下落合406番地にある学習院昭和寮Click!(現・日立目白クラブClick!)が、近衛町Click!南端のバッケの丘上にあたる帝室林野局敷地跡に建設されたのは、1928年(昭和3)のことだ。翌1929年(昭和4)の8月あたりだろうか、前年の入寮時から同年4月までの寮内活動や寮生たちの手記を集めた、年に2回刊行される寮誌「昭和」が創刊された。
 以前にご紹介した、目白中学校Click!の校内誌「桂蔭」Click!が生徒たちの文集に近く、紙質や装丁もそれなりに粗末で簡易だったのに比べ、寮誌「昭和」は良質な用紙に高品質な装丁と印刷でつくられた、200ページを超える本格的な雑誌仕様になっている。わたしが手に入れたのは、1932年(昭和7)の4月から10月までの寮内の活動記録や寮生たちのエッセイ・小説・詩歌などを収録した、1933年(昭和8)年2月発行の「昭和」第8号だが、80年後の今日でも状態がそれほど劣化しておらず、手軽に読むことができる。
 学習院昭和寮は、おもに学習院中等科を卒業した高等科の学生たち(17歳から20歳まで)を集めた寮だが、同誌を読むと1932年(昭和7)から翌年にかけては、文科と理科の学生がちょうど半々ぐらいの割りあいだったようだ。昭和寮には、別に地方から東京へとやってきた学生ばかりでなく、東京に自宅のある学生も昭和寮へ入寮して自室をもっており、また入寮せずに近くの自邸から学習院へ通う高等科の学生もいたらしい。
 いずれも裕福な家庭の子息が多く、昭和寮の自室に加え、東京市内にある自邸の勉強部屋、軽井沢の別荘にある勉強部屋と、自室が3つもある学生もめずらしくなく、夏休みなどはその3ヶ所を転々としながらすごす様子が記録されている。また、夏休みなど学校の長期休講を利用して、海外旅行に出る学生もめずらしくなかったらしい。
 学習院昭和寮は、北に面した正門近くに建てられた塔のある本館と、南側に並ぶ4棟の寮とで構成されていて、たとえば4棟のいちばん東側にあたる第一寮を例にとると14室、つまり14人の学生が寝起きしており、寮全体では60人近くの学生たちが暮らしていたことになる。学生たちは、高等科を卒業すると寮を出て大学へ進むことになるのだが、ほとんどの学生が全国の帝大、つまり官制大学へと進学していた。
 昭和寮の生活は、朝の6時30分に起床して洗面したあと、本館の食堂へ集合して朝食をとるところからスタートする。だが、目ざまし時計をかけて寝ても、どうしても起きない学生のもとへは、「女丈夫」で怖い「オバサン」(寮母)がドアをドンドン叩きにやってくる。6時30分から、15分間の猶予はあるようだが、6時45分になっても起きない学生は彼女の洗礼を受けることになった。寮の朝は、「オバサン」のノックからはじまる。それでも起きないと、怖い「舎監先生」が登場してくる。同誌から、Ma Chan-shan(慶光院利彰/第三寮)が書いた『ON EARLY RISING』から引用してみよう。
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 ON EARLY RISING
 楽しい此の昭和寮生活の中で我々の最も苦痛の種となるのは起床ではないでせうか、目覚時計をかけて眠つても朝六時半に鳴り出すと無意識の中に手を伸すのらしいが、何時の間にか鳴り止んで、いつともなしに御丁寧にも夢の続を見るなんて。七時に十五分位前になれば必ずオバサンのKNOCKが聞こえるらしい。何時も反射的に答へはするが、決して自覚はしてゐない、之心理学上の珍現象である。それでも起きずに執拗くねてゐる時にはわざわざ舎監先生の御足労を煩はしてやつとの事正気に帰る始末、何とも御恥しい次第ではある。
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 「昭和」第8号は、たまたま古書店で見つけたので、昭和寮の周辺、つまり下落合の様子が記録されているのではないかと思いさっそく入手した。同誌は、寮生のひとりで「オマル」というあだ名で呼ばれた佐竹義正という学生が、結核のために郷里の熊本で死去したため、冒頭のグラビアや記事は追悼号のような編集になっていた。だが、そのうしろの記事は通常号と変わらないらしく、寮生たちのさまざまな創作が掲載されている。
 同誌では、第三寮にいた宮丹貴夜志というペンネームの清岡元雄『随想随感(たわごと)』の中に、昭和寮周辺の情景が登場している。どこまでが幻覚・幻想で、どこからが現実なのかわかりにくい文章で、被害妄想気味な箇所もある作品なのだが、1932年(昭和7)6月16日の手記から、ちょっと引用してみよう。
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 帰寮の途中、交番の先の大きな木の前で歩き乍ら考へた。/黒い木 蔭に人/左側は木刀を持ち、右側を行けば短刀で斬りつけられる。/僕は初め左を選んだ。僕は死にたくない。打たれても生きて居たかつた。然し少し前で翻然右を選んだ。斬りかゝつて来たら――いや殺されはしない――僕は彼を取つて抑へる。
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 昭和寮へ帰る途中、近衛町の交番前にさしかかったところで、前方の近衛篤麿邸Click!玄関跡にあった馬車廻し(車廻し)に生えている、双子のケヤキClick!から幻想した文章なのだろう。左右のケヤキの陰に、それぞれ木刀と短刀を手にした暴漢がひそんでいるという想定だ。最初に読んだとき、なにかの、たとえば思想的なメタファーかとも考えたのだが、他の文章を読むとそうでもないらしい。
 著者の清岡元雄はこのとき、学習院の文芸部で交友誌「輔仁会雑誌」を編集しているが、左傾した文芸部の学生たちを排除して、「中立」的な立場で同誌を発刊しようとしていたようだ。当時、学習院でも左翼思想に影響された華族の子弟たちが、次々と特高Click!に逮捕され目白警察署へ連行されるような状況だった。特に「輔仁会雑誌」の編集委員を兼ねていた文芸部は、大半の部員たちが検挙されるというような状態だった。


 もうひとつ、清岡元雄『随想随感(たわごと)』には下落合の情景が描かれている。同年7月10日、学期末試験の最終日に徹夜した早朝、第三寮の屋上へ出て下落合の街を見わたした情景だ。
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 学期試験の最後の夜を徹夜して充血した眼に、今朝の朝靄の景色はとりわけて美しかつた。濃い靄に少し遠くは見えない。家々もまだ戸を開かぬ朝の沈黙(シゞマ)に、木立の遠近だけが、しかもはつきり浮んで居た。しつとりと空気が濃い。/寮の屋上から泳ぎ出せさうに
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 当時は、いまだ土の地面が多かったので、気温が低めになると濃い朝もやが立ちこめる夏の日があったのだろう。いまでは、コンクリートやアスファルトに覆われた地面が多いせいか、朝もやが立つ日は数えるほどしかない。もっとも、わたしが起きたときには気温が上がり、すでに消えてしまっているだけなのかもしれないのだが……。
 また、同年10月1日に昭和寮を出て下落合を抜け、おそらくオリエンタル写真工業Click!の第1工場の南にあったプールか、あるいは下落合1147番地にあった落合プールClick!へ出かけようとしたところ、道に迷って中野区の上高田あたりへ出てしまった「大東京」と題する詩もつくっている。
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  大東京
 プールに行く積りで道を間違へて
 丁度散歩か(ママ)出来た
 此処は 中野区
 東京市はまた水の上に浮いた油
 広くて薄い層だ
 その下に武蔵野が
 薄の赤い穂に呼吸してゐる
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 1932年(昭和7)10月1日は、東京市が35区編成Click!となった年であり、ちょうどこの日に「中野区」や「淀橋区」(現・新宿区の一部)が誕生している。10月になってもプールに入りたくなるほど、この年は残暑がつづいたのだろうか。この年の5月、大磯の裏山で慶大生と華族の娘との坂田山心中Click!が発生しており、清岡元雄は「先般新聞の三面記事を写真入で賑した大磯の心中事件の如きも僕は卑怯者の所為と云ひ度い」と批判的だ。


 「昭和」第8号には、ペンネーム騎士夢兒によるSF小説が掲載されているが、その内容がちょっとにわかに信じられない。米海軍の中尉が、日米戦争中に体験した海戦の様子を語るという手法で、フィリピンを占領した日本軍と制海権をめぐり、真珠湾を出撃した米海軍の巡洋艦と駆逐艦が、日本艦隊を求めて魚雷戦を展開する……というようなストーリーなのだ。その様子が、まるでソロモン海戦(1942年)をほうふつとさせるのだが、同作が書かれたのは1932年(昭和7)で10年も前のことだった。第一寮に住んでいたこの学生には、10年後の未来が見えていたものだろうか。でも、それはまた、別の物語……。

◆写真上:1928年(昭和3)に建設された学習院昭和寮(現・日立目白クラブ)。
◆写真中上:上は、「昭和」第8号の表紙(左)の内扉(右)。下は、同誌の目次(左)と奥付(右)。編集発行人の馬場轍は、昭和寮に隣接する下落合306番地の学習院官舎に住んでいた、学習院教授で学生課長だった人物だ。
◆写真中下:上は、昭和寮本館の尖塔へとつづく最後の階段。下は、1933年(昭和8)に低空の飛行機から撮影された昭和寮の全景。
◆写真下:上は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる学習院昭和寮。実際は分離している第二寮棟と第三寮棟が、接続しているように誤って採取されている。下は、本館の2階から北を向いて近衛町方面を眺めたところ。

★土曜日の夜にすっかり酔っぱらって、更新日を1日まちがえてしまったようです。この記事は、17日(月)ではなく16日(日)にアップするはずでした。失礼しました。