佐伯米子Click!は、その生涯をほとんど和装ですごしているが、それは佐伯祐三Click!との二度にわたる滞仏生活でも頑固に変わらなかった。そのため、当時のフランスでは見馴れない着物姿の佐伯米子は、さまざまな嫌がらせを受けたようだ。特に、パリの街中を走りまわるワルガキたちは、手を変え品を変えて和装の彼女をからかったり、イタズラをしたらしい。
 さて、きょうは佐伯米子の着ていた着物がテーマだ。いまや、「キモノ」は世界じゅうで知られるようになり、和装で世界の街角を歩いていても注目されはするだろうが、からかわれたりイタズラをされたりすることはほとんどないだろう。特に欧米では、それが非常に高価な衣装であることが知られているので、かえって周囲が気をつかい、汚れがつかないよう注意してくれるのかもしれない。だが、佐伯夫妻が渡欧した当時は、まったく事情がちがっていた。
 1980年(昭和55)9月7日に発行された読売新聞に、翌9月8日に放映されるNHKドラマ『襤褸と宝石』Click!(中島丈博Click!・脚本)で佐伯米子を演じる、三田佳子のインタビュー記事が掲載されている。その中で、佐伯米子が滞仏中に着ていた着物についてふれた箇所がある。同記事のインタビューから、三田の言葉を引用してみよう。
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 パリのロケでは、ゴッホが住んだ宿、祐三が暮らしたモンマルトルのアパートと、いろいろ回りました。アパートはまだ残ってまして、人が住んでいるのを一時借り、壁紙なんか張り替えて佐伯夫妻の家として使ったんです。木造の四階、屋根裏部屋のようなところで、窓の外には屋根が並んでいてね。米子さんが着た着物を遺族の方が貸して下さったので、そのまま私が着ました。遺族の方に似ていると言われると、私なりに自信が持てて(中略) 米子さんという人は大変に新しい女性だったと思うの。祐三と一緒にパリに渡ったのが大正十二年。あの当時に、私は日本の女だ、と自信を持って着物しか着なかった。それでいて、頭にはヒモのハチ巻きをしたりするおしゃれな人だった。
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 『襤褸と宝石』を観ると、1980年の当時、解体前の佐伯邸母屋Click!やアトリエClick!の中で撮影が行われているのが、わたしとしてはかけがえのない貴重な情景であり資料だと感じるのだが、フランスのロケでも実際に佐伯夫妻のいた“現場”が、そのまま使われているのがわかる。余談だけれど、『襤褸と宝石』で撮影されたアトリエ内部にはいくつかの陳列ケースが置かれ、佐伯家の表札や佐伯のライフマスクClick!が展示されていたのがわかる。これらの展示品は現在、新宿歴史博物館に収蔵されている。
 さて、おそらく米子夫人の実家で保存され、三田佳子が『襤褸と宝石』の中で着ていた着物は、どの時代のものだろうか?……と、残された佐伯米子の写真類から探してみることにした。ドラマの中で、渡仏してからの三田佳子が多く着ていたのは、“やたら縞”とも“かつお縞”ともれる、鮮やかな縞柄の着物だ。ただ、着物好きな米子夫人のことだから、別に佐伯祐三とともに渡仏した時期に限らず、戦前戦後を通じてたくさんの着物を購入し、所有していただろう。だから、ちょうど渡仏した時期に確認できる着物の柄とは限らないが、和服は早々に棄てられないことを考えれば、ひょっとして……という期待感もあった。
 そして、着物姿の米子夫人の写真をあれこれ調べてみると、フランスロケで米子夫人役の三田佳子が着ている縞柄の着物は、米子夫人が1924年(大正13)9月にモレーを散策した際、独特なヘアバンド姿とともに着ていた着物とよく似ていることがわかる。“やたら縞”とも“かつお縞”ともつかない独特の縞柄で、おそらくのちに若干の仕立て直しが行われているのだろう、大正期の米子写真と三田佳子が着用している写真とでは、襟元に見える縞柄の位置がいくらか異なっている。米子夫人は縞柄が好みだったらしく、フランス各地で撮影された写真には、何種かの道行きとともに多彩な縞柄の着物がとらえられている。
 
 
 着物姿の佐伯米子はふだん、おそらく尾張町(現・銀座)の大店(おおだな)あたりでつかわれていた、江戸期の商人言葉をベースにした、上品な(城)下町言葉Click!を話していたと思うのだが、知人ではなく初対面の人物と話すときには、どうやら別の言葉をつかっていたらしい。おそらく、身がまえて緊張しながら話すときには、何人かの証言にもあるように独特な“つくり声”で、意識的に下町言葉を消していたのではないかと思われるのだ。そのあたりの様子を、第2次渡仏で常に佐伯夫妻といっしょだった荻須高徳の証言を聞いてみたい。1988年(昭和63)に発行された『美術の窓』3月号に掲載の、荻須高徳「佐伯さんの思い出」から引用してみよう。
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 さきにいったとおり、ゴッホの描いた農民と労働者の生活が大好きで、佐伯さん自身もラシャの労働者服を身につけていました。それは最近のマオ(毛)服に似ていて、首えりはごわごわするけれども、暖かいですからぼくらもならって労働者服を買いました。佐伯さんは政治や思想の話はしなかったけれども、シン底からの左翼びいき、労働者生活の好きな人でした。(中略) 佐伯さんの絵はそのころ日本でもすでにかなり売れていたし、第一、奥さんの米子夫人はブルジョワ娘のいく虎の門女学院(東京女学館)の出身で、お里は象牙を取引する大きい貿易商です。気だてのよい、大変な美人で、ぼくも好きな人でした。ところが佐伯という人はブルジョワ趣味が絶対にきらいで、米子さんが見知らぬ人と話すとき、ついお上品な言葉づかいがでてしまうと「オンちゃん、それはきざだよ」と苦情をいうのです。(中略) 日本人好みの、いわゆるフランス風のおしゃれと気どり、そんなものに対しては(佐伯は)それは毛ぎらいをしていました。(カッコ内引用者註)
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 「お上品な言葉づかい」とは、どのようなしゃべり言葉だったのだろう? 佐伯は大阪、荻須は愛知なので、江戸東京方言を微妙に聞き分けられたとは思えないのだが、彼らが違和感をおぼえるほどの「お上品な言葉づかい」とは、文中にある東京女学館の女学校言葉、あるいは下落合に住むようになってから郷に入っては……と急いでマスターし、彼女が意識的につかうようにしていた新旧・乃手Click!あたりのしゃべり言葉だったものだろうか。このあたりの違和感は、やはり尾張町(銀座)出身の岸田劉生Click!が、乃手から彼がデザインした帯や作品を次々に買いにくる奥様方Click!に感じていた、「きざ」っぽさに通じるような感触をおぼえるのだ。劉生は気にさわると、乃手の客へ「雲虎」柄の帯をデザインしてはウサ晴らしをしていたらしい。
 わたしは出自のせいからか、(城)下町の商人言葉をベースとしたしゃべり言葉のほうが、品がよくて優しいと感じるのだが、乃手人からみれば優しいのではなく礼節が足りない……と映るのかもしれない。換言すれば、下町言葉がやわらかいのに対し、乃手言葉はかたくて無骨、ときにていねいを通りこして「きざ」と感じられる側面もありそうだ。下町言葉を話す武家は、山手や下町を問わず旗本や御家人を中心にごまんと存在したが、乃手弁を話す町人はほとんど皆無だったろう。おそらく、本来の佐伯米子のしゃべり言葉は、尾張町界隈で話されていた下町言葉が“母語”だったと思うのだが、「お上品な言葉づかい」はどうやらそれとは異なるように思える。
 

 さて、下落合の散歩の途中で夫婦喧嘩をしたものの、そこいらの駄菓子屋で売っているアメ玉ですぐに機嫌がなおる、佐伯祐三のめずらしい姿をとらえた記録が残っている。証言しているのは、佐伯米子の姪にあたる銀座の実家にいた池田伸という人で、佐伯がフランスで死去したのち、下落合661番地で米子夫人が死去するまで生涯をいっしょに暮していたという人物だ。1988年(昭和63)発行の『美術の窓』3月号所収の、池田伸「妹と姪が語る“素顔”の米子」から引用してみよう。
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 大正10年、まだ佐伯さんとの間に子供が生れていない頃、私は秀丸おじさん(佐伯の幼名)に可愛がられて、よく下落合のアトリエに遊びに行きました。/当時印象に残っていることは、秀丸おじさんと米子叔母と私とで、夕暮れに茜色に染まる田園風景の中で散歩をしている時、ふとした瞬間に秀丸おじさんは不機嫌になり、叔母との間の雰囲気がちょっと気まずくなったことがあるのです。/何も言わずに先を歩く秀丸おじさんに、叔母はとても気を使っていました。しばらくして、秀丸おじさんは駄菓子屋で黒飴を買うと、私にも袋に入った黒飴をくれて、歩きながら飴をなめているうちに機嫌が直りました。
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 1921年(大正10)現在の下落合地域で、黒アメを売っていた佐伯の散歩コースにある駄菓子屋は、いったいどこにあったのか?……なんてことを調べはじめると、また何ヶ月も何年もかかかってしまいそうなので、よほど時間に余裕があってうんとヒマなときの、それはまた、別の物語……。
 
 佐伯米子が下落合で死去するのは、1972年(昭和47)11月なのだが、わたしはそのわずか1年5ヶ月後に、初めて下落合へ足を踏み入れている。もちろん、下落合を徘徊する途中で母屋つきの佐伯アトリエも目にしているのだが、当然、中には入れなかった。米子夫人には、訊きたいことがゴマンとたまっているのだが(とりあえず駄菓子屋と贔屓の魚屋Click!の場所w)、おそらく初対面のときは「お上品な言葉づかい」で拒絶されるかもしれないけれど、日枝権現(銀座)と神田明神(日本橋)とで氏神は異なるが、ご近所同士の下町言葉を織りこんで、何度かインタビューをつづけるうちに、朝日晃とはまたちがった感触でいろいろと教えてくれたのかもしれない。それを思うと、ちょっと残念な気がする。ちなみに、『襤褸と宝石』では美術評論家・朝日晃の役を角野卓造が演じていた。

◆写真上:佐伯祐三と池田米子が初めて出逢ったと思われる、本郷区向ヶ丘弥生町3番地(区画整理前に一部は旧・本郷元富士町)の「ほ-8号」に建っていた大谷作邸跡の現状。
◆写真中上:上左は、1980年(昭和55)9月7日の読売新聞。上右・下左は、ドラマ『襤褸と宝石』のフランスロケで三田佳子が着ていた佐伯米子の着物。下右は、1924年(大正13)9月にモレーを散策した際に撮影された佐伯米子で縞柄がよく似ている。
◆写真中下:上は、1924年(大正13)5月にクラマール(左)で、1925年(大正14)7月にアルル(右)で撮られた米子夫人。いずれも異なる縞柄の着物を着ておりフランスには縞柄ばかりを持参したものか。下は、晩年に下落合のアトリエで撮影された制作中の佐伯米子。
◆写真下:左は、1963年(昭和38)に制作された佐伯米子『野の花』。右は、1967年(昭和42)制作の同『かのこゆり』。いずれも、二紀会の17回展と22回展に出品された。