画材店の竹見屋から独立した3代目・浅尾金四郎(丁策)Click!は、上野桜木町の東京美術学校の門前に浅尾沸雲堂を設立している。父親は、絵筆をつくる専門職人だったが、浅尾丁策(ていさく)の代で本格的な総合画材店を開業することになった。1923年(大正12)9月の関東大震災Click!直後のことで、沸雲堂はいまも健在で営業をつづけている。
 沸雲堂は、本業の絵筆はもちろん絵具や溶き油、額縁、額用ネームプレート、キャンバス、木枠、用紙、パレット、イーゼルなどほぼすべての画道具を扱っていたほか、一時期はモデルの紹介所もかねていたようだ。東京美術学校の藤島武二Click!や岡田三郎助Click!をはじめ、近くにあった太平洋画研究所Click!の満谷国四郎Click!など、数多くの画家たちが立ち寄る店であり、また注文した画材を画家のアトリエまでとどける、東京市内の主要画材店のひとつになった。やがて、大正期の画材店として有名だった神田の文房堂と竹見屋、丸善神田店の3店と並ぶ店までに成長していく。もともと、上野から谷中Click!にかけては、明治期より画家たちが数多く住んでいたので、当時の主だった多くの画家たちが同店の顧客になっている。また、当時は絵を描く文学者も多く、川端康成やサトウハチローも同店の常連だった。
 昭和初期に沸雲堂の目印として、看板代わりに幅60cm×長さ370cmの赤い布を2階の窓から下げた。風のある日は、吹き流しのように翻り遠くからでも視認することができた。ところが、さっそく近くの警察署から刑事がやってきて、「赤旗はいかん、すぐ外せ」とその場で取り外しを命じられた。このあと、浅尾丁策は再び朱塗りの馬蹄磁石型の看板をつくって下げたが、これも警察から嫌がらせのクレームをつけられ外させられている。


 取り扱っていた絵具は、イギリスのニュートン社やフランスのルフラン社、ドルアン社などの製品はもちろん、のちに文房堂の廉価な国産絵具も扱うようになった。当時の絵具の価格を見ると、1930年協会の里見勝蔵Click!や佐伯祐三Click!が好きだったバーミリオン3種が、セルリアンブルーとともに飛びぬけて高価だったことがわかる。これらの画材は、近くにアトリエをかまえる画家なら店へ買いに立ち寄れるが、遠くに住む画家には画材の配送もしていた。浅尾丁策は、受注した画材を郵送するのではなく、できるだけ自身で画家のアトリエまでとどけるようにしていた。それは画家への“営業”の意味合いもあるのだろうが、訪問するとたいがいアトリエに招じ入れられるので、その仕事ぶりを見るのが好きだったようだ。そして、画家との会話から新しい製品を開発するヒントや、美術市場のニーズを吸収・把握していたらしい。
 上野や谷中界隈に住んだ画家たちが、大正期から次々と山手線の反対側である落合地域へアトリエをかまえはじめ、1930年(昭和5)をすぎるころから池袋の西側、長崎地域にアトリエ村を形成するようになると、配達も東京西部へ出かける機会が多くなる。昭和初期に西落合1丁目293番地(現・西落合3丁目)へアトリエをかまえた、松下春雄Click!と鬼頭鍋三郎Click!も、沸雲堂へ画材を注文する得意先だった。当初は、松下春雄が同店に注文していたが、のちに松下の紹介で同じ地番にアトリエをかまえた鬼頭鍋三郎も顧客になっている。当時の様子を、1986年(昭和61)に芸術新聞社から出版された、浅尾丁策『谷中人物叢話・金四郎三代記』から引用してみよう。
 

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 東長崎駅前の細い道を真直ぐ小川のある通りへ出る向側の小児牛乳の横をしばらく行くと右手に水道タンクが見える手前に松下春雄さんのアトリエがあった。松下さんは太田三郎先生の御紹介で画材や額縁のことでずいぶん御愛顧を頂いた。いいお仕事をしておられたが惜しいことに白血病にて夭折された。遺作展の際記念に一点求めた。それは房州風景で0号二枚つづきの海景であった。友人が家を新築したが飾る絵がないので何か貸してくれないかと云われ、この作品をお貸ししたが、そのまま判らなくなってしまった。戦後、古美術店で松下さんの五号油絵風景画を見付け買い求め大切に保管してある。/松下さんと同じ名古屋の鬼頭鍋三郎さんが松下さんの隣りへアトリエを建てお仕事をするようになり、紹介して頂いてからズッと御贔屓にして頂いた。(此の家には現在、村岡平蔵さんが住んで居られる)
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 文中の「小川」とは、十三間道路(現・目白通り)の路端を流れていた千川上水の落合分水Click!であり、「水道タンク」とは和田山Click!(井上哲学堂Click!)の北側にある野方水道タンクClick!のことだ。早逝した松下春雄とは死去するまで、鬼頭鍋三郎とはその後もずっと親しいつき合いをつづけたようで、戦後、鬼頭は傷んだ作品の修繕も浅尾沸雲堂へ依頼している。
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 今から十数年前の事、先生(鬼頭鍋三郎)からの御依頼で作品――名古屋公会堂にある『手をかざす女』<第十五回帝展特選>――が大分いたんで居るから修理してくれとの事、久し振りにてなつかしい作品に御目にかかった。/埃をはらって見ると枠の裏に薄くなってはいたが、K・F・ASAOのゴム印がハッキリと認められ一層なつかしかった。キャンバスはブランシェ十一番であった。(カッコ内引用者註)
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 東京美術学校(現・東京藝術大学)へ出かけた際、さっそく上野桜木町の沸雲堂を訪ねてみた。浅尾丁策のもうひとつの著作『昭和の若き芸術家たち―続金四郎三代記〈戦後篇〉』が欲しかったからなのだが、店頭で訊くと隣接する工房を教えてくれた。工房のドアを開けると、手を黒漆で真っ黒にした浅尾丁策によく似たおじいちゃんが、入念な手つきで額づくりに集中している最中だった。あえて訊ねはしなかったが、おそらく4代目・浅尾金四郎だろう。来意を告げると、おじいちゃんはみるみる破顔して奥から先代の本を出してきてくれ、ついでに値段を負けてくれた。わざわざ沸雲堂を訪ねて、先代の本を買いにきてくれた若造が、仕事の集中を邪魔されたとはいえかなり嬉しかったようだ。

◆写真上:東京美術学校(現・東京藝大)前で、変わらずに営業をつづける浅尾沸雲堂。
◆写真中上:上は、昭和初期の仏ルフラン社製の油絵具カタログ。1円以下の絵具が多い中で、セルリアンブルーとバーミリオン3種が飛びぬけて高価だ。下は、沸雲堂が制作したオリジナルの額縁用ネームプレートで「靉光」のもの。
◆写真中下:上左は、沸雲堂が開店した当時の東京美術学校。上右・下は、現在も残るレンガ造りの校舎で1970年代後半は体育場としても使われていたようだ。
◆写真下:上左は、西落合の松下邸で庭の手入れをする1932年(昭和7)9月21日に撮影された松下春雄(左)と鬼頭鍋三郎(右)。上右は、旧・西落合1丁目293番地の松下春雄アトリエ(左)と鬼頭鍋三郎アトリエ(右)。下左は、1986年(昭和61)出版の浅尾丁策『谷中人物叢話・金四郎三代記』(芸術新聞社)。下右は、著者の浅尾丁策。