にいる。戦争は終わった。これから私達は芝居をやって生きてゆける。そう思うと嬉しくて嬉しくて誰にお礼を言っていいかわからなくて、私、月の光の中を、波打ち際を何か叫びながらどこまでも走りました。もうそうするしかなかったんです。
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 だが、『襤褸と宝石』と同様に悲劇は突然やってきた。1953年(昭和28)12月22日、加藤治子が文学座の観劇から夜10時すぎに帰宅すると、自宅には電気が点いていたが呼んでも返事はなかった。ドアは中からカギがかけられており、髪からピンどめを外して鍵穴に挿し入れると、キーが部屋の内側へ落ちる音がした。窓からのぞくと、加藤道夫が本箱に寄りかかって座っているのが見えたので、「なんだ、いるんじゃない」と大声で呼んだが返事がない。このとき、加藤道夫は本箱の上に寝巻のひもを結んで縊死していたのだ。遺書は、治子夫人と芥川比呂志に残されていたが、彼女は怖しくて遺書を読んではいない。
 
 加藤治子は5年後、1958年(昭和33)に『襤褸と宝石』で主役・片桐民夫を演じて演劇デビューをした高橋昌也と再婚している。はたして、中島丈博は加藤道夫の『襤褸と宝石』というシナリオそのものではなく加藤道夫・治子夫妻の、さらには加藤治子のその後の人生を重ね合わせて、佐伯祐三そして米子夫人をイメージしていったものだろうか。

◆写真上:1980年(昭和55)9月8日にNHK総合で放送された、中島丈博『襤褸と宝石』のワンシーン。佐伯祐三役は根津甚八で、米子役は三田佳子だった。わたしの知りえた佐伯夫妻の感触の限りだが、根津甚八の佐伯は明らかにイメージがちがいすぎるミスキャストであり、三田佳子もかなり実像とは印象が異なるのではないか。
◆写真中上:上は、1952年(昭和27)に俳優座によって初演された加藤道夫『襤褸と宝石』(三越劇場)。下左は、1951年(昭和26)に尾上菊五郎劇団による加藤道夫『なよたけ』(新橋演舞場)、下右は、加藤道夫のポートレートとサイン。
◆写真中下:左は、自死する半年前の1953年(昭和28)6月に河出書房から出版された新文学全集『加藤道夫集』。右は、1980年(昭和55)に発行された「ドラマ」10月号で中島丈博『襤褸と宝石』が収録され制作趣意が掲載されている。
◆写真下:左は、加藤道夫と御舟京子(滝浪治子)。右は、現在の加藤治子。