下落合で行われた映画ロケについて、これまで何度か記事でご紹介Click!してきた。それらは、ほとんどが現代劇だったのだが、御留山Click!の相馬邸Click!正門、すなわち「黒門」Click!の前で行われていた時代劇映画のロケ隊が、はたしてどこからやってきたのかがきょうのテーマだ。地元の伝承によれば、阪妻Click!の映画撮影も行われていたらしい。
 ずいぶん前になるが、大久保百人町に住んだ梅屋庄吉Click!が自宅敷地に映画スタジオを設置し、また隣接する戸山ヶ原Click!で現代劇や時代劇を問わず、盛んにロケをしていた様子を記事にしている。日本初の映画プロダクションなのだが、中国革命を支援した梅屋の映画制作は明治後期がメインなので、下落合でのロケはそのもう少しあとの時代だ。なによりも、相馬家Click!が赤坂から下落合へ転居したのは1915年(大正4)であり、その少し前から邸が竣工していたとしても、ロケは相馬家に断って実施された同年以降と考えたほうが自然だろう。
 さて、大正初期に下落合の近くでロケを敢行するような、映画の制作プロダクションが存在していただろうか? かなり長い間、該当する資料を探していたのだが、下落合の南側に隣接する上戸塚に、その答えがあった。大正の初期から昭和の最初期ぐらいまで、映画の撮影所(スタジオ)が早稲田通りに面して存在している。もっとも、撮影所は今日のように映画スタジオなどとは呼ばれず、当時は明治期と変わらずにタネトリ(種取)と呼ばれていた。場所は戸塚村上戸塚135番地(現・高田馬場4丁目)で、現在の早稲田予備校13時ホールの裏あたり、高田馬場停車場から歩いても1分ほどの距離だ。
 神田の小松商会が経営していたタネトリについて、戸塚第三小学校で発行された小冊子『周辺の歴史-付 昔の町並み』(1995年)の「撮影所」から引用してみよう。
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 高田馬場四丁目十一番地には、早稲田通りに面して、十軒の長屋作りの商店が並んでいました。この長屋の奥行きは六間(十・八メートル)裏に細い路地が、長屋の勝手口を繋いでいる、私の家の裏の辺に手押しポンプの井戸がありました。その路地の裏。約六百坪(一九八〇平方メートル)に、大正初期から末頃まで、松竹の大谷竹次郎氏と親交のあった、神田和泉町の小松商会(香具師)が経営する、映画の撮影所(当時は種取と言っていた)がありました。阪妻、栗島すみ子、伏見直江等、往年の名優が撮影をしたそうです。/中村長生さんの屋敷の門前は、周囲の椚林と名主屋敷の門が、時代劇撮影にマッチしたのかよくあり、子供だった長生さんは「タネトリ現場」を何回も見たそうです。
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 この文章の筆者は、十軒ならぶ商店のいちばん西側に位置する、「木村屋パン店」で生まれ育っている。
 小松商会の香具師は、おそらく映画会社から独立した独自のレンタルタネトリ(撮影スタジオ)を建てて商売をしていたのだろう。阪東妻三郎や栗島すみ子の名前があるので、このスタジオでは時代劇の撮影も多かったにちがいない。

 
 早稲田通りのこの位置であれば、なにもない野原(のっぱら)のチャンバラ撮影なら南側の戸山ヶ原Click!をすぐに利用でき、また武家屋敷街を想定したシーンの撮影なら、電柱や電線をうまく樹木や竹竿で隠す工夫Click!をしている下落合の相馬邸が活用でき、さらに大正後期から昭和初期の現代劇であれば、目白文化村Click!や近衛町、アビラ村など大正の最先端をいくモダンな街並みClick!を、まるで映画のセットか書割のように自在に使えたのだ。映画の作品ごとに、いちいちロケハンで事前にロケ地を探す必要がなく、近隣ですべての撮影が間に合ってしまうこのスタジオは、おそらくコスト面でも映画会社に重宝されただろう。
 やがて昭和初期になると、このタネトリは閉鎖されたか、どこかへ移転してしまったようだ。それは、大正末から昭和初期にかけ映画各社が京都の太秦へ、おもに時代劇の撮影スタジオを次々に建設したことと無関係ではないように思われる。つづけて、同小冊子から引用してみよう。
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 昭和になって、何処へ移転したのか、荒れ放題の跡地は、屋根のない板を敷き詰めた部分と、桐の木・紅葉の木・竹藪があり、近所のガキどもの絶好の遊び場でした。その一角に合田さんという差配が、昭和十年頃まで住んでいて、時々子供達を叱りに出てきました。/その空き地も昭和十二・三年頃には、二階建のアパートが建ち並び、遊び場は、だんだん狭くなりました。/十軒の商店は、駅よりの端が渥川自転車店、小滝橋寄りの端は、私の家、木村屋パン店です。
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 1936年(昭和11)の陸軍が撮影した空中写真を見ると、戸塚町135番地には筆者が書いている「十軒の長屋作りの商店」の裏に、かなり広い空き地を確認することができる。この600坪ほどの土地に建っていたタネトリ(撮影スタジオ)を、1918年(大正7)に作成された1/10,000地形図で確認すると、“」”字型をしたかなり大きな建物だった様子がうかがえる。
 1918年(大正7)の当時、周辺はいまだ空き地だらけで南側につづく丘をひとつ越えれば、映画撮影にはもってこいの戸山ヶ原が拡がっていた。陸軍の旗竿に赤旗が掲揚されず、大久保射撃場Click!で実弾演習Click!のない日は、山手線の西側に拡がる広大な野っ原で周囲を気にする必要もなく、自由に時代劇の撮影ができただろう。大久保百人町の北側に隣接する陸軍科学研究所は、まだ数棟の建物しか建設されておらず、北側へ大きく敷地を拡げてはいなかった。
 上戸塚135番地のタネトリから、ロケ隊は撮影機材や俳優たちを乗せた自動車で移動して、下落合までやってきたのだろう。当時の舗装されていない道路事情を考慮すると、下落合の坂道を重たい撮影機材を載せてクルマで運ぶのは、かなりたいへんだったのではないだろうか。戸山ヶ原での撮影とは異なり、住宅街の下落合での撮影には多くの近隣住民が“見学”にやってくるため、撮影スタッフは彼らが画面に映らないよう、野次馬の整理がたいへんだったにちがいない。


 いまだ活動弁士が活躍する無声映画の全盛時代だったので、「まあ、奥様ったら、活動のバンツマよバンツマ、ご覧あそばせ! あら、田村正和よりいい男じゃなくて 」というような、周囲の雑音を気にする必要はいっさいなかったのだろうが……。

◆写真上:上戸塚135番地にあった、タネドリ(スタジオ)跡の現状。
◆写真中上:上は、1915年(大正4)に赤坂から移築を終えたとみられる相馬邸の正門(黒門)。下は、当時のスターだった阪東妻三郎(左)と栗島すみ子(右)。
◆写真中下:上左は、1918年(大正7)の1/10,000地形図にみる上戸塚の撮影所。上右は、1929年(昭和4)の「戸塚町全図」にみる同所。下は、1936年(昭和11)に撮影された空中写真にみる撮影所跡とその周辺。
◆写真下:上は、『周辺の歴史-付 昔の町並み』(戸塚第三小学校/1995年)に掲載された濱田煕・作図による撮影所があったあたりの「十軒の長屋作りの商店」(1938年現在)。下は、同所の現状で右端の街灯のある位置が元・木村屋パン店。