東京土地住宅(株)は、下落合の近衛篤麿邸跡に開発した「近衛町」の分譲開始を、1922年(大正11)4月11日の「東京日日新聞」Click!で、また同年4月15日および4月22日の新聞広告で告知している。そして、同年5月7日に販売がスタートすると、同じく「東京日日新聞」の報道によれば、坪平均68円50銭で販売したところ、同年の10月27日はアッという間に完売したことになっている。だが、これは対マスコミ向け(対顧客向け)の建て前的なポーズであり、1922年以降も未契約の土地が残っていた可能性が高い。
 1923年(大正12)ごろ、東京土地住宅Click!が作成したとみられる近衛町開発の内部資料「近衛町地割図」を、友人が公文書館で見つけわざわざお送りいただいた。(冒頭写真) 東京土地住宅の三宅勘一Click!としては、販売から短期間ですべての敷地を売り切るほど、それほど人気が高かったのだとアピールし、今後の事業展開をスムーズに進めたかったのだろうが、実は「未契約地一覧表」を作成して、そのうちのいくつかの敷地では大正末にかけ、敷地造成の追加開発が行われている可能性の高いことがわかる。
 上記の「近衛町地割図」に振られている番号は、西片町Click!や目白文化村Click!など当時の文化住宅街と同様に、近衛町独特の住宅(敷地)番号であって下落合の住所ではない。たとえば、1923年(大正12)ごろに建設された杉卯七邸Click!は「落合村近衛町33号」となり、「落合村下落合415番地」と表記しなくても郵便がとどくような、近衛町ならではの環境にしたかったのだろう。しかし、目白文化村の住宅番号Click!もそうだけれど、下落合ではこのような文化住宅街独自の“住所”は、そのうち忘れられて普及しなかった。
 さて、この「近衛町地割図」の中で斜線が引かれている敷地が、1923年(大正12)現在でも「未契約地」、つまり売れ残っていた部分だ。下落合の地形をご存じの方なら、林泉園Click!からつづく深い谷間を背負った近衛町17号の“旗竿地”を除き、敷地番号の1・23・24・28-ハ・28-ニ・34・44各号の敷地は、いずれも丘の斜面であることにお気づきだろう。東京土地住宅は、箱根土地(株)の目白文化村開発のように、販売する敷地の樹木を伐採して整地し、縁石や擁壁を築いていつでもその上に住宅が建てられるよう整備し、一部の敷地にはモデルハウスClick!さえ建てて、現地見学に訪れた顧客のイメージをふくらませ、リアルに具体化させながら販売する……というような、いわば現代的な手法を用いてはいない。
 近衛町の販売は、ほとんど森林状態のままの敷地を図面上で区画割りし、実際に住宅建設が具体化する段になって、ようやく整地作業をはじめるという順序だった。だから、近衛町の全区画が「完売」したあとだったにもかかわらず、1923年(大正12)に竣工しているとみられる杉卯七邸は、森の中にポツンと存在している別荘のような風情だったのだ。したがって、近衛町の分譲現地を訪れた人々は、上記「未契約地」の敷地を見ると、樹木が鬱蒼と生い茂った未開発の丘の斜面、あるいは崖地にしか見えなかっただろう。
 その様子は、1923年(大正12)ごろに撮影されたとみられる、学習院上空からの空中写真でも確認できる。すでに道路は造成されていたのだろうが、近衛町全体がほとんど深い森林状態のままであり、竣工していた杉卯七邸は木々に隠れ、ほとんど屋根さえ見つけることができない。

 

 さて、これらの「未契約地」のうち、それでも早めに整備して売れているのは、アビラ村(芸術村)Click!に住む島津源吉Click!の縁つづきの島津良蔵邸Click!が建つ近衛町1号をはじめ、比較的斜面の傾斜がゆるい敷地だったろう。だが、いちばんの課題は地形が丘の斜面レベルではなく、もはや崖地と呼んだほうが適するような近衛町44号、すなわち宮内省林野局が購入して、のちに学習院昭和寮Click!が建設される42・43号の東側の敷地だった。なぜ、この「近衛町地割図」が1923年(大正12)ごろのものだと判断できるのは、44号の敷地に雑司ヶ谷道(新井薬師道)Click!へと下りる「S」字型のバッケ坂が未整備だからだ。
 すなわち、東京土地住宅では44号の敷地が売れないために、以降、大規模な開発工事を追加で行っているとみられる。それは、44号の敷地全体を一気にひな段状へ造成しなおすものではなく、上から順番に住宅敷地を整備して段階的に販売していったのだろう。その様子は、坂上の比較的平坦な敷地である地籍番号「四〇六ノ二七」、すなわち昭和寮建設予定地の東側に隣接する新たに区画割りした土地(「44-イ」とでも呼ばれたのかもしれない)を、1923年(大正12)ごろに「渡邊康三」という人物へ販売している、公文書館の別資料でも確認することができるからだ。また、このころから44号の敷地の中央に「S」字型の急坂を通わせ、ひな段状に整地してから販売するという、追加開発の事業がスタートしている様子が、別資料の手描き図面からもうかがえる。
 さて、東京土地住宅が近衛町を販売する直前、1921年(大正10)の秋には牛込区馬場下町35番地(現・新宿区早稲田町)の早稲田善隣園の庭園を、住宅地に開発して販売する事業を行っている。善隣園とは、現在の早稲田中学校/高等学校Click!の東側に接した、大きな屋敷と庭園を有する施設で、おそらく早稲田大学が近隣諸国の留学生あるいはゲストを宿泊させるため明治期に建設したのではないかと思われる。この善隣園開発の広告の隣りには、箱根土地が箱根強羅に温泉付きの新築別荘を売り出す広告を載せており、期せずして呉越同舟の並列広告掲載となった。1921年(大正10)11月11日付けの東京朝日新聞から、東京土地住宅の広告コピーを引用してみよう。

 

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 文化生活は先づ住居の安定から/中産階級の人々に
 ◇真の理想的文化生活を営むには先づ第一に住居の安定を得ねばなりませぬ。不安定なぞして不愉快な借家生活から自分の趣味に適ふ住居に生活を移す事が文化生活への第一歩であります/◇鬱蒼と樹木が生ひ茂つた美しい閑静な庭園約四千坪に新しく道路を造り百坪前後に分割して提供する早稲田善隣園(牛込馬場下三五)は極めて恰好な而も廉価な中流住宅地であります/◇来る十三日午前九時から現場に於て申込順に契約しますから御希望の方は得難い此機会を逸せぬ様御申込下さい。若し後日御不要になりました節は相当有利に転売して差上げます
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 東京土地住宅は、4,000坪の敷地を1区画100坪ほどの住宅地として販売するとしているが、この販売もまた、近衛町と同様にきちんと宅地として整地し、いつでも住宅が建設できるように整備してから販売しているのではなく、区画割りした庭園をそのままの状態で販売している可能性が高い。なぜなら、1921年(大正10)以降から大正末までの地図を確認しても、同所は善隣園のかたちがそのままで収録されており、道路などの整備を含め明らかに新規住宅地として再開発された形跡が見えないからだ。
 この広告の隣りに掲載されている、箱根土地が出稿した別荘広告を見ると、すでに敷地は整地されて温泉が引かれた別荘建築も竣工しており、建物の内部には生活に困らない家具調度や寝具、電話、炊事道具、調味料までが備えつけられており、即入居ができるような売り方をしているのがわかる。いたれりつくせりの箱根土地に比べ、東京土地住宅の販売は必要な道路整備は行うものの、図面上で地割りを行なったあと、基本的には現状のままで販売していた様子がうかがえる。そして、買い手がつくと当該の敷地だけ樹木を伐採して整地し、上下水道や電気、ガスなどを引いて整備するという販売手法だったようだ。
 これは、金融機関から大規模な融資を受けて開発事業を進めるのを避け、土地が売れて同社に入金されてから樹木を伐採して敷地を整備するという、しごく堅実な事業展開のように思われるけれど、東京土地住宅がイニシャルコストをかけられない事情、すなわち銀行からスムーズに融資を受けることができず、良好な経営状態ではなかったことをうかがわせる示唆的な販売法だ。近衛町開発ののち、東京土地住宅はいよいよ経営が苦しくなったものか、下落合で土地転がし(ブローカー)のような仕事にまで手を出すようになる。
 東京土地住宅は、このあと巨額の負債を抱えて事業が継続できず、ついに近衛町の販売から3年後、1925年(大正14)には経営破綻Click!にまで陥ってしまう。その後、近衛町の開発事業を引き継いだのは、下落合では常にライバルだった箱根土地Click!だった。
 

 東京土地住宅が出稿した、近衛町開発に関する大正期の媒体広告を順次眺めていくと、かなり興味深いことがわかる。東京土地住宅の本社は、京橋区銀座2丁目1番地なのだが、近衛町の販売と同時に営業部が独立して京橋区南紺屋町24番地の皆川ビルディング5階に移り、銀座の本社内へ新たに工務部を拡張設置して、住宅地の造成・整備力を強化している。これは、「宅地として、ちゃんと整備されてないじゃないか!」という、顧客からのクレームを受けた措置かどうかは不明だが、同社も箱根土地と同様に購入後すぐに住宅建設が行えるよう、きちんと宅地整備を完了してから販売する手法を、苦しい経営の中で模索しはじめていたのかもしれない。近衛町の開発広告を通じて、当時の非常に興味深い東京土地住宅の様子をかいま見ることができるのだが、それはまた、別の物語……。

◆写真上:1922年(大正11)末から翌年にかけて作成されたとみられる、公文書館に残る東京土地住宅の社内資料「近衛町地割図」(未契約地一覧表)。
◆写真中上:上は、同地割図に近衛旧邸の位置を重ねてみたもの。中左は、藤田孝様Click!(近衛町7号)が保存されている昭和初期の地割図裏に記載された三宅勘一の署名で、三宅勘一自身も下落合に住んでいた。中右は、1935年(昭和10)ごろに撮影された酒井正義様Click!(近衛町16号)の庭園で、奥に見えているのは林泉園谷戸の渓谷。下は、1922年(大正11)に作成された1/5,000地形図にみる第1次販売の近衛町界隈。
◆写真中下:上は、近衛町44号の敷地北側に通う道路で、山手線をはさみ正面に見えているのが学習院大学の森。画面の右手が近衛町45・46号で、左手が35・36号の敷地。中左は、1923年(大正12)になって近衛町44号の丘上が造成され販売された「渡邊康三」所有地の現状。中右は、近衛町35号邸の現状。下は、1923~24年(大正12~13)にかけ近衛町44号敷地内へ造られたとみられる「S」字型の急坂で、同時に斜面を坂に沿って4~5段にひな壇化している。
◆写真下:上は、近衛町44号に通う「S」字型の急坂。下は、1921年(大正10)11月11日の東京朝日新聞に同時掲載された箱根土地と東京土地住宅の広告。