小島善太郎Click!は、父親の郷里であり小島本家があった下落合を、幼年時代は親に連れられ、少年時代は実家が下落合にもどったため、また成長してからはひとりで写生をしに何度も訪れている。その記憶は、大正期の半ばから東京の郊外住宅地として拓ける以前のことであり、華族の大きな屋敷Click!や別荘Click!が建ち並んでいた、明治後半から大正の最初期にかけての記憶だ。そこに描写された明治期の下落合は、まるで田畑の拡がるどこかの里山をハイキングしているような感覚にとらわれる。
 小島本家の跡とりだった小島善太郎の父親は、淀橋町で営業Click!していた郊外野菜の仲買い事業と沢庵漬けClick!の製造場へ投資するため、郷里の屋敷や田畑を借金の担保に入れて返済できずになくしている。丘上に広大な田畑や屋敷地を所有していたようだが、小島善太郎が小学校へ上がるころにはすべてを失っていた。したがって、下落合へ出かけるときは、本家跡の近くにあった小島分家に用事があるときか、あるいはいまだ畑の中にあった同家墓地への墓参のときに限られていた。1968年(昭和43)に雪華社から出版された、小島善太郎『若き日の自画像』から引用してみよう。
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 父の郷里に連れられた時のことだった。/楢や檪の雑木林の間から、金色に見える尾の長い小鳥が羽ばたきを見せて行く手に現れた。手近い所や奥まった枝に止まったり、飛んだりしている。その小鳥の姿が僕を捉えて歩かせなかった。お伽の国の小鳥のようにみえるのだ。父は急ぎたてる。僕にはその鳥が檎(と)れそうでならない。/「あァ、あの小鳥か、あれはとってはいけない小鳥なんだよ。お家が火事になるとさ」/だが自分が歩くさきざきで小鳥し啼き、パッと飛び上る一群が陽光を遮って映る。それがたまらない愛着となるのであった。/分家の広い庭に這入って行った時だった。そこに雀に似た小鳥が数歩前を幾羽となくよろめくように歩いている。樹陰に囲まれた下で僕はそっと腰を曲げた。腕を伸ばすと檎れる気がする。が自分が手を近づけると飛んでしまう。また数歩先きを並んで歩いている。なお静かに僕は腰を曲げ腕を伸ばした。すると父の笑い声が背後で聞こえたのだった。/「そんなァことしたって」/僕は追うのを諦めて立ち上がった。/「雀じゃない。頬白というのだ。この小鳥は可愛い啼き方をする」と父はそのとき、飾りのないこの小鳥のことをそう云ったのだった。
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 ホオジロは、現在でも下落合の雑木林で頻繁に見ることができるが、「ホオジロを捕まえると火事になる」という警句じみた言い伝えは同書で初めて知った。きっと落合地域に限らず、当時まで伝わっていた東京郊外に特有のジンクスのひとつなのだろう。そこには、なんらかの謂れや物語があったと思われるのだが不明だ。
 それから少したったころ、小島善太郎は友だちからホオジロを鳥かごごともらっている。家族は、別にホオジロを飼うことに反対はしていないので、「火事になる」は小島の親たちの世代にさえ、すでに他愛ない迷信だととらえられていたようだ。そして、出身地が落合村に隣接する中野村だった母親は、彼にホオジロの鳴き方を「てっぺんいへろく、にしまけた」と教えている。鳥のさえずりが、人の言葉にたとえられてどのように解釈されているかは、多彩な地域性があって非常に面白い。わたしは親から、ホオジロのさえずりを「いっぴつけいじょうつかまつりそうろ(一筆啓上仕候)」と教えられている。

 
 小島善太郎もまた、落合地域に流れる川を「落合川」Click!と呼んでいるが、どうやら関口まで流れる旧・神田上水と、支流である妙正寺川の双方を「落合川」と称しているらしく、注意深く読まないと地理的に混乱しそうだ。「落合川」という呼称は、明治期から地元で頻繁に使われていたようで、小島に限らず古い記録を参照するとときどき目にする。おそらく、1898年(明治31)に淀橋浄水場Click!が竣工し、この旧・平川(ピラ川=崖川)Click!の流れが上水としての役目を終えた時点で、「神田上水」という呼称が適さなくなり、落合地域では誰からともなく「落合川」と呼びはじめたのだろう。だが、大堰から舩河原橋までの「江戸川」(現・神田川)とは異なり、「落合川」が公式名称として採用されることはなく、1960年代半ばまで「旧・神田上水」と記載されつづける地図が多い。
 妙正寺川の水車小屋のひとつを描写した一節を、前掲書から引用してみよう。
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 落合橋を川に沿うて三、四丁上がった所に水車場が在った。朽ちかけた横長の家だった。その中央を割った暗い中から水を垂らした大きな水車が絶えず廻っている。輪の板に苔が生えて湿った感じの上を水が乗って来ては落ちる。その度びに焦褐色をした水車に黄ばんだ濃い苔の上を水が白く光って滑る。木小屋の中では杵搗く音が絶えず、側で見てると水車が生きて感じられて面白く、数回来ては写生をした。/水車場の西に六、七丈の丘があって、高台に樫の林があり、傍から茶畑が続いて、茶畑の間に柿の木があった。曇った日の暮方だった。霜を受けた柿の丸葉を黄赭に染めて煤んだ草の上に明るく落ち重なっていた。此処に佇んで眼前に展がった戸山ヶ原を見渡した。若杉の林や樫に挟まれた檪林は色付き欅は葉を落とし始め、それが原の入口を囲んでいた。視界を下にすると、裾を落合川が帯を投げたようにうねっては流れ、眼下に水車場の屋根が搗粉で白く染めて見せている。近くの枝に止まった鵙が慌ただしく甲高な声をして鳴いて静寂を破る。此処に佇立って僕は家出後の兄を想ったのである。
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 ここに登場する「落合橋」とは、もちろん補助45号線(聖母坂)Click!の南にある現在の落合橋のことではなく、明治期に地元で呼称されていた「落合橋」のことだ。明治維新から間もない、1880年(明治13)に作成された1/20,000地形図をみると、落合地域を流れる旧・神田上水と妙正寺川(北川Click!)に架かる橋は、たった4ヶ所しか記載されていない。おそらく、江戸末期からほとんど変わっていない姿のままだろう。神田上水に架かる田島橋Click!と、妙正寺川に架かる西ノ橋Click!(比丘尼橋Click!)、寺斉橋Click!、そして水車橋Click!だ。もっとも、当時の妙正寺川は川幅も狭く小川のような流れだったので、あえて橋を渡さなくても簡単に飛び越えられたかもしれない。
 
 すでに山手線が敷設された、1909年(明治42)の1/10,000地形図を参照しても、落合の川筋には上記4つの橋しか存在していない。ひょっとすると、妙正寺川から南側の上落合一帯へ灌漑用水を引くために、バッケ水車のやや下流に設置されたバッケ堰Click!の上部に板がわたされ、すでに簡易橋の役目を果たしていたのかもしれないのだが、明治期の記録が少ないので委細は不明だ。
 小島善太郎が書きとめた「落合橋」とは、おそらく現在の中井駅に近い寺斉橋のことだろう。なぜなら、橋の「三、四丁」上流に水車場があり、しかもその水車場の北側半丁(約50m)のところに旧・水車小屋が存在する場所、すなわち川が北へ大きく湾曲した分流のあったポイントは、妙正寺川に架かる寺斉橋の上流250mほどのところにある、新旧ふたつの水車小屋をおいてほかに存在しないからだ。妙正寺川が2流に分かれた様子は、1910年(明治43)の1/10,000地形図で確認することができる。そして、同地図には少し下流のバッケ堰とともに、南側分流の水車場が記録されており、北側分流の廃止された水車場の位置には記載がない。
 廃止された北側の水車場は、地元の大工が田畑帰りの農民を相手にした小規模な銭湯に改築していたが、近くに引っ越してきていた小島一家はもう少しすると、この旧・水車小屋の銭湯を丸ごと借りて転居することになる。引きつづき、小島善太郎『若き日の自画像』から引用しよう。
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 水車場の半丁ばかり北の路端に田舎風呂があった。風呂場とし云え、旧水車場のものを土地の大工が借り受け家風呂を加え、風呂屋を開業したもので、一つの風呂に、漸く三人這入れると云う小屋がけのものだった。自分達も其処に浴りに行っていた。その風呂場を父が借りて移転したのは、兄の家初(ママ:出)後初霜を見た頃の事であった。
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 小島善太郎の兄は、酒飲みで遊び好きの性格がなおらず、父親の商売資金を集金先から持ち逃げして、勘当されたまま行方不明になった。彼は、この水車小屋を改造した粗末な家にいるとき、ほぼ1年余の間に、浅草で見習い奉公に出した妹を殺害され、落胆して半ばおかしくなり寝ついた母を喪い、わずか3ヶ月後に今度は父親を亡くしている。だから、小島善太郎にしてみれば、下落合は二度と思い出したくない記憶が充満した土地Click!であり、自身が所属した1930年協会Click!をはじめ、数多くの画家たちが落合地域に集合していたにもかかわらず、二度と足を踏み入れたくなかったエリアだったにちがいない。


 さて、きょうは小島善太郎が1915年(大正4)に、戸山ヶ原と目白崖線を描いた『晩秋』についてもご紹介したかったのだが、すでに4,000文字近くなり“紙数”が尽きてしまった。彼は両親の生前から大久保駅の西側、蜀江山の山頂にあった陸軍大将・中村覚邸の書生になり、戸山ヶ原から落合地域を写生してまわるのだが、それはまた、別の物語……。

◆写真上:親柱に水車のオブジェが載る美仲橋で、バッケ水車は橋のすぐ右手下流にあった。また、美仲橋左手の上流にはバッケ堰が設置されていた。
◆写真中上:上は、下落合の「野鳥の森公園」の雑木林。下左は、いまも下落合でよく見かけるホオジロ。下右は、1919年(大正8)制作の小島善太郎『27歳の自画像』。
◆写真中下:左は、1914年(大正3)に蜀江山の中村覚邸の洋館を描いた小島善太郎『やわらかき光』。右は、昭和初期に撮影された小島善太郎。
◆写真下:上は、フランスから帰国後の1927年(昭和2)に制作された小島善太郎『戸山ヶ原』。下は、下落合の「おとめ山公園」の雑木林。