下落合4丁目1982番地(現・中井2丁目)に住んだ矢田津世子Click!は、関東大震災Click!ののち1925年(大正14)から1927年(昭和2)にかけ、身体の具合がよくない役人の父親が静養できるよう、年譜によれば郊外の「野方町大字新井56番地」から「野方町上高田216番地」に住んでいる。
 中野区に古くからお住まいの方は、上記の住所表記に「おや?」と思われるだろうか。ふたつの時代の住所表記が、そのまま併記されてしまっているので、昭和初期にお生まれの方には非常にわかりにくいだろう。前者の住所表記「野方町大字新井56番地」を、後者の「大字上高田」と同時代に合わせて表記すると、「野方町(大字)上高田(字)道南56番地」(現・中野区上高田1丁目10~11番地)のことであり、後者を当時の住所で正確に表現すれば、「同町(大字)上高田(字)道中216番地」(現・同区上高田3丁目38番地)ということになる。
 新井56番地の借家は、西武電鉄Click!の新井薬師前駅で降りると南東へ直線距離で700mほどのところにあり、同家から北東へ900mほどのところにある中井駅との、ほぼ中間点に位置する地点だ。どちらの駅へ歩いても、省線(山手線)の高田馬場駅へと出る時間は、さほど変わらなかったのではないだろうか。
 したがって、矢田津世子をはじめ家族は落合地域にも馴染みが深かったとみられ、のちに下落合へ転居するきっかけとなったのかもしれない。その当時の様子を、1934年(昭和9)発行の「日本女性」9月号に掲載された、矢田津世子『月と父の憶ひ出』から引用してみよう。
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 中野の新井薬師裏に住んでゐた。/家の裏手は広い原になり、原を越えた遠い丘の上に哲学堂の五重塔がちよつぺり(ママ)みえてゐた。電車の音がしないだけでも助かる、と云ひ、父はそこへひき移つてから幾分元気になった。(中略) 庭を越えて原一面が白銀に波立つてゐた。ふと、原の中に私は人影をみつけた。父に違ひない。
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 彼女の父親は、深夜にバッケが原Click!を散歩するこのエピソードがあった2ヶ月後、新井56番地の家で胃癌により死去している。このあと、上高田216番地へ転居するのだが、「新井薬師裏」は同地番の借家であり、父親が死去した新井56番地とするのは彼女の記憶ちがいだろう。むしろ、バッケが原ごしに井上哲学堂Click!が見える同家は、功運寺Click!門前と表現したほうがいい位置に建っていた。
 また、「哲学堂の五重塔」も記憶ちがいだと思われ、和田山Click!の麓にある光徳院Click!の伽藍と、哲学堂の六賢台Click!とを混同しているように思われる。


 さて、改正道路(山手通り)の工事Click!により、自邸を大家が譲ってくれたひとつ西側の敷地へ引っぱっている矢田邸Click!は、矢田坂から一ノ坂に面するようになった。その家の様子を、1941年(昭和16)7月18日発行の「新潟毎日新聞」に掲載された、矢田津世子『坂の上』から引用してみよう。
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 私の家は、坂の上のとつつきに建つてゐるので、眺望がひらけ、晴れた日には、遠い空に、くつきりと富士もみえる。/こんど、新道路出来(ママ)のため、下のはう(ママ)の家並がとりはらひになつたので、よけいに見晴らしがきくやうになつた。それだけに私の家は、どこからでも、よく見える。まるで、舞台の上の家みたいだと、坂をのぼつてくる知り合ひが悪口をいふ。/明朗で、開放的でなかなかいゝでせう。と私は口惜まぎれに、うそぶいておく。
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 ところが、改正道路(山手通り)工事にともない一ノ坂から坂下の中ノ道へと抜ける斜面の南半分が、長さ60~70mにわたって断ち切られたため、矢田邸はのちに絶壁の上に建っているような風情となってしまう。また、この文章が書かれた当時、一ノ坂に沿った家々が改正道路工事で立ち退き、周辺の樹木も伐採されはじめていたため、夏になると訪問者は日蔭のない急坂を上らなければならなかった。
 さらに工事が進むと、改正道路の坂下を水平面として、一ノ坂をより急勾配の坂道へと改造しなければならなくなった。これは、山手通りの拡幅工事が済んだ現在でも同様で、あまりに急な斜面にはコンクリートの階段が新たに設置されている。つづけて、矢田津世子『坂の上』から引用してみよう。
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 二階の私の部屋からは、坂を上り下りする人がよく見える。/汗をふきふき、息をきらして上つてくる知り合ひが、チヨイトこちらを見上げて、恨めしさうな眼つきをする。さうやつて坂を上る難渋を、まるで私のせゐにして大分、心臓が悪くなつたなどと厭がらせをいふのである。(中略) 坂の上ぐらしの、私の家のものたちは、肩身の狭い思ひである。
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 いまでこそ、山手通りは大幅に拡張され、一ノ坂の長さもかなり短くなってしまった。だが当時は、赤土がむき出しのままの斜面を急傾斜の坂が、いまだかなりの長さでつづいていたものだろう。おそらく、同じ下落合に通う坂道にたとえれば、近衛町Click!に通うバッケ坂Click!や大倉山の権兵衛坂Click!、聖母坂Click!と並行に上る久七坂Click!、徳川邸Click!へ向かう西坂Click!などに匹敵するほどの急勾配だったとみられる。


 1941年(昭和16)現在だから、山手通りが貫通する予定地の家々が立ち退き、道路沿いの地面を切り崩す工事の真っ最中で、原稿が書かれたのと同時期の1941年(昭和16)の空中写真を観察すると、矢田邸の南側と東側が深く落ちこんだ切り通しのような光景になりつつあるのが確認できる。だから、一ノ坂からは“障害物”が徐々になくなり、周囲から広く見通せるような状況になったのだろう。さっそく一ノ坂の電柱には、大きめな広告がベタベタと設置されたらしい。中でも、質屋の看板が矢田津世子には気に入らなかった。
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 坂をながめてゐて、気に入らないのは、二本の電柱である。二本ともに、仰々しくペンキで質屋の広告が出てゐる。「森川質店」ともう一つは「質ハ石神へ」といふのである。この界隈には、質屋へ用のある人が多いと見られても、これでは弁解の余地もない。/坂を上り下りする人たちの眼がしぜん、この電柱へ行く。私は、なんだか済まないやうな気がしてならない。坂を通るたびに、とても、引け目である。
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 自邸の周囲が、道路工事で赤土がむき出しの崖地になりつつあり、あれこれなにかと気に入らない矢田津世子だが、最後にひとつ、下落合の自慢を書き添えている。彼女の『坂の上』から、再び引用してみよう
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 この下落合の辺の自慢は、空気の清澄さにつきると思ふ。街の中から帰つてきて、中井の駅に降りると、いつも、きまつてスツとした肌さむさを感じる。どのやうに暑い日でも、うちわを用ひるやうなことはないといつてよい。家にさへ居れば、風が通り汗ばむやうな暑さを覚えることがないのである。/先夜も、ある集まりのかへり、林芙美子さんといつしよに、中井の駅に降りると、思はず二人して深呼吸してしまつた。/「この辺の空気は、うまいね」/と、林さんもしみじみとそれを感じてをられるらしい。林さんも下落合には、もう長いのである。(中略) きれいな空気を沢山吸つて、それが節米にでも役立てばよいけれど、などとつまらぬことを考へたりした。
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 この原稿が書かれた当時、すでに米は「非常時」の配給制となり、米屋から好きなだけ手に入れることができなくなっていた。だから、米を食べたいだけ食べられない心細さから、米どころ秋田出身の彼女は、思わず「節米」などと書いているのだろう。
 

 『坂の上』が書かれた、わずか2年半後の1944年(昭和19)3月14日、矢田津世子は37歳で肺結核により死去している。もう少し食糧事情がよければ、戦後まで生きのびてなんとか治療の手立てもあったのかもしれないが、作家としてもっとも脂がのる時期が戦時中で、病状が日を追うごとに悪化したのは、なんとも不運としかいいようがないのだ。

◆写真上:一ノ坂の急勾配には、コンクリートの階段が設置されている。松本竣介Click!が撮影した写真には、電柱に「丸喜多質店」の大きな看板が設置された一ノ坂の上り口らしい風景が1枚残っているが、確証がつかめないでいる。
◆写真中上:上は、野方町新井56番地の矢田邸近くにある功運寺。下は、やはり同地番の矢田邸に近い正見寺。江戸三美人のひとり、笠森お仙の墓所としても有名だ。
◆写真中下:上は、坂下が山手通りへと突き当たる一ノ坂の現状。下は、一ノ坂から中井駅前へと抜けるために二ノ坂へ向けて設置された逆S字型道路。
◆写真下:上は、1941年(昭和16/左)と1945年(昭和20/右)の早い時期に撮影された空中写真にみる一ノ坂と矢田邸の様子。下は、道路工事でほとんど消滅した一ノ坂を彷彿とさせる近衛町に通うバッケ坂。