佐伯祐三Click!の作品を集めていたコレクターには、有名なところでも5人ほどの人たちが存在している。それらは、のちに個人名を冠して「〇〇コレクション」と呼ばれるようになるのだが、これらの蒐集品の中で『下落合風景』シリーズClick!がどれほど含まれていたのかを探るのが、きょうの記事のテーマだ。
 もっとも早くから佐伯の画業に注目し、作品を蒐集しはじめていたのは日本国内ではなく、パリ在住の福島繁太郎だった。福島は、佐伯のコレクターというよりもエコール・ド・パリの画家たちの蒐集家として知られており、佐伯の風景画を何点か集めている。そして、パリの画商に佐伯作品を紹介したのも彼だった。でも、佐伯の作品はフランス滞在中のものがすべてであり、しかも第2次滞仏中のものが中心だった。したがって、佐伯が日本国内で制作した画面は、おそらく1点も所蔵してはいなかっただろう。
 佐伯が帰国後、第2次渡仏の費用を捻出するために、大阪において佐伯祐三画会が結成されるが、その中心的な役割を果たしたのが四国出身の白川朋吉だった。佐伯が1927年(昭和2)ごろ、再渡仏の費用捻出を近くの戸塚町866番地(高田馬場4丁目)に住む二科の藤川勇造Click!に相談したところ、関西の法曹界では高名な白川朋吉を紹介されたのがきっかけだったようだ。この画会(頒布会)を通じて、おもに佐伯がこの時期に国内で描いた作品、すなわち「下落合風景」作品が関西や四国方面へ大量に流れていると思われる。
 以下、1968年(昭和43)に出版された講談社版『佐伯祐三全画集』所収の、山尾薫明「佐伯作品のゆくえ」から白川コレクションと画会の様子を引用してみよう。
  ▼
 自らも画会に十数口入会し、大阪の名士をも多数画会に入会させたので、たちまちにして渡欧費が集まった。この時の画会の金額は一口二十号で百円であった。渡仏費として集まった金額は、確実ではないが、万に近い金であったと考えられる。当時、月に五百円あればパリでモデルを使用し、思い切って製作が出来た時代で、フランより円ノートがはるかに強い時で、日本人はめぐまれていた。シベリヤ鉄道を利用すれば、パリまで三等で三百五十円、郵船の欧州航路でロンドンまで一等で千二百円で渡航出来た。
  ▲
 会費はひと口100円(ひと口200円という証言もあるので、キャンバス号数のちがいによるものか?)で、20号キャンバス作品を1点ということだから、これが万単位まで集まったとすれば、画会のために描かれた作品は100点前後ということになる。しかし、この時期の佐伯は20号ばかりでなく、15号サイズの作品も多作しているので、それらは会費100円よりも安かったか、あるいは会費が規定されている画会ではなく、1930年協会展や別ルートなどを通じて販売されたものだろうか。
 画会用の20号、あるいはそれ以外の15号作品は、滞仏作品や静物画などが混じっており、すべてが『下落合風景』ではなかったはずだが、それにしても膨大な作品点数が、二科展で特陳された1926年(大正15)の秋から、翌1927年(昭和2)の夏にかけて販売されたとみられる。ちなみに、この時期に開催された1930年協会Click!の展覧会では、残された佐伯没後の価格表を参照すると100~300円の値づけがいちばん多く、おそらく佐伯作品も号あたり10~20円程度で売られていたと思われる。つまり、20号作品なら200~400円、15号作品なら150~300円といったところだろうか。白川朋吉が中心となった佐伯画会は、少なくとも避暑で大磯Click!に滞在中の米子夫人Click!のもとへ、突然、再渡仏を知らせる手紙がとどく1927年(昭和2)7月までは、確実につづいていたのだろう。
  
 
 さて、佐伯作品にもっとも注目したのは、有名な佐伯コレクターとして知られる山本發次郎だった。のちに「山發コレクション」Click!と呼ばれるようになる彼の蒐集品は、総作品点数が150点(子息の山本清雄によると、誤植でなければ250点)にものぼり、最大級のコレクションを形成している。そのうち、空襲前の疎開で焼失をまぬがれている作品が41点(キャンバス表裏に描かれた画面で数えると42点)で、110点前後の作品がこの世から消滅してしまった。灰になった作品の中には、『目白風景』Click!と名づけられた「下落合風景」作品が1点、先にご紹介した1935年(昭和10)に銀座三共画廊で開かれた佐伯祐三回顧展Click!の会場写真に見える、葛ヶ谷(現・西落合)近くの目白通りを描いたと思われる『下落合風景』Click!を、もし山本發次郎がその場で購入していたとすれば、少なくとも計2点の作品が神戸空襲で焼失してしまったことになる。
 でも、「山發コレクション」のうち疎開を予定されていなかった作品、すなわちタイトルをリストアップされていなかった作品は、ほかにも約50点ほどあったことが山尾薫明の証言にも見えており、実際には何点の『下落合風景』が失われてしまったのかは不明のままだ。今日、講談社版(1968年)や朝日新聞社版(1979年)の『佐伯祐三全画集』で、カラーではなくモノクロで掲載されている「下落合風景」画面のうち、山本家で灰になった可能性のあるのは上記2点だけではないように思える。
 引きつづき佐伯作品を蒐集したのは、神戸の画商であり画家でもあった福井市郎だ。福井コレクションの中心は、第1次滞仏作品が中心(講談社版『全画集』では「第二次パリ時代」と誤植が見られる)だが、1939年(昭和14)現在では第2次滞仏作品も5点所蔵していたようだ。同年11月に大阪高島屋で開催された、「佐伯祐三未発表作品」を中心とする展覧会では、蒐集品62点が展示されている。その作品の中には、フランスから帰国後の「目白時代」と分類された国内制作の作品が並べられており、以下のような構成だった。
 ・鯖
 ・女の顔
 ・ガード風景 三点
 ・電車
 ・堂
 ・落合風景 十五点
 リストの『鯖』は、いまは新宿歴史博物館が所蔵している作品Click!、あるいは別バージョンの画面だと思われ、『ガード風景』は米子夫人の実家Click!近くで新橋ガードClick!をモチーフに描いた一連の作品群、『女の顔』は山發コレクションにみえる同タイトルの別バージョンの肖像画のように思える。また、『電車』は「制作メモ」Click!にもみえる1926年(大正15)9月15日に描かれた田端駅近くの情景であり、『堂(絵馬堂)』Click!はこちらで10年間も“指名手配”中の、落合地域とその周辺域では該当する建築が見つからない画面だ。(ただし、外観が不明な1926~1927年現在の上高田・桜ヶ池不動堂Click!は除く)
  
  
 さて、ここで注目すべきは「落合風景」とタイトルされた作品が、15点も展示されていることだ。同画集より、山尾薫明の文章をもう少し引用してみよう。
  ▼
 (62点のリストのあとつづけて) これらが福井市郎氏のコレクションであった。この蒐集は山本さんが蒐集した後に集めたもので、佐伯の初期目白時代の研究には貴重な作品が含まれている。この蒐集品は大阪での展覧後、九州博多に於いて展観され、同方面の数奇者に愛蔵された。(カッコ内引用者註)
  ▲
 これらの作品は、山本發次郎がコレクションをはじめたあとに蒐集されていることから、山發コレクションとは作品がダブっていない可能性が高い。つまり、ここにリスト化されている「落合風景」15点などは、山發コレクションに収蔵されていた同シリーズとはまったく別作品であったことを想定できるのだ。
 文中で、「初期目白時代の研究には貴重」とされている作品は、佐伯の下落合時代の初期ではなく第2次渡仏前の作品群、すなわち1926年(大正15)秋から1927年(昭和2)夏にかけての画面が主体であり、佐伯の下落合時代末期の作品研究には貴重……の誤りだろう。これら62点の作品は、博多で開かれた展覧会で販売され、九州方面の家庭で所蔵されている可能性がきわめて高い。すなわち、わたしは少なくとも100点は超えていたと想定している『下落合風景』は、近畿地方をはじめ四国、九州地方の、空襲で罹災していない家庭に残っている確率が高いことになる。
 事実、現在『堂(絵馬堂)』を所有しているのは、九州の方だとうかがった憶えがある。ただし、この時期の佐伯祐三はよほど出来の気に入った作品以外、サインを入れることは稀なので、佐伯作とは気づかれずに……「ほんなこつ、ヒビだらけで汚か絵たい。そぎゃんじいちゃんゴミば、うすとろか(恥ずかしい)けん早よ棄つッ!」……などといわれながら、燃えるゴミの日が近づくと危うい状況に置かれているのかもしれない。
 福井コレクションのあとは、画商の古野コレクションというのも存在している。やはり、「目白時代」の風景画が何点かあったようで、福井コレクションと重なっているものも存在していたようなのだが、詳細な作品リストは不明だ。
  
 
 このサイトをご覧になっていて、どうも昔から居間に架かってる汚らしい、ニスが黒ずんだ得体のしれない風景画が、こちらで紹介される「下落合」の情景っぽいと感じられる方が、関西や四国、九州方面にいらっしゃるとすれば、棄ててしまう前に画面を撮影してお送りいただきたい。それが、もしホンモノであれば、いまや当時の下落合の風景を相当リアルに目に浮かべることができるようになっているので、かなりの確率でどこの街角を描いたものかを特定することができると思う。ぜひ、ご協力いただければ幸いだ。

◆写真上:。1928年(昭和3)2月に、かろうじてファインダーの左端にとらえられたヴィリエ=シュル=モランで制作中の佐伯祐三と娘の彌智子Click!(右端)。
◆写真中上:わたしがモノクロでしか観たことがない『下落合風景』作品群で、左上から右下へ「セメントの坪(ヘイ)」、「墓のある風景(薬王院旧墓地)」、「曾宮さんの前(諏訪谷別バージョン)」、「第一文化村外れ(前谷戸)」、「第二文化村外れ」。
※「セメントの坪(ヘイ)」には、制作メモに残る15号のほかに曾宮一念が証言する40号サイズと、1926年(大正15)8月以前に10号前後の作品Click!が描かれた可能性が高い。
◆写真中下:同じく左上から右下へ「目白風景(金久保沢)」、「八島さんの前」、「黒い家?(六天坂上)」、「六天坂(中谷邸)」、「場所不明」、「目白通り(下落合西端)」。
◆写真下:同じく左上から右下へ「草津温泉の煙突が見える中ノ道(現・中井駅前)」、「アビラ村外れ(城西学園=目白学園付近)」、「アビラ村外れ(別バージョン)」、「第二文化村外れ(富永医院)」、「上落合の橋付近(妙正寺川の昭和橋付近)」。