わたしが学生時代、二度の山手空襲Click!にも焼けなかった長瀬邸Click!は、近衛町30号Click!すなわち下落合1丁目416番地(現・下落合2丁目)に建っていた。わたしも実際に目にしているのだが、印象が薄いのは邸を取り囲む屋敷林が濃くなり、周囲の道路から屋敷が見えにくくなっていたからだ。樹間から垣間見える邸は、建築時の薄いブルーグレイの外壁とは異なり、白っぽい色合いをしていたように記憶している。
 近衛町Click!の新しい長瀬邸は、1937年(昭和12)3月に竣工しており、建坪184坪の巨大な西洋館だった。それ以前の旧邸は、1933年(昭和8)に学習院昭和寮Click!を上空から低空飛行で撮影した、学習院に残る空中写真Click!を見るかぎり大きな2階建ての和館だったのが確認できる。おそらく、近衛町が売り出されてからほどなく第30号敷地を入手し、大正末に建てられているのだろう。新たに清水組の手で建設された長瀬邸は、従来の和館とは外観が正反対のモダンな木造2階建て西洋館で、大きなバルコニーに広い芝庭を備え、玄関に向かうエントランスには「水蓮プール」が設置されている。
 1937年(昭和12)に竣工した新・長瀬邸は、大きな屋根を和瓦で葺き、外壁は先述のようにブルーグレイで塗られていた。洋室は、チーク材や梻(たも)、桐(きり)、グレイウッドが用いられ、床は寄木貼り、和室は檜(ひのき)に杉、米栂(つが)などが使われている。だが、外観が洋風にもかかわらず、洋室は居間、書斎、客間、客間控え室、化粧室の5室しかなく、残りの10部屋はすべてが和室だった。芝庭に散在する、まるで石庭を思わせる名石類の配置や、先の水蓮プールなど、和と洋とが微妙に混合した独特の風情をしていた。
 門を入ると、すぐ目の前に水蓮プールがあり、季節には水面に紅と白の花々を咲かせていただろう。プールは、内面や底がモザイクタイル貼りで、底の中央が深く落ちこんでおり、南側に設置されたテラコッタ製のブタ顔から給水されていた。なぜ給水が、獅子顔でも龍首でもなくブタ顔なのかは、長瀬さんに訊いてみないとちょっとわからない。花王石鹸のイメージだと、三日月マークの商標顔でもいいはずなのだけれど……。
 

 水蓮プールの前は、玉砂利を敷き詰めた広場のような風情で、そのまま右手の屋敷東南端に設置された玄関までつづいていた。玄関を入ると、すぐ前が2階まで吹き抜けとなっている広間があり、目の前が来客用の「取次室」になっている。訪問者はここでしばらく休息し、2階の階段脇にある広い客間(応接室)へ通されたのだろう。1階の廊下を奥へ進むと、8畳敷きに大きな押し入れ収納が付属した女中部屋がある。当時の女中部屋にしてはかなり広く、同邸の居間や座敷と同じサイズであり、庭に面した茶の間よりも広い。
 また、1階の奥には長瀬邸ならではの面白い工夫が見られる。化粧室Click!は、当時のブームだったのでそれほどめずらしくはないが、アイロンかけやミシンかけ専用の「アイロン室」、洗濯を行なう乾燥室が付属した「洗濯室」が設けられていた。そして、これらの部屋は、風呂場も含めて総ガラス張りの平面屋根で造られており、陽光をふんだんに取り入れられるような設計が施されていた。風呂場は、洗い場と上り湯のふたつに分かれており、それぞれに湯船が設置されていて、いずれの風呂場からも透明なガラス張りの天井を透かして、樹木や空が見えるようになっていた。
 1階をさらに奥へ進むと、子どもたちの勉強部屋(和室)がふたつ配置され、その西側には土蔵ならぬ2階建ての倉庫が設置されている。外観が洋風のため、あえて土蔵ではなく洋風デザインにマッチするよう倉庫としたものだろう。



 2階は、先述した階段脇の大きな客間のほか、客間の控え室と書斎が洋間であり、残りの3部屋が和室で東西方向に配置されている。2階で特徴的なのは、広くて長いバルコニーだろう。南庭に面したバルコニーは、東側の玄関上から西側の倉庫まで、ほぼ長さ25mにわたってつづいており、邸の南側にあった学習院昭和寮はもちろん、母家と倉庫の間からは北側に広がる近衛町の全景が見わたせたかもしれない。冒頭写真では、2階の座敷と次の間のバルコニーに、縞模様のオーニングテントが拡げられている。
 高麗芝を用いた南側の芝庭にも、面白い工夫が施されている。洋間だった居間の前には、コンクリートのテラスの向こうに洋風の花壇が設置されていたが、和風の茶の間や座敷の前には、先述したように石庭を思わせる石が配置されていた。この庭の和と洋とを分ける境界には、相互の庭が目に入らないよう背の低い生垣が設けられ、自然石で造作された手水鉢が置かれている。また、広い庭園はコンクリートの塀で囲まれていたが、洋風の居間側は屋敷林が薄く、和風の茶の間や座敷側は屋敷林が濃く植えられている。これは明らかに、学習院昭和寮のモダンな南欧風の建築群を意識したもので、洋の側の居間と庭は、昭和寮舎監棟のモダンな意匠を取りこみ“借景”としているのに対し、和の茶の間と座敷は、昭和寮本館の建物ができるだけ隠れるように、密度の濃い樹木が植えられている。

 
 長瀬邸の庭をとらえた写真を見ると、塀の向こう側に学習院昭和寮の各建物が透けて見えており、昭和初期の近衛町に展開した風景を知るには、願ってもない貴重な写真となっている。できれば、2階のバルコニー上から南北の風景を撮影した写真が残っていれば、さらに貴重なものとなっただろう。長瀬邸は現在、いくつかの敷地に分割されて低層マンションなどが建っているが、できれば学生時代にもどって、しげしげとこの長瀬邸を樹間から眺めてみたいものだ。

◆写真上:南の芝庭から撮影された、1937年(昭和12)3月竣工の長瀬邸(新邸)。
◆写真中上:上左は、1933年(昭和8)に撮影された長瀬邸(旧邸)。上右は、1947年(昭和22)撮影の空中写真にみる戦災からまぬがれた長瀬邸。下は、近衛町30号の敷地に建っていた長瀬邸の全体フカン図で下が北側。
◆写真中下:上は、テラコッタ製のブタ顔が給水するモザイクタイル貼りの水蓮プール。中は、座敷から眺めた庭で“借景”にわずかに見えているのは学習院昭和寮の舎監棟の塔。下は、長瀬邸の1・2階平面図で右手が北側。
◆写真下:上は、2階の階段脇にある広い客間。下左は、居間のテラスと茶の間の和室を区切る生け垣と手水鉢。下右は、居間から眺めたテラスの様子で昭和寮本館が垣間見える。バウハウス風のパイプ椅子やパイプテーブルは、ドイツからの輸入品だろうか。