1926年(大正15)9月1日の夕方、ないしは夜に東京朝日新聞のカメラマンが撮影した、二科賞を受賞した直後のフラッシュをあびる佐伯祐三Click!一家の写真が残されている。翌9月2日の朝刊へ掲載されたものだが、同時期に「アサヒグラフ」へもより高精細な写真が収録されている。同誌へ掲載された画像を、友人が改めて高解像度でスキャニングして送ってくれたので検討してみたい。
 佐伯祐三の名前が、いまだ一般にほとんど知られていない当時のもので、写真のキャプションには佐伯祐三を「佐伯勇三」、娘の彌智子を「令息」としているなど、おかしな記述が見られるのは以前にも記事Click!に書いたとおりだ。しかし、画像がより鮮明になると、新たに重要な課題が見えてきた。この1枚の写真には、佐伯の下落合における軌跡をとらえる上では欠かせない、きわめて貴重なテーマがふたつ含まれている。
 佐伯の右側には、第1次滞仏時の作品と思われるパリ風景のキャンバスが立てかけられ、佐伯米子Click!の背後にもパリの街角を描いたらしい彼女の作品が置かれている。ちなみに、佐伯の作品はいままで一度も見たことがない画面で、現在は戦災で焼けてしまったか行方不明になっているものの1枚だろう。こうして画面を並べて比較すると、佐伯祐三と米子夫人の作品は大正期末の時点で、これだけ異なるタッチをしていたことがわかる。だが、ここでの問題は佐伯祐三と米子夫人の表現のちがいではない。課題のひとつめは、佐伯の頭のすぐうしろに見えている、10号前後のサイズの小さなキャンバスなのだ。
 この画面は従来、1926年(大正15)10月23日に曾宮一念アトリエClick!の前で描かれた、『下落合風景』シリーズClick!の1作、「セメントの坪(ヘイ)」と規定していた画面にきわめて酷似している。現在ではまったく行方不明の同作だが、1930年協会第2回展の絵葉書に採用されたモノクロ画面と比較すると、セメントの塀の塗り方が異なるので同風景のバリエーション作品か、あるいは制作途上で未完の作品だと思われるのだ。ただし、制作中で未完成のキャンバスを、画家が二科賞を受賞した記者会見の記念撮影で作品の中央にすえたりするだろうか? 曾宮アトリエの屋根を少し入れて描いた本作(ないしは近似作)には、40号の画面(戦後に静岡の常葉美術館で展示されてのち行方不明)があることも、曾宮一念Click!による証言で明らかになっている。しかし、課題として重要なのは、同作が未完成なのかバリエーション作品なのかというところではない。1926年(大正15)9月1日に、すでに『下落合風景』の画面が存在しているという事実だ。


 従来の佐伯伝では、「制作メモ」の記載内容から『下落合風景』の連作がスタートするのは、涼しくなってスケッチに出歩きやすくなる同年の秋から、すなわち「制作メモ」Click!に記載された9月18日の「原」あたりから……と解釈する記述がほとんどだった。あるいは、二科賞の受賞をきっかけとして、本格的に日本の風景へ取り組む意欲が湧き、周囲からの奨めもあってアトリエ周辺に展開する下落合の風景をモチーフに、“格闘”してみる気になったのだ……というような解釈にもとづく記述が多々みられた。しかし、この1枚の写真の存在から、佐伯はもっと以前より近所を散歩しながら描く、『下落合風景』シリーズのテーマへ取り組んでいたことがわかる。
 佐伯祐三は二科賞を受賞する以前、夏の暑い盛りから曾宮一念邸Click!の前にイーゼルを立て、『下落合風景』を描いていた。すなわち、『下落合風景』を描く動機=きっかけとなったのは、少なくとも二科賞の受賞ではない。また、「制作メモ」の存在から、『下落合風景』の仕事は秋以降に開始されたという漠然とした解釈も成立しない。佐伯は、もっと以前から近所の風景画に取り組んでいたのであり、「制作メモ」に記載された一連のタイトルは、1926~1927年(大正15~昭和2)の冬にかけて制作された目白文化村Click!の簡易スキー場Click!や『雪景色』Click!などの下落合の風景作品群Click!の存在、また1927年(昭和2)の1930年協会第2回展のために5~6月ごろに描かれた「八島さんの前通り」Click!の存在などから、そのほんの一過程のメモにすぎなかったことがわかる。



 換言すれば、佐伯祐三は1926年(大正15)の夏から、翌1927年(昭和2)の第2次渡仏へ向かう直前の大磯の夏Click!まで、ほぼ1年間にわたり『下落合風景』を描きつづけていたことになるのだ。したがって、『下落合風景』は現在判明している50点余の作品点数どころではなく、佐伯が渡辺浩三に画布600枚Click!を手づくりしたと話しているとおり、同作の最終的な点数はケタがちがう可能性がより高いことになる。
 さて、課題のふたつめは、この画面が「制作メモ」に残された1926年(大正15)10月23日の、「浅川ヘイ」Click!とともに記載された「セメントの坪(ヘイ)」とは別作品の可能性が高いということだ。ただし、佐伯は八島さんの前通りClick!や諏訪谷Click!など同一の風景を何度も反復して描く習性があるので、浅川秀次邸Click!の塀=「浅川ヘイ」と同日に制作した「セメントの坪(ヘイ)」(15号)もまた、曾宮邸の屋根を少し取りこむ同じような構図をしていたのではないかと想定することができる。そして、同年の夏=8月以前に制作された「セメントの坪(ヘイ)」(記者会見写真にとらえられた10号前後のサイズ)と同期か、あるいは10月23日に描かれた同作(15号)と同じ時期かは不明だが、曾宮証言によればバリエーション作品として40号の画面も制作していることになる。
 佐伯の記者会見写真には、アトリエのペパーミントグリーンに塗られた腰高の板壁の上、モルタルの白い壁面にも風景画と思われる作品が架けられている。さらに、佐伯の足もとにも15号ほどの手づくりとみられるキャンバスが、裏返しに立てかけられている。1926年(大正15)の少なくとも夏から制作が開始されていることが判明したいま、これらの作品画面もまた、炎天下のアトリエ周囲を散歩しながら制作された、未知の『下落合風景』だった可能性がある。


 余談だが、同じく東京朝日新聞のカメラマンが、1927年(昭和2)3月に下落合735番地のアトリエにいる、村山知義・籌子夫妻Click!をとらえた写真がある。やはり「アサヒグラフ」(同年3月9日号)に掲載されたものだが、同誌掲載のものとは異なるバージョンの写真を見つけた。この時期、上落合186番地の自邸が大規模なリフォーム中で、『美術年鑑』をたどると1930年(昭和5)ごろまで下落合の住所が記載されている。そして、村山夫妻が住んだ下落合735番地のアトリエこそが、佐伯祐三が描いている「セメントの坪(ヘイ)」の、正面に見える家並みの南側(右手)にほかならない。つまり、佐伯アトリエで二科賞受賞の記念撮影をした朝日のカメラマンは、約6か月後に再びごく近所の、今度は村山知義・籌子夫妻のアトリエを訪ねていることになる。

◆写真上:1926年(大正15)9月1日の夕方か夜に撮影された、東京朝日新聞社9月2日朝刊と「アサヒグラフ」9月22日号に掲載の佐伯一家。
◆写真中上:上は、同写真の拡大。下は、曾宮一念アトリエの真ん前を描いた『下落合風景』の1作。従来は、「制作メモ」の10月23日に記載されていた「セメントの坪(ヘイ)」(15号)と規定していたが、おそらく「浅川ヘイ」に隣接した同一場所を描いているとみられるので、とりあえずタイトルは踏襲する。
◆写真中下:上は、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」にみる描画ポイントへと向かう佐伯の「セメントの坪(ヘイ)」ルート。中は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる描画ポイントと画角。下は、「セメントの坪(ヘイ)」の現状で電柱がほぼ同じ位置に建っているのがわかる。正面の街角は戦災をまぬがれており、家々がリフォームされる前(1970年代)の街並みは、佐伯の画面と重なり既視感がある。
◆写真下:上は、「セメントの坪(ヘイ)」に描かれたリフォーム前の高嶺邸。下は、翌1927年(昭和2)3月に下落合735番地のアトリエで撮影された村山知義・籌子夫妻。「アサヒグラフ」3月9日号の写真は床に座っているが、バリエーション写真のほうはイスに腰かけており、わたしはこちらの「オカズコねえちゃん」Click!の表情のほうが好きだ。