九条武子の兄であり、真宗本願寺派Click!の僧侶だった光瑞の声音と、彼女の声とがそっくりだったのを短歌の師である佐々木信綱Click!がのちに証言している。目をつぶって声を聞けば、どちらがどちらだかわからないと書き、佐々木は「男子たらしめば」とか「誤つて婦人と生まれた」とまで書いている。
 1929年(昭和4)に実業之日本社から出版された佐々木信綱・編の『九條武子夫人書簡集』から、佐々木の証言を引用してみよう。
  ▼
 (前略)僕は、武子夫人をして男子たらしめばといふ感じを起した。それは、夫人の声音から、話の調子も気分も、令兄光瑞師とあまりよく似ている。いや、眼をつぶつて聞けば、光瑞師その人の如き感があつた。(中略) あの堂々たる体躯、端麗なる風姿、その気魄、その識見、その文章、その弁論、殊に雑談に至つては、男子としての光瑞師は、まさしく婦人としての武子夫人である。(中略) また誤つて婦人と生れた、少くとも、法燈の奥深きところあまりに由緒の尊とすぎるところに生れた超人に武子夫人がある。
  ▲
 この証言から、九条武子の声は女性にしてはかなり落ち着き、兄の声と聞きちがえるほど低音だったことが想像できる。「男子たらしめば」とか「誤つて婦人と生まれた」などと、故人に対して明らかに失礼な表現だが、九条武子を知る人間には、それがすんなり納得できてしまう特徴を彼女が備えていたからこそ書ける表現なのだろう。また、そんなことを書いても故人には怒られない感触が、親しかった佐々木信綱にはあったにちがいない。九条武子もまた、親しくなった人物を相手にするときは遠慮のない性格だったらしく、ズケズケと「失礼」ととられかねない冗談を平気でいっている。
 下落合753番地に住んだ九条武子は、同地番の北隣りに住み太平洋画会を主宰していた帝展の満谷国四郎Click!と親しかったにちがいない。毎年、帝展を観賞していたらしい彼女は、和田英作Click!や横山大観とは特に親しかった様子が手紙にも書かれているが、隣家同士の満谷国四郎とも交流はあっただろう。帝展画家の有力なパトロンだった今村繁三Click!から、“小使いさん”にまちがえられた満谷国四郎Click!は、洋画界ではなにかと“ハゲ”をトレードマークClick!にして“自慢”していた画家だ。そんな人物が隣りに住んでいたら、彼女がそれをそのまま黙って見すごしておくとはとても思えない。
 そう、九条武子はなにかとハゲ頭について、お茶目で「失礼」なことをいっているのが、何通かの手紙に記録されている。しかも、親しいハゲ頭の人物に対しては面と向かって突っこみを入れている場面もあり、彼女がハゲ頭を見るとひと言いじりたくなる、“ハゲ好き”だったことがうかがわれるのだ。
 
 早朝5時に起きて、家の内外の掃除をはじめる九条武子Click!は、満谷邸とは北西の敷地が接しているので、庭掃除をしているときなど生け垣ごしに挨拶を交わしたかもしれない。竹ぼうきで落ち葉を集めながらお互いを認めると、若い女性が大好きな満谷国四郎Click!は常に満面の微笑みを浮かべながら、さっそく生垣ごしに挨拶をしただろう。
 「これは九条さん、おはようございます」
 「まあ満谷さま、おはようございます。朝から、ご精がでますのね」
 「きょうも秋日和で、気持ちがいいですな。もう帝展はご覧になりましたか?」
 「ほんとうに気持ちのよろしいこと。お陽さまが、あちらこちらで輝いてますのよ」
 「あ~はっはっは、こりゃ朝から一本とられましたな」
 「自画像のお作品※、帝展ではまぶしゅうございましたわ。オ~ホホホホ」
 ……というような会話が交わされたかどうかは不明だが、彼女は隣人に出会ったら、頭を見ながらなにかいじりたくてムズムズしていたのではなかろうか。w
 ※満谷国四郎のモチーフは風景がメインであり、自画像はあまり描いていない。
 九条武子は1927年(昭和2)の夏、帽子をかぶったハゲ頭から流れ落ちる汗に難渋していた高島米峰へ、書斎のデスクに置かれたインクを乾かすプロッターの吸い取り紙を、帽子の中に仕こんで汗を吸着すればいい……などと、面と向かってまことしやかに奨めている。そんなことをいわれてしまった高島米峰当人の証言を、同書から引用してみよう。

 
  ▼
 九条さんは、謹厳の中にも滑稽を解し、洒落を解し、時に皮肉を浴せることさへ心得て居られたのであります。(中略) 私は御覧の通り頭が禿げて居ますが、夏になると汗が流れて始末が悪い。帽子を被つて居る時は流れ出ないが、帽子をとると溜つて居る汗が、堤の切れたやうに一度にどうツと流れて困るといふ実感を話しましたところ、九条さんは、「それならば帽子の中へ吸取紙を入れてお置きになつてはいかが」、と言つて互に大いに笑つたことがありました。
  ▲
 このあと、九条武子は高島あての手紙には、「御つむりの御汗に、何か御良策つき候や」と書き添えることになる。彼女の頭の中では、帽子の中へプロッターごと吸い取り紙を入れ、帽子をとるたびにそれをハゲ頭へ押し当てて使う、高島米峰のおかしな姿が浮かんでいたのではないだろうか。「御良策つき候や」の問いの裏には、自分の思いつきを超えられるアイデアはございませんでしょ?……というようなニュアンスが感じられ、彼女は書斎で手紙を書いてプロッターを使いながら、お腹をよじって笑っていたのだ。
 こののち、高島米峰のハゲ頭は、九条武子が突っこみを入れる格好の標的になっていく。なにかというとハゲについて、手紙の最後に一筆書き添えるようになった。高島が自著の随筆集『思ふまゝ』を九条武子へ贈った際も、待ってましたとばかり“ハゲ好き”な彼女の餌食になっている。『思ふまゝ』の巻頭には、和田英作が描いた高島の似顔絵が掲載されていたが、九条武子は「巻頭のさし絵は、少し御気の毒にお見あげいたし、後世の為、申のこし度いやうにも思はれます」などと、さっそく返信に書いている。つづけて、高島自身の証言を聞いてみよう。
  ▼
 (前略)「思ふまゝ」の口絵に、和田英作君が書いてくれられた私の似顔絵を掲げたのでありますが、それが実物以上の大禿げになつて居ましたので、可愛想だと思はれたのでせう。後世の為にこんなに禿げてはゐなかつたといふことを、申のこしてやりたいとか、美男にうつさせて貰うものをとか、大いに同情してくれられた訳であります。
  ▲


 随筆集の巻頭に、和田英作が描く大ハゲの高島像を見つけたとき、文机の前で腹をよじってククククッと大笑いをこらえる、九条武子の姿が目に浮かぶようだ。同時に、さっそく手紙で突っみを入れてやろうと、すぐにもプロッター片手に筆をとったかもしれない。おそらく、高島米峰は彼女と顔を合わすたびに、なにかおつむについて冗談をいわれていたのではないだろうか。そんな彼女が、なにかというとハゲ頭を自慢にしていた、隣りに住む満谷国四郎を放っておくはずがないのだ。さて、次回は関東大震災Click!の大火流から逃れた、九条武子の避難コースについて…。

◆写真上:午前5時に起床して、下落合753番地の自邸の庭を掃除する九条武子。
◆写真中上:左は、1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」にみる満谷国四郎アトリエと九条武子邸。右は、1936年(昭和11)の空中写真にみる九条邸と満谷邸。すでにふたりは死去して、この下に住んではいない。
◆写真中下:上は、アトリエで撮影された満谷国四郎のおつむのアップ。下左は、満谷国四郎アトリエ跡の現状。下右は、書斎の机上には不可欠だった吸い取り器=プロッター。
◆写真下:上は、下落合の野良ネコとともに庭の芝刈りをする九条武子。下は、九条武子が早朝に竹ぼうきで掃除をしていた南面の庭あたり。