落合地域とその周辺域には、「龍の伝説」があちこちに残っている。ときに、龍はヘビと習合して大蛇伝説や、農産物を害獣から守る蛇神伝説と結びついたりしている。このサイトをはじめた最初期に、七曲坂のヤマタノオロチ伝説をご紹介Click!したけれど、これは坂下にある氷川明神社Click!(クシナダヒメ)の出雲神話と、七曲坂の形状からくる大蛇伝説と、さらに湧水源に奉られた龍神伝説とが混合して生まれた、後世の付会物語のような気がしてならない。また、龍神を奉った湧水源や湧水池は、おもに江戸期になると弁財天Click!の信仰と習合して、弁天社Click!あるいは弁天堂が建立されるようになる。
 元来は、インドの蛇神であり水神だった「ナーガ」が、中国に伝わった際に「龍」あるいは「龍王」の当て字がつかわれたため、大蛇(おろち)や水神のイメージを残しつつ独特な「龍」という架空の動物が想像されたといわれている。だから、龍は大蛇と同一であり、また水神とも同体であるという信仰が、その後も長くつづくことになったのだろう……というのが、教科書的な解釈のしかただ。だが、日本にはすでに縄文時代から蛇信仰が認められ、原日本においては荒神祭とともに奉られる「龍蛇様」(出雲ケース)などに象徴されるように、少なくとも「龍」と習合する前後には大蛇信仰があったと思われる。
 また、日本では蛇=龍=水(泉)=雨(雷雨)というような祭祀の系統が顕著であり、近世に入ってから弁天(弁財天)がこの流れへ積極的に習合している。したがって、龍神を奉ってある古い社(やしろ)ないしは祠(ほこら)へ、後世に弁天(弁財天)が付け加えられている場所も多く、その代表例は相模湾の江ノ島に見ることができる。江戸期における江ノ島の物見遊山地化(大山詣でClick!帰りの観光地化)には、ややエロチックな姿で大きく開脚する弁財天が、格好の「人寄せパンダ」になっただろう。
 落合地域と周辺域には湧水源が多いせいか、あちこちに龍神が棲みついていた。龍神の移動も数多く目撃され、特に下落合の斜面や川沿いの道筋から、龍が飛翔する姿を見たという江戸期からの記録が残っている。その代表的な例として、妙正寺川沿いにおける目撃ケースから引用してみよう。1983年(昭和58に出版された『昔ばなし』(上落合郷土史研究会)へ収録されたものだ。龍神が棲んでいたのは、下戸塚(現・西早稲田)の富塚古墳Click!に建立されていた水稲荷社の境内池で、すぐ南には龍泉院という寺建立されている。
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 この水稲荷の境内には、比較的大きな池があり、そこには竜が棲んでいる。……と云われていた江戸時代の末頃のことである。ある春先の日のことです。朝から大変強い風が吹いて、池の水は波立って居りました。そのうちに、その波が大きく荒れ狂い、その中から黄金色の竜がまい上がり、空高く登って行きました。その日のことである。一人の村人がバッケガ原(目白学園の下の原)の妙正寺川で釣りをしていましたが、突然風が吹き出し、そのうちに突風が吹きまくるようになったので、とても釣りなどしては居られないと思い、帰り支度をしながら空を見上げると、雲の上に黄金色の竜がのり、江古田の方に飛んで往くではありませんか!! 村人はビックリして声を立てた途端、竜はギラギラと光る目で村人を見下ろしたそうです。村人は一目散に家に帰えり、フトンを敷いて貰ってもぐり込んで寝てしまったそうですが、三日三晩物凄い熱で死ぬ苦しみにあったそうです。
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 この目撃談はバッケが原Click!の釣り人だけでなく、稲葉の水車Click!近くの斜面からも村人が目撃した伝承が残っている。おそらく、同一時期の目撃譚ではないかとみられる。
 ほかにも、上高田村の南側にあたる池(現・中野駅北側にあった灌漑用の打越池?)から、龍が飛びだす伝承が残っている。この沼は付近の村人も近づかない、鬱蒼とした暗い湧水沼だったようで、「龍が出るからあすこへは行くな」というのが、近くに住む村人たちの“お約束”だったらしい。少し離れた角筈十二社Click!には、龍の原型と思われる蛇伝説があり、神田上水の湧水源である井ノ頭池の蛇神とも共通している。また、中野坂上には「蛇姫様」の伝承があり、社としてはその名もズバリ白金龍昇宮が鎮座している。
 ときに、湧水源や湧水池に棲みつく龍たちは、居場所を変えるための“引っ越し”をするようで、その転居を「目撃」した村人たちが、いくつもの説話を伝えたものだろう。その正体は、雨雲の切れ目に傾いた陽光があたり、雲の移動とともにそれが飛翔する龍の姿にみえたものか、あるいはつむじ風や竜巻が上空で発生し、渦を巻いて上昇するその様子を見て「昇龍」だと拝んだものか、いまとなってはいっさいが不明だ。


 一方、落合地域の北部でも、龍と白蛇伝説とが集合した湧水池のフォークロアが伝わっている。おそらく江戸期の説話だとみられ、葛ヶ谷村(現・西落合)の弁才天池にまつわる龍神(白蛇)信仰だ。1932年(昭和7)に発行された『自性院縁起と葵陰夜話』Click!から引用してみよう。
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 弁才天池のことに就て前に葛ヶ谷の起りの所に一寸申しましたが、この神泉は数ヶ所あり中央を千川浄水(ママ)(井草川)流れこゝに祀る弁才天の利益によつて四時滾々(こんこん)と清泉流れ絶えないと、旱魃の際などは此の神泉に雨請を祈る時は必ず龍神雲を呼び来つて、祈祷会の未だ終らない中に忽ち豪雨を降す甚だ霊験のあらたかな池で里人此の池に白蛇棲むと伝へました。近年耕地整理の為めその跡小川と化してしまいました、是れ旧の井草川で一名千川浄水(ママ)といひました。
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 ここに書かれている「千川浄水」は千川上水のことであり、「井草川」とはその分水流で、大正期には稲葉水車あたりから妙正寺川に注いでいた落合分水Click!のことだ。昭和期になると落合分水は暗渠化が進み、現在の目白学園西側のバッケ下で妙正寺川に流れ下っていた。

 このほかにも、落合地域とその周辺域には龍神伝説が多数残っており、それらはすべて湧水源や湧水池に住む主神(ぬしがみ)として語られている。上掲の記述にもあるとおり、日照りがつづき田畑の農作物が旱魃に襲われると、当時の農民たちは「龍」や「龍王」の旗を押し立てて祈祷会を開き、雨乞いの龍神頼みをしている。そんなときに使われた「龍王神」の筵旗(むしろばた)が、中井御霊社に現代まで伝わっている。

◆写真上:湧水源や湧水池があるところには、必ず龍神や蛇神の伝説が生まれている。
◆写真中上:蛇神が棲むといわれる、角筈十二社(じゅうにそう)の人工滝。滝も十二社池も埋め立てられ、蛇神が棲むといわれた当時の面影は皆無だ。
◆写真中下:上は、上高田にある桜ヶ池不動堂に設置された龍神手水。もうひとつ、龍の宗教的な位置づけには仏教の不動明王との習合というテーマもある。下は、目黒不動(瀧泉寺)の滝に建立されている剣呑龍。滝の龍神を奉っているのではなく、本来は龍神とは無縁な剣呑龍=不動明王を表現している。ちょうどカトリックで白百合が聖母マリアを象徴するように、剣呑龍または剣巻龍は不動明王の象徴だ。
◆写真下:中井御霊社に1棹だけ伝承された、雨乞い用の筵旗「龍王神」。