またしても、1926年(大正15)ごろに制作された『堂(絵馬堂)』Click!がテーマなのだ。佐伯祐三Click!がこの風景を描いたのと同じ時期に、大正末から昭和初期にかけて存在していたと思われる寺院の堂を求めて下落合、上落合、葛ヶ谷(西落合)はもちろん、長崎地域や野方・上高田・新井地域、柏木地域(東中野)地域、戸塚地域を訪ねてみたが、この堂があった寺院をいまだ発見できていない。唯一、大正期から戦前まで堂の姿が写真で確認できないままの、佐伯が『下落合風景』シリーズClick!の「洗濯物のある風景」Click!を描く背後に建っていた桜ヶ池の不動堂を除き、この堂が落合地域とその周辺域にあった可能性は低くなっている。
 ただし、わたしは『下落合風景』シリーズの描画ポイントにもとづく佐伯の足跡を軸に、『堂(絵馬堂)』を落合地域の西部、落合地域の北(長崎町)・西(野方町・中野町)・南側(淀橋町)を中心に調べてきたが、落合地域の東はまだ手つかずのままだ。『下落合風景』を見ても、佐伯は下落合東部の山手線沿いを除いてほとんど描いておらず、それは佐伯自身の郊外風景に対する画因選び(モチーフ探し)に起因していると思われる。いかにも郊外の新興住宅地を思わせる、工事中あるいは工事直後の道路や、宅地造成が済んだばかりで真新しい縁石に赤土がむき出しの分譲地、もうすぐ畑地を売って農業をやめてしまいそうな鄙びた近郊農家などを好んで描く佐伯は、山手線の内側で明治期から拓けていた街の風景を描くとは想定しにくいからだ。
 しかし、雑司ヶ谷大原の踏み切りを描いた『踏切』Click!や、下落合と高田町とをつなぐ雑司ヶ谷道Click!(新井薬師道)に架かった山手線の『下落合風景(ガード)』Click!など、雑司ヶ谷や学習院下Click!へと抜けられる位置にイーゼルを立てていたのも事実だ。したがって、そこからフラフラと雑司ヶ谷(現・南池袋)や高田・目白台へと抜けていかないとも限らない。特に『踏切』の奥に見える武蔵野鉄道ガードClick!の向こうには、佐伯アトリエの隣りに1927年(昭和2)ごろ大きな邸を建設した納家Click!が経営する、毛糸を製造していた「曙工場」Click!が建っていた。そして、山手線の踏み切りやガードの向こう側には、下落合の西側と同様に寺町が形成されている。時間があれば、今度は下落合の東側の寺々を確認しにまわってみたい。

 
 さて、もうひとつ確認しておかなければならない課題があった。それは、戦前まで薬王院に太子堂が存在していたことだ。太子堂は本堂(現・僧坊)の西側にあり、当時の鐘楼に近接して建立されていて、現・駐車場の一画にあたる位置だ。佐伯祐三は、曾宮アトリエClick!のある諏訪谷Click!から南へと写生ルートをたどり、薬王院の旧墓地のコンクリート塀を「墓のある風景」Click!に描いたあと、さらに南へと下って新宿を遠望できる崖から、丘の斜面中腹に建っていた巨大な池田邸Click!の鯱がのる赤い屋根を見下ろしながら描いている。したがって、薬王院の境内に入りこみ、その堂を描かなかった……とは決して言い切れないからだ。
 灯台下暗しで、さんざん探しまわった『堂(絵馬堂)』が結局、薬王院の太子堂だったりしたら、ほとんど笑い話の世界になってしまう。でも、わたしはこの作品について2005年(平成17)当時、真っ先に薬王院の僧坊を訪ねている。しかし、「わかりません」というお答えだったので、その後詳しくは調べていなかったのだが、少々気になりだしたので念のために“ウラ取り”をしてみることにした。当事者である薬王院には取材したはずなのだが、現在の住職は戦後の就任であって、戦前の寺内の様子はまったくご存じないとのこと。それでは、実際に薬王院の太子堂をご覧になっている、地元住民の方々に取材したほうが確実だと判断した。太子堂は、1945年(昭和20)5月25日夜半の第2次山手空襲Click!で、鐘楼とともに全焼している。
 2013年(平成25)に発行された地元資料『私たちの下落合』(落合の昔を語る集い・編)には、薬王院の太子堂と鐘楼が1945年(昭和20)5月の空襲で焼ける様子を記録した、高田俊夫氏の想い出が掲載されている。
 
 
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 薬王院が戦災に遭って太子堂と鐘楼が焼失したのは昭和二十年五月のことでした。現在の山門に向かって左手奥の駐車場の場所に、当時太子堂と鐘楼が建っていました。太子堂は屋根がかやぶきで、空襲のため大火災となった戸塚のほうから飛んでくる火の粉のため、このかやぶき屋根に火がつきました。/お寺の人や近所の人たちが何人か集まって、現在の墓地に行く階段の下あたりにあった湧水で消火活動をしていました。当時中学生だった私も屋根に登って消火に当たりましたが、だんだん水がなくなってきて、ついに太子堂と鐘楼は焼けてしまいました。/私は濡れたかやぶき屋根から滑り落ちたりしましたが、幸い怪我はせずにすみ、消火活動に当たった人の中からも誰も怪我人は出ませんでした。(「薬王院太子堂・鐘楼の戦災焼失」より)
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 太子堂の屋根が瓦葺きや檜皮葺きではなく、いまだ茅葺きだったことがわかる。佐伯の『堂(絵馬堂)』の屋根は、その形状といいボリューム・質感といい茅葺きには見えない。念のため堀尾慶治様Click!にも確認してみたところ、「茅葺きには見えない、ちがうね」というご意見だった。
 ちなみに、この作品は長い間「絵馬堂」というタイトルで呼称されているけれど、もちろん佐伯祐三自身が付与した画題ではなく、後世に誰かがタイトルをあと追いでつけたものだろう。画面をよく観察すると、堂の前面に架けられているのは、絵馬とは異なるものが多いように見えることは、いつかすでに記事Click!へ書いたとおりだ。あと追いのタイトルに引きずられ、絵馬を奉納する「絵馬堂」を想定してモチーフとなった堂建築を捜索すると、実は大きなまちがいを犯しそうなのだ。
 
 いままで、あえて“堂探し”をしてこなかった下落合の東側には、はたして90年前のどのような風景が眠っているものだろう。わたしは、下落合に建てられた納邸Click!の存在とともに「曙工場」が建っていた周辺域、すなわち『踏切』のガード向こうの雑司ヶ谷が、いま、とても気になるのだが……。

◆写真上:鐘楼があった位置から、戦災で焼けた薬王院の太子堂跡あたりを望む。
◆写真中上:上は、1938年(昭和13)に作成された「火保図」にみる薬王院の太子堂と鐘楼。下は、1936年(昭和11/左)と1947年(昭和22/右)に撮影された空中写真にみる薬王院の太子堂(跡)と鐘楼(跡)。
◆写真中下:上左は、クルマが停車しているあたりに太子堂が建っていた。上右は、消火に用いた湧水源があったあたり。下は、いまでは僧坊として使われている旧本堂。
◆写真下:左は、1926年(大正15)ごろ制作の佐伯祐三『堂(絵馬堂)』。右は、1983年に撮影された武蔵野鉄道(現・西武池袋線)の雑司ヶ谷大原ガード。(撮影:lot49sndさん)