吉屋信子Click!は、下落合を散歩するときに犬を連れ歩いていたが、ときには手に入れたカメラも携帯していたようだ。彼女が散歩Click!に持ち歩いていたカメラは、大正期の末に米国コダック社から発売され、さっそく日本へも輸入されているコンパクトカメラ「ベストポケット・コダック」という機種だった。そして、下落合のあちこちを写真に収めては、プリントをしてアルバムに貼っていたようなのだが、それらの写真は戦災で焼けてしまったものか、それともアルバムが行方不明なのか、現在ではほとんど目にすることができない。
 しかし、下落合を撮影した写真の中から、雑誌社へ提供されたものは現存している。冒頭の写真は、1928年(昭和3)の「主婦之友」8月号に掲載された、吉屋信子撮影による「下落合風景」だが、ホルスタインと思われる道端の乳牛を撮影している。そして、牛の背後には、前年に開通したばかりの西武電鉄Click!(現・西武新宿線)の線路がとらえられている。線路沿いに、最初期の西武線に設置された送電鉄塔が写っているのも貴重だが、周辺の風情がかろうじてとらえられているのがめずらしい。
 写真が掲載されたのは、「主婦之友」8月号(7月発売)なので、この情景が撮影されたのは同年の5~6月ごろの散歩だろうか。中央には、近くの牧場あるいは委託を受けた飼育農家の乳牛が、葉桜になったサクラと思われる木につながれている。その向こうには西武線の真新しい線路が見え、線路に沿った三間道路らしい道が左手につづいている。線路を越えた向こう側の右端には、平屋と思われる家の屋根や切妻と、変圧器が載る電力柱Click!が確認できる。その手前に見える棒状のものも、やはり電柱だろうか。線路の奥にも、屋根のようなかたちが連続して見えるので、家並みがありそうだ。同号に吉屋信子が書いた、写真のキャプションから引用してみよう。
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 牛といふ動物は何んとなく好きです。この間散歩のとき愛用の粗末なベストで撮つたのですが、すつかりポーズをくづ(ママ)されて、がつかりしました。
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 下落合2108番地に建っていた、吉屋信子邸Click!の近くにあるこの風景は、いまどうなっているのだろうか? さっそく、場所を特定してみよう。
 まず、1928年(昭和3)現在で、このように住宅がほとんど見られない地域は、五ノ坂寄りにある吉屋邸のさらに西側、すなわち下落合4丁目(現・中井2丁目)の最西部にしか存在しない。また、そのような環境で線路際にほぼ並行した三間道路が設置されている場所も、下落合の西端を除いてほかにはない。すなわち、吉屋信子は自宅を出て南側の斜面にある路地を抜け、五ノ坂へ出たあと一気に坂下の中ノ道Click!(現・中井通り)へと下りている。そして、道路を道なりに西へ歩いていった。
 現在、この道路の突きあたりは佐伯祐三Click!が描く「下落合風景」Click!の1作、「洗濯物のある風景」Click!に描かれた農家のある角で、妙正寺川に沿ってほぼ直角に北へと折れているけれど、吉屋信子がこの写真を撮影した1928年(昭和3)現在は、いまだ道路らしい道路が線路沿いを同作品の農家まで通っていなかった。それは、本来存在した斜めの道路が、西武線の敷設で断ち切られ線路の下になってしまったため、急きょ線路沿いに新たな三間道路が設置されたことによる。この新三間道路は当時、現在の七ノ坂下までしかいまだ拓かれていなかった。
 
 
 吉屋信子の写真にとらえられた三間道路は、前年の西武線開通と同時に造成されたばかりの道であり、本来の落合村からの道路筋は、写真の奥に見える左へと屈曲していく道が、そのまま真っ直ぐ手前の線路敷地を、右方向へ斜めに横切っていた。奥に見えている屈曲部は、踏み切りのある六ノ坂下にあたる地点で、そこから50mほど離れた位置に立ち、吉屋信子はほぼ真東を向いてシャッターを切っている。画面の右端に見えている家のさらに右手、吉屋信子がもう少し画角を広めに撮影していたなら、おそらく上落合三輪に建っていた三の輪湯Click!の煙突Click!がとらえられていただろう。
 すなわち、吉屋信子が立って愛用カメラの「ベストポケット」をかまえているのは、下落合2143番地前の路上で、線路向うに見えている家のあたりは、1928年(昭和3)現在は葛ヶ谷(現・西落合)の飛び地だった葛ヶ谷御霊下と呼ばれたエリアで、1932年(昭和7)の淀橋区の成立とともに下落合5丁目となる地域だ。
 吉屋信子は、五ノ坂下に出たあと右折し西へブラブラと歩いていった。五ノ坂下の右手には、付近の地主が建てた大きな西洋館Click!(下落合2133番地)が竣工しており、すでに誰かが住んでいただろう。4年後、『放浪記』がヒットした林芙美子Click!が手塚緑敏Click!とともに上落合三輪850番地Click!から引っ越してくる、“お化け屋敷”Click!と名づけた五ノ坂下の西洋館だ。中ノ道は、ゆったりと西へカーブを描きながら、ほどなく西武線の線路が見えはじめ踏切りのある六ノ坂下へとさしかかる。すると、吉屋信子は線路際の並木につながれた牛を発見した。彼女はこわごわとホルスタインへ近寄り、ベストアングルで撮影しようとシャッターを切ろうとしたら、急に牛が向きを変えて線路端の草を食(は)みはじめてしまった。「う~ん残念、でも現像したら千代子に見せてあげよう」と、3ヶ月後に迫るフランスへの渡航準備をはじめた実行力のある門馬千代を想いながら、散歩を切りあげてそそくさと家路についた……、そんな情景が想い浮かぶ。



 さて、このホルスタインはどこからきたのだろうか? 上落合にある三の輪湯の南には、椎名町の安達牧場Click!と提携してキングミルクの原乳を生産する、牧成社牧場Click!が営業していた。もう少し時代がくだると、三の輪湯の西側にキングミルクの牛乳店がオープンすることになる。ただし、牧場から牛をわざわざ連れ出して、付近を散歩させることはありそうもないので、この牛は牧成社牧場から委託飼育のために、付近の農家へとどけられる途中なのかもしれない。
 東京の市街地へ新鮮な牛乳を供給するために、次々と郊外に開業した「東京牧場」Click!だが、住宅地と近接している地域Click!が多かったために、それほど広大な面積の牧場地を確保することができなかった。したがって、牛の頭数を増やすのにも限界があり、牛乳の需要が急増して生産量が追いつかなくなると、付近の農家へ乳牛を数頭ずつ預け、飼育と搾乳を委託するビジネスが盛んに行われるようになる。牧場では、早朝に委託農家をトラックでまわり、原乳を集めては加工場へと運んでいた。おそらく、吉屋信子が遭遇したホルスタインも、近くの農家へとどけられる牛の1頭だったのではないかと思われる。
 吉屋信子が丘上の目白文化村Click!ばかりでなく、中ノ道を西へとたどる散歩をしていたことが判明した。ひょっとすると、佐伯が描いた「洗濯物のある風景」の農家を目にし、さらにはそこから屋根が見えたと思われる、桜ヶ池の不動堂Click!までブラブラ歩いてやしないだろうか。少なくとも1928年(昭和3)以降は、ポケットにカメラを入れて歩いていたと思われるので、付近の風景へ向けシャッターを切っていた可能性は高い。

 

 吉屋信子は生涯にわたり、8軒の自宅を建設している。敗戦を鎌倉の大仏裏に建てた別邸で迎えた彼女だが、下落合2108番地から転居した先の、市谷砂土原町3丁目18番地に建てた本邸は空襲で焼けてしまっている。もし、下落合時代のアルバムが鎌倉の別邸へ運ばれているとすれば、1926年(大正15)から1935年(昭和10)の10年間にわたり「ベストポケット」で撮影された下落合風景の写真類が、アルバムに残っていやしないだろうか。

◆写真上:1928年(昭和3)の「主婦之友」8月号に掲載された、吉屋信子撮影の「牛」。
◆写真中上:上左は、同誌掲載の吉屋信子プロフィール。上右は、彼女が愛用していた米国コダック社の「ベストポケット・コダック」。下は、葛ヶ湯御霊下(のち下落合5丁目)に点在する家々のクローズアップ。
◆写真中下:上は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」で、吉屋邸が「吉田」とまたしても誤採取されている。中は、1929年(昭和4)作成の「落合町全図」で、新たに線路沿いに三間道路が拓かれているのがわかる。下は、吉屋信子が市谷砂原町へ転居して1年後の空中写真にみる散歩コース。
◆写真下:上は、撮影ポイントの下落合2143番地路上の現状。六ノ坂下から、戦後さらに道路が直線化されているのがわかる。中左は、吉屋邸から五ノ坂へと抜ける路地で少し前に舗装された。中右は、吉屋信子が頻繁に上り下りしたと思われる五ノ坂。下は、戦災からまぬがれた中ノ道の一隅で、いまでも吉屋信子と同時代の家が残っている。