林武Click!の気になる作品に、1921年(大正10)の制作といわれる『武蔵野風景』がある。同作の画面右端に、朱筆で制作年と署名があるのだけれど、それを拡大してみると「千九百二十一年 林武」とは、どうも読めない。「千九百」まではそのとおりなのだが、次の「二」を消して「≠」とし、つづけて「廿七年 林武」と書いてあるようにも見える。ただし、所有者は1921年作品と規定しているが、その根拠はなんだろう。
 『武蔵野風景』が1921年(大正10)の作品とすると、翌1922年(大正11)に林武は、寺斉橋Click!の南側の地番である上落合725番地界隈へと引っ越してくるのだが、それまでにも落合地域の風景が気に入って、作品のモチーフに選んでいるのではないか。換言すれば、落合地域の風情が気に入ったからこそ、林重義Click!アトリエの筋向いにあたる上記の住居へ引っ越してきているのではないか?……というのが、きょうのテーマだ。
 なぜなら、林武はこのあと1924年(大正13)の初夏に制作した『下落合風景(仮)』Click!や、長崎4095番地Click!へ転居後の1926年(大正15)にも、目白文化村Click!の中央生命保険倶楽部(旧・箱根土地本社)を描いた『文化村風景』Click!など、落合地域の風景画を好んで精力的に描いているからだ。転居後にも、落合地域へやってきては描いていることから、上落合へ転居してくる以前にも付近の風景が気に入り、モチーフとして制作しているのではないかという想定は十分に成り立つ。
 林武の上落合生活は、わずか2年余にすぎないのだが、起伏の多い落合地域の風情が気に入って、林重義の隣りに住みついているのではないか。また、本作が1927年(昭和2)の制作だったとしても、長崎町からわざわざ下落合へ足を運んで前年に『文化村風景』を制作していることを考慮すれば、画面に描かれている場所へも写生の足を向けているかもしれない。つまり、本作が1921年(大正10)だろうが1927年(昭和2)の制作であろうが、どちらでも林武が「下落合風景」を描いた可能性があるということだ。
 さて、『武蔵野風景』の画面を詳しく見てみよう。(冒頭写真) 画面右手には丘陵がつづき、その麓に沿って三間道路らしい道筋が画面の奥へ向かい、「S」字型に大きくカーブを描くように通っているのがわかる。正面の丘陵は、まるで半島のように突き出ており、その手前には小さな谷間あるいは崖地でもあるのか、丘陵側へ切れこんだ草原が見える。光は明らかに左手から当たっており、画面の左または左背後が南側と考えて、ほぼまちがいないだろう。


 手前には、道路に日陰をつくる並木道がつづき、画面右には住宅の生け垣と思われる、手入れをされた低木が植えられている。道の正面に見える、光の当たる草原には電柱らしい垂直に立ったポール状のものが1本描かれており、その向こう側には灰青色がかった家の屋根や壁、ないしは擁壁のようなものが垣間見えているが、手前の並木に隠れてよくわからない。そのすぐ左手には、丘の斜面に黄土色の絵具が塗られているので、ひょっとするとバッケ(崖)Click!が口を開けているのかもしれない。
 1921年(大正10)の翌年、林武が住むようになる上落合725番地を基準にすると、その周辺でこのような情景が見られるのは、古くは「台山」と呼ばれ、丘上に研心学園Click!(城北学園/目白商業学校)が建てられてからは「研心山」と呼ばれるようになった、中井御霊社Click!のある目白学園の丘Click!あたりのような印象を受ける。1921年(大正10)現在、丘上に研心学園(1923年創立)は建設されておらず、目白崖線ではもっとも標高が高い丘(37.5m)として、「台山」と呼ばれていた時代だ。雑木林の中に、御霊社Click!の茅葺き屋根が見え隠れしているような状況だったろう。
 わたしは、林武の『武蔵野風景』を観て、真っ先に1枚の写真を思い浮かべた。1933年(昭和8)ごろに撮影されたその写真は、麓を通る道筋から「研心山」をとらえたもので、2003年(平成15)に発行された『おちあいよろず写真館』(コミュニティ「おちあいあれこれ」)の中に収録されている。道の手前には、犬を散歩させていると思われる近所の女性が写り、正面にはバッケ(崖)が大きな口を開けている。


 だが、この撮影場所は目白学園の西側、つまり画面の左手が上高田の「バッケが原」Click!に接した道筋だと思われ、中井御霊社や研心学園(城北学園)は右(東側)の丘上に建っている。この道をまっすぐいくと、葛ヶ谷Click!(現・西落合)をへて妙正寺川に架かる四村橋Click!をわたり、すぐに和田山Click!(現・井上哲学堂Click!)へと突き当たることになる。鎌倉時代の前より、和田氏が館を築いていたと思われる和田山に通うこの道もまた、目白崖線の南側に通う中ノ道Click!(現・中井通り)と並び、重要な鎌倉街道のひとつだったのだろう。
 さて、『武蔵野風景』でわたしが想定している風景の位置は、目白学園が建つ丘の西側、すなわち上高田に面した側ではなく、南側の中ノ道沿いだ。大正中期という制作年を想定すると、中ノ道沿いには人家もまばらで、妙正寺川沿いには鈴木良三Click!が描く『落合の小川』Click!(1922年)に見られる、東京電燈谷村線Click!の送電線である木製高圧線塔は建てられていただろうが、林武が1924年(大正13)の初夏に描いているとみられる、『下落合風景(仮)』の高圧線鉄塔はいまだ存在していない。そして、画面のように道路が大きく「S」字のようにカーブを描き、目白崖線の丘が半島のように画面の左(南側)へ突きでて見えるのは、下落合(現・中井2丁目)の麓に通う中ノ道の路上からだ。
 そして、正面に見える丘の中腹から上にかけて描かれた、黄土色のバッケ(崖)と思われる地形が見える位置は、当時の地番でいうと下落合2017番地に沿った中ノ道の路上から、西を向いて描けばこのように見えたかもしれない。見えているバッケは、1921年(大正10)の1/10,000地形図にも記号で収録されている、四ノ坂と五ノ坂との間にある崖地だ。のちに、林芙美子・手塚緑敏邸Click!や武藤邸が建設されることになる。現在の情景でいうと、蘭塔坂Click!(二ノ坂)と三ノ坂の間あたりにイーゼルをすえ、林武は道なりに西を向いて描いている……ということになる。


 上落合へ転居してくる以前、林武は代々木の借家に家族とともに住んでいた。そこを訪れていたのが、二科の画家仲間で上落合725番地に住んでいた林重義だ。林武は関東大震災Click!の前年、1922年(大正11)に落合地域へと引っ越してくるのだが、林武は林重義宅の筋向いの家を借りている。『武蔵野風景』が1921年(大正10)の制作だとすれば、林武が代々木から落合へ移ろうとする、引っ越し間際の時期、すなわちモチーフとしての落合風景に惹かれはじめたころに描かれたと考えることができるのだ。

◆写真上:1921年(大正10)に制作されたとされる、林武の『武蔵野風景』。
◆写真中上:上は、1933年(昭和8)ごろに撮影された旧・下落合西端の上高田側に面していたバッケ(崖)。2003年(平成15)に発行された『おちあいよろず写真館』(コミュニティ「おちあいあれこれ」)より。下は、戦後にバッケが原側から撮影された目白学園の丘。
◆写真中下:上は、1921年(大正10)の1/10,000地形図で想定する『武蔵野風景』の描画ポイント。下は、四ノ坂下から西を向いて写した中ノ道の現状。
◆写真下:上は、1936年(昭和11)の空中写真にみる中ノ道の描画ポイント。下は、目白学園に通う学生たちがもっとも利用する五ノ坂下あたりの現状。