残された聖母病院の死亡診断書によれば、1946年(昭和21)10月3日の午前11時4分、エリザベス・サンダースは大腸癌のために下落合の聖母病院で死去している。故郷の英国を離れて来日してから、すでに33年の歳月がたっており76歳だった。
 エリザベス・サンダースは、1870年(明治3)2月22日に英国ワイト島のバートン村で生まれている。先の死亡診断書によれば、トム・サンダースとジェーン・サンダースを両親として出生し、母親の旧姓はワトソンとある。父親トム・サンダースの職業は、農園労働者と記載されている。これは、自作農ではなく雇用された農民ということだ。
 ワイト島というと、わたしの世代では1969年(昭和44)の米国ウッドストック・フェスにつづき、翌1970年(昭和45)に開催された第3回ワイト島音楽フェスを、すぐに想い浮かべてしまう。もちろん、これらの音楽祭を子どものわたしがリアルタイムで楽しんでいたわけではなく、のちにさまざまな録音盤や映像記録から知って、追体験的にイメージされたものだ。いまでこそめずらしくなくなったが、学生時代にワイト島におけるマイルス・デイビスの演奏を、ブートレグで入手したときは狂喜したものだ。
 でも、ワイト島=音楽フェスのイメージが拡がったのは70年代以降であり、それまではおそらくワイト島はビクトリア女王の第2宮殿オズボーン・ハウスの存在と、1901年(明治34)1月に同女王がここで死去したことのほうが、よほど広く知られていただろう。エリザベス・サンダースの父親トム・サンダースは、このオズボーン・ハウスに雇われたビクトリア女王の宮殿農民だったらしい。エリザベス・サンダースは幼年時代、庭園で遊んでいるところをビクトリア女王に遭遇した経験を証言している。
 エリザベス・サンダースというと、わたしなどはまず大磯Click!の駅前にある旧・岩崎別邸Click!のエリザベス・サンダース・ホームClick!を一義的に想起する。もっとも、わたしは子どものころ、同ホームに入りこんでセミを追いかけていた遊び場のひとつであり、また地元で参加していたボーイスカウトのなにかの催しで、小さなかわいいおばあちゃんになっていた、澤田美喜Click!に会ったことがあるから印象深いのであって、現代ではほとんど忘れ去られた名称ではないかと思われる。1997年(平成9)にノーベル書房から出版された、大南勝彦『エリザベス・サンダース物語』の「はじめに」から引用してみよう。
  ▼
 そして取材の一方で私が痛感して来たのは、現在二十代の若者達には、既に大磯のサンダース・ホームの存在も、沢田美喜さんの業績も全く知られていないという事実であった。/一つの国が戦争に敗れる。占領軍が駐留する。そして占領軍兵士と敗戦国の女性との間に不幸な子供達が生まれる……沢田美喜さんはその子供達を黙って見ていることが出来なかった……そうしてサンダース・ホームは誕生した。しかし「歴史の区切り点」を打つことをしないこの国で、「ホーム」の歴史は忘れ去られようとしている。
  ▲
 さて、エリザベスは成長すると、ある程度の高等教育を受けた教養のある当時の英国女性が選ぶ、家庭教師と乳母(ナヌィー)のふたつの職業のうち後者を選んでいる。そして、三井物産のロンドン支店に勤務していた三井高精(たかきよ)・勇夫妻の間に生まれた、三井高国の乳母として雇われることになった。母親の勇は身体が弱く、伏せっていることも多かったようなので、とてもひとりでは息子を育てる自信がなかったらしい。
 
 英国における乳母(ナヌィー)と、日本の乳母とはまったくスタンスが異なる。英国の乳母の地位は、しつけや教育のいっさいを任された実母とほとんど変わらない存在だ。生まれたあとの高国の成長は、ほとんど乳母のエリザベスとともにあった。だから、1913年(大正2)に三井高精一家が日本へもどるとき、4歳になっていたひとり息子の高国はエリザベスと離れたがらず、1年の約束で彼女は日本へ同行することになった。
 実母の勇は、身体が弱かったせいもあるのだろう。日本にやってきたエリザベスは、1年の約束が5年になり10年になってしまった。つづけて、同書から引用してみよう。
  ▼
 英国が社会慣習として育んできたナヌィーとしての誇り高さや、教育姿勢を、エリザベスも身に備えていた。このことは、一般の家庭ならともかく、男爵であり、三井財閥十一家のうち、本家の一つ室町家という格式の高精一家にとって、むしろ都合のよい面がなくはなかった。高国の躾について、時に頑固に譲らず、高精・勇夫妻とぶつかることもあったが、それが高国への愛情ゆえであることを、夫妻は承知していた。それに、高精は三井経営陣の一人として多忙で、家の中のことや高国については、勇に任せ切りであった。ところがその勇が病弱であることから、自然、エリザベスを頼ることになる。
  ▲
 やがて、1926年(大正15)に勇が病没すると、エリザベス・サンダースが実質上、三井家における“母親”の立場になってしまい、英国へ帰国する機会がますます遠のいた。ワイト島の両親が死去したときも、彼女は日本を離れようとはしなかった。1941年(昭和16)に、高国は斯波貞と結婚をするが、わずか8ヶ月後の同年の暮れに新妻の貞が肺結核で急死すると、家政をとり仕切るのは、またしても70歳になるエリザベスの仕事となった。
 日中戦争がはじまって以来、日本は英国との関係が徐々に悪化しつづけ、1940年(昭和40)にはその対立が決定的となっていた。それでもエリザベスは英国へ帰国しようとはせず、高国のそばで暮らしつづけている。翌1941年(昭和16)に太平洋戦争がはじまると、“敵性外国人”Click!であるエリザベスはもちろん、三井家とその周辺の人々には特高Click!による尾行がついた。また、このころになると三井家の使用人たちから、エリザベスは“敵国人”ということで疎外・排斥され、屋敷内では孤立感を深めていった。
 
 高国は、父親との確執から1943年(昭和18)2月に渋谷区鉢山町24番地に家を購入し、親しい人々や息子までを住まわせているが、邸内で孤立しがちなエリザベスのことも考慮したのだろう、彼女も渋谷の家に移らせている。高国は、この家から平河町の三井家へ“出勤”することも少なくなかった。エリザベスはここで体調を崩し、検査の結果、大腸癌であることが判明すると、1944年(昭和19)10月に下落合の聖母病院に入院して手術を受けた。だが、高国もほぼ同じ時期に身体を壊し、母親・勇や妻・貞の死因となった同じ肺結核に罹患していることが判明する。ふたりはそろって、渋谷の家で病臥することになった。
  ▼
 エリザベスは二階の角の洋室に、高国は同じ二階の和室に寝かされた。エリザベスは時折、/「高国、マイ・ボーイ――」/と高国の名を呼び続けたが、患部の痛みを訴えるエリザベスのかたわらに、高国を寝かせることは出来ない。高国の体調が良い時に、チエとトモが彼を支えるようにして、エリザベスの部屋に連れて来た。そういう時、二人は手を取り合い、エリザベスは涙を流しながら語り続けた。それは、日本語に英語が混じる奇妙な会話であった。時にその会話は、英語だけになることもあった。
  ▲
 三井高国は敗戦の翌年、1946年(昭和21)7月26日に、37歳で肺結核のために死亡した。それからわずか60日余ののち、エリザベスは急激に衰弱して同年10月3日、高国のあとを追うように聖母病院で死去している。彼女は火葬ののち、横浜の「外人墓地」へ埋葬された。
 エリザベスが残した遺産は、5万円に達していた。1945年(昭和20)の物価指数にもとづいて計算すると現代では約1億円だが、太平洋戦争がはじまる直前の1940年(昭和15)の物価指数で計算すると、実に約2億円ほどの預金高となる。エリザベスは三井邸で質素に暮らし、ほとんどプライベートな外出や買い物をしなかったせいもあるのだろう、給与のほぼ全額を貯金しつづけていたと思われる。
 
 
 三井家のエリザベスの遺産が、大磯駅前の岩崎別邸に澤田美喜が計画中だった、混血孤児施設の創立資金として寄付されることになる経緯には、さまざまな偶然や人間関係の綾糸が介在している。詳細は、本書『エリザベス・サンダース物語』を読んでいただきたいのだが、大磯にエリザベス・サンダース・ホームが設立されるのは1947年(昭和22)10月なので、ちょうど下落合の聖母病院における彼女の死から1周忌を迎えるころのことだった。

◆写真上:1963年(昭和38)に再築のチャペル横にあった、聖母病院西側のパティオに向かう遊歩道。現在は同病院の全面リニューアルにより、この風情は存在していない。
◆写真中上:左は、聖母病院に残されたエリザベス・サンダースの死亡診断書。右は、1997年(平成9)出版の大南勝彦『エリザベス・サンダース物語』(ノーベル書房)。掲載写真のうち、モノクロの画像は同書より。
◆写真中下:左は、三井高国を抱くロンドン時代のエリザベス・サンダース。右は、英国へもどらず戦時中も日本で暮らしつづけた晩年のエリザベス。
◆写真下:上左は、高国とエリザベスが死去直後1947年(昭和22)の空中写真にみる渋谷区鉢山町24番地。上右は、鉢山町にある邸跡の現状。下は、大磯の岩崎別邸に設立されたエリザベス・サンダース・ホームの正門内にある記念碑(左)と澤田美喜のレリーフ(右)。